其ノ拾壱 ~世莉樺ノ追憶~
少年にとって最も忌まわしい光景が、脳裏を過る。
否、それを『光景』と呼ぶには違和感が残るだろう。それはきっと――『記憶』だ。少年の瞳に映されてから数か月が経過しているにも関わらず、未だ少年を呪い、糾弾し続ける、心に刻まれた深い傷だ。
その記憶の中で、少年は一人の少女と対面している。黒い霧に身を包む彼女は、その右手に不気味な赤い光を帯びる刀を握っている。
そして――少女は恐ろしいほどの怒り、憎しみ、殺意――おおよそ人間が持つ負の感情に満ち満ちた瞳を覗かせながら、呟く。
《殺してやる……!》
◎ ◎ ◎
返事が無い。一月が手を止め、彼が会計簿に書き込む音が消える。
「……一月先輩?」
返事をしない一月に、世莉樺は声を掛けた。
すると、一月はようやく言葉を返す。
「どうして、そんなことを……!?」
何時も冷静な一月に似合わず、声が震えていた。
世莉樺は困惑する。一月の反応は、世莉樺が全く予期していない物だったのだ。
「え、あの……実は……!」
世莉樺は言葉を濁す。
一月は椅子から立ち上がり、世莉樺の側へと歩み寄った。
「えっと、その……!」
世莉樺は困惑していた。
一月の表情は真剣さを湛えており、鬼の事などを話しても信じてもらえるのか。鬼と成った瑠唯や、呪いを受けて昏睡してしまっている真由の事を話して、受け入れてもらえるのだろうか。
「世莉樺、言ってくれ。頼む」
「!……」
言い淀む世莉樺に、一月は促す。まさか真剣に受け取られるとは思っておらず、世莉樺は戸惑っていた。
しかし少しの後。意を決して、世莉樺は話してみる事に決めた。信頼し、尊敬する先輩である一月にならば相談してもいい、そう思ったのだ。
何よりも、自分一人で抱え込むには大きすぎる事だと感じていたから。
「……馬鹿馬鹿しいって思われる話かもしれないですけど」
もう、狂っていると思われても構わない。誰にでも構わないから聞いてもらいたい。今自分が抱えている重い物を、少しでも誰かに知ってもらいたい。
そう思った世莉樺は、一月に全てを打ち明けた。
廃校となった小学校、笹羅木黒霧での出来事、黒霧を纏った幼い少女、瑠唯の事。彼女の黒霧に貫かれ、妹の真由が昏睡してしまった事。とにかく、自身が体験した非現実的な出来事を、世莉樺は包み隠さずに、一月へ告げた。
端から聞けば、どう考えても在り得ない話――しかし一月は、一度たりとも口を挟まなかった。
「……」
聞き終えた一月は、表情を驚愕に染める。それは、世莉樺の話が現実離れし過ぎているだけ、という事だけが原因では無かった。
彼は無言で、机の上に放置された新聞に視線を向けた。見出しの『相次ぐ行方不明、警察の捜索の成果無し。神隠しか?』という文字が、はっきりと読み取れる。
「一月先輩、疑わないんですか? こんな話……」
「別に。そんな事を嘘で言ったって……何の特にもならないだろ」
一月の表情は真剣で、決して出まかせを言っているようには見えなかった。
「先輩……」
世莉樺は安堵と、半ば驚きを感じる。
まさか、信じてもらえるなどとは思っていなかったからだ。
「まあ、座ろうよ」
一月は世莉樺に促しつつ、部室の床へ座る。促されるまま、世莉樺も彼の向かいの位置へ腰を下ろした。
「その鬼……由浅木瑠唯って子は、世莉樺の知り合いだったの?」
「え……まあ」
一月の問い掛けに、世莉樺は応じる。
二人しかいない部室内には、雨音が響き続けていた。
「瑠唯ちゃんと初めて会ったのは、まだ私が小学校だった頃で……公園だった気がします」
世莉樺が語り始めると、一月は小さく頷く。一月は何も言葉を発しなかったが、世莉樺には『続けて』という意味に取れた。
「あの子……周りの子達から外れて、一人で花に飛んでる蝶見てて……どこか寂しそうでした」
今でも世莉樺は、瑠唯を初めて見た時の事を覚えていた。
横にボリュームを持ったショートヘアに、黄色いパーカーを着ていた彼女。さらには、花に舞う白い蝶を見つめる、幼い年齢にはどこか不釣り合いな物悲しげな横顔すらも。
「それで私、ちょっと声掛けてみたんです。それを切っ掛けに仲良くなって、それから何度か会うようになって……」
一月は何も言わず、世莉樺の話を聞いていた。
「それである日、私瑠唯ちゃんと約束したんです。明日もまた遊ぼうって、指切りげんまんして……だけど、私はその約束を……」
そこで、世莉樺の言葉は止まる。止まってしまう。
数秒の沈黙の後、世莉樺は言葉を繋げた。
「破った……いえ、守れなかった。だって、その日の夜に……」
再び、世莉樺の言葉が止まる。彼女の脳裏に、その光景が浮かぶ。
辺りを支配する業火、襲い来る熱気、逃げ惑う自分自身の姿、そして――。
(悠斗……!)
固く目を閉じ、世莉樺は悲痛な面持ちに表情を染める。
右肩に手を当て、まるでその部分を守るように固く握る。彼女の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「……世莉樺?」
一月の声で、世莉樺は我に戻った。
「! すいません……私……!」
視線を上げ、彼女はうっすらと浮かんだ涙を拭う。
彼女の様子を気遣いつつ、一月は世莉樺に問いを重ねる。
「廃校でその子を見た時……世莉樺、どう思った?」
「……信じられませんでした」
世莉樺は、部室の壁にはめ込まれた窓に視線を向ける。
窓の向こうには、大雨に降られる校庭が見えた。
「蜘蛛の巣にかかった蝶を逃がしてあげたりして、瑠唯ちゃん、すごく優しい子だったのに……あんな姿で、しかもあんな残酷な事を……!」
廃校で見た戦慄すべき光景が、世莉樺の頭を支配する。
腹部を繰り返し刺され、苦しみ抜いた末に死んだ少年。天井から無数に、まるでてるてる坊主のように吊り下げられた死体。あの恐ろしい、地獄さながらの光景を作りだしたのは――心優しい筈だった少女の、由浅木瑠唯。
世莉樺には、とても受け入れ難い事だった。
「そっか……」
一月は発する。
俯くように視線を下へ向け、絞り出すかのようにか細い声で。
「だとしたら、きっとその子も…………音みたいに……」
雨音にかき消され、世莉樺は部分的に聞き取れなかった。
しかし、誰か人の名前を言ったように聞こえる。
「先輩?」
世莉樺が怪訝そうに言うと、一月ははっとしたように視線を上げた。
「! ……いや、何でも無い」
一月は立ち上がり、剣道部の用具室へと歩を進め始めた。
途中で世莉樺を振り返り、
「世莉樺、そろそろ開始時刻になる。準備して」
そう言い残し、一月は再びを歩進め始めた。
彼の背中を、世莉樺は呼び止めた。
「あの、一月先輩!」
一月は振り返る。
「信じてくれるんですか? こんな、鬼の話なんて……」
「信じるよ」
僅かな間も置かずに、一月は即答する。彼は世莉樺から視線を外し、再び彼女に背を向けた。
そして、雨音の中に溶け入れるように紡ぐ。
「鬼を見たのは……君だけじゃないから」
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