其ノ拾弐 ~悠太ノ想イ~



 世莉樺よりも早く帰宅した悠太は、着替えを済ますと冷蔵庫を開けた。彼の目当ては、好物のプリンである。

 帰宅したら、始めに手を洗え。何時もなら世莉樺や真由に咎められるものの、悠太の二人の姉は、どちらも家には居ない。 

 世莉樺は部活中(早めに帰るとは言っていたが)、そして真由は、病院に居る。


「……あれ?」


 悠太は怪訝に呟く。

 今日の朝、冷蔵庫の二段目に鎮座しているのを確認した筈のプリンが、影も形も無かったから。周囲の食材、悠太の嫌いなピーマンやニンジンを除けてみても、プリンは見つからない。

 幼い少年は、眉間に皺を寄せる。


「おっかしいな……世莉樺姉ちゃん、食べたのかな?」


 内心、悠太は残念に思う。けれど彼は、プリンを食べられなかった事を特に引きずらずに、台所から出た。

 雨音が支配する居間を歩き、二階へ続く階段を上がろうとする。


「!」


 その悠太の視界に、ふとある物が映った。居間の向こう側に位置する畳の間に設置された、仏壇だ。

 仄かな線香の香りが、悠太の鼻に届く。


「……」


 幼い少年は、まるで誘われるように畳の間へと足を運ぶ。

 すると――仏壇の内部に飾られた、一人の少年の写真が悠太の目に映った。歳の頃十歳くらいの、今の悠太よりも少し年上の少年だ。


「悠斗……兄ちゃん」


 少年の呟きが、雨音にかき消されていく。

 写真の中で笑顔を浮かべる彼、雪臺悠斗――悠太の兄であり、真由の兄でもあり、そして、世莉樺の弟だ。雪臺家の第二子として生まれた悠斗は、同時に雪臺家の長男でもあった。 

 けれど悠太は、悠斗と話した事が無い。さらには、写真でしか兄の顔を見た事が無い。そして今までもこれからも、悠太は悠斗と話す事も、顔を見る事も永久に無い。

 何故なら、悠斗はもうこの世に居ないのだから。


 何度か、悠太は母や世莉樺や真由に、自分の兄の事を尋ねた事があった。

 しかし、その度に皆は悲しい面持ちと共に、瞳に涙を浮かべた。


 ――悠斗兄ちゃんは、死んじゃったんだ。僕や姉ちゃん達と違って、もうこの世には居ないんだ。


 幼い悠太でも、その事は分かっていた。

 けれども、『死』について、悠太ははっきりと理解出来ていない。これまでにも悠太は、何度か『死』の事を考えた事があった。


 ――死んだら、どうなるんだろう? 死んでしまった悠斗兄ちゃんは、今どこに居るんだろう?


 けれども、彼は明確な答えを導き出す事は出来ない。加えて、悠太は兄がどうして命を落としたのか、全く知らなかった。

 一度世莉樺や母に質してみた事はあったが、それ以来悠太はその話題について世莉樺や母に触れるのを止める事にした。

 悠斗の話題を出せば――世莉樺や母、真由、自分の家族達が悲しい表情を浮かべ、瞳に涙を浮かべるからだ。


 悠太は、家族が大好きだった。時に憎たらしく思う事もあるが、それでも。長期出張中の父も、怒れば鬼のような母も、よく喧嘩をする真由も、そして時に厳しくも、いつも自分や真由を気にかけてくれる世莉樺も。

 だから、家族が不幸に遭ったり彼らの悲しい顔を見ると、悠太まで悲しい気持ちになってしまう。

 真由が昏睡し、その事でさらに、世莉樺も辛い思いをしている――そう思うと、悠太は心が凍りつきそうな想いになる。


「兄ちゃん……」


 話した事も、写真以外では顔を見た事すら無い自身の兄に、少年は語りかける。自分の声が兄に届いている筈など無い、それでも幼い少年は、言葉を紡ぎ出す。


「真由姉ちゃんを……それと世莉樺姉ちゃんを助けてあげて」


 悠太は、仏壇の前に敷かれた座布団の上に腰を下ろした。

 そして、もし存命なら自分より幾つも年上になっているであろう悠斗の写真を見つめ、続ける。


「真由姉ちゃんも、世莉樺姉ちゃんも……僕、大好きなんだ。たまにケンカもするけど、それでも。僕は小さくて何も出来ないから……だから」


 雨音が、悠太を包み込んでいた。


「お願い……悠斗兄ちゃん」


 最後にそう残し、悠太はいつも世莉樺や母がやるように、仏壇に置かれた鈴を鳴らす。

 耳に心地良く響く音色が、悠太の鼓膜を揺らす。鈴棒を置き、悠斗は兄の写真に手を合わせ、両目を閉じた。


 その時――悠太の後方から、ガタン、という音が響いた。


「!?」


 はっとして、振り返る。

 居間の棚に置かれた写真立てが、倒れていた。

 写真には、世莉樺の父に、世莉樺、悠斗、真由、世莉樺の母――その腕には、まだ赤ん坊の悠太が抱かれていた。まだ悠斗が生きていて、悠太は赤ん坊だった頃――雪臺家が家族旅行に出た時の、記念撮影写真である。

 写真で笑顔を見せる世莉樺も真由も、まだ幼い。

 そして、もう二度と取り戻せない悠斗の笑顔が、そこにあった。


 写真立ては、しっかりと棚の上に立てられていた。家の中なので当然風は無いし、地震が起こった訳でも無い。

 それなのに何故、倒れたのか。


「悠斗、兄ちゃん……?」


 気が付いた時、悠太はもう逢えない、写真でしかその顔を見られない兄の名を、誰にともなく発していた。

 その直後、玄関の扉が開かれる音が聞こえ、悠太は玄関の方を向く。

 同時に、「ただいま」という世莉樺の声が幼い少年の耳に入った。



  ◎  ◎  ◎



 帰宅した世莉樺は、居間で悠太の姿を捉えた。


「悠太」


「あ、姉ちゃん……」


 どこか覇気の抜けたような弟の返事に、世莉樺は違和感を感じる。

 彼女は悠太の側の棚、その上に置かれた倒れた写真立てに気付いた。


「写真立て……何してるの?」


 世莉樺が問うと、悠太は首を横に振りつつ、


「僕じゃないよ、勝手に倒れて……」


「……」


 世莉樺はそれ以上弟に言葉を発さず、写真立てを元のように立てた。

 すると、間髪入れずに悠太から言葉が飛んでくる。


「世莉樺姉ちゃん、僕のプリン食べた?」


「え、ううん?」


 世莉樺は、悠太に視線を向ける。

 幼稚園児の弟は、頬を膨らませており、眉の両端を吊り上げていた。


「姉ちゃん、嘘はいけないって言ったよね?」


「いや、本当に私プリンなんて食べてないし……」


 途端。悠太が追い打つように声を上げる。


「だって、家には僕と姉ちゃんしかいないじゃん! 姉ちゃんが食べてないなら、誰が食べたのさ!?」


 弟の権幕に、世莉樺は思わずだじろいだ。

 プリンを食べられた怨み――ふと、世莉樺の脳裏にある言葉が浮かぶ。食い物の怨みは恐ろしい、という言葉が。


「え!? いやでも、私は本当に……!」


 実際、世莉樺はプリンなど食べた覚えは無かった。そもそも、彼女はスタイル維持の為、甘い物は控えている最中なのである。

 だとしたら、悠太のプリンを食べた犯人は誰なのか。

 世莉樺と悠太しかいないこの家で、他に誰が居るのか――と、世莉樺は思い出した。


「あ、まさか……?」


 もう一人、居た。

 世莉樺と悠太の他にも、この家におり、かつ冷蔵庫のプリンを食べられる……と思われる者が。


 世莉樺は居間を後にし、階段を駆け上がる。

 向かう先は、彼女の自室。なお、悠太には百円玉を一枚あげ、示談交渉済みだ。


「炬白、 悠太のプリン食べたでしょ……!?」


 黒い着物を纏った、やんちゃそうな面持ちを持つ少年に向け、世莉樺は紡ぐ。

 炬白は背中を壁に寄り掛からせていた。世莉樺が学校に行っている間、彼は留守番をしていたのである。


「ん?」


 特に狼狽える様子も無く、炬白は世莉樺を向く。

 その口元には、黒い物体……プリンのカラメルが付いていた。動かぬ証拠である。


「うん。食ったよ?」


 炬白はけろりとした表情を浮かべていた。

 口元の証拠――プリンの残骸を、始末しようともしない。どうやら、精霊という存在も食物を摂取する事はあるようだった。


「あんまり勝手な事はしないでって言ったじゃん……! 悠太には炬白の姿は見えなくても、炬白が物を持ったりしたら宙に浮いて見えるんだから……」


「分かってるよ」


 炬白は、身を前方へ出す。

 彼の腰に下げた銀色の鎖が床と擦れ合い、ジャラリと金属音が鳴る。


「けど姉ちゃん、プリンぐらいはいいんじゃない? 姉ちゃん、オレに命を救われたカリがあるわけだし」


「う……」


 一応、筋の通っている話だった。世莉樺は反論し辛く、言葉を濁す。

 すると、炬白は先だって発した。


「ま、プリン一個ぐらいで返せるカリでもないよね。他にも何かしてもらわないと……」


「え、ええっ!?」


 狼狽える世莉樺。

 対して、炬白は笑みを浮かべていた。幼い外見に相応の、無垢で無邪気な笑顔である。


「ま、カリはいずれ返してもらうって事にして……姉ちゃん、しなきゃいけない事があるんじゃないの?」


 しかし、その言葉を発した頃には、炬白の面持ちは真剣な物に変わっていた。

 無邪気でやんちゃながらも、真に迫る物を感じさせる瞳で世莉樺を見据える炬白。幼い少年が相手であるにも関わらず、世莉樺は思わず緊張を感じてしまう。


「しなきゃいけない事……!?」


 世莉樺が返すと、炬白はその場に立ち上がる。着物が発する衣擦れの音、そして彼の腰の鎖が、音を鳴らす。

 立ち上がり、炬白は世莉樺の側へと歩み寄った。

 炬白は、間近で世莉樺の顔を見上げつつ、 


「そう……きっと姉ちゃんにしか、出来ない事が」


 世莉樺は返す言葉を見つけられない。彼女は数度、瞬きをするのみだ。

 言葉を濁していると、炬白は先立って発した。


「止めるんだよ。あの鬼……由浅木瑠唯を」





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