其ノ拾 ~曇天ノ下~


「医学的には問題はありません。何故、目を覚まさないのか……」


 鵲村の病院の一室。銀縁の眼鏡を掛けた初老の医師が、手にしたカルテと世莉樺の顔を交互に見た後で告げた。

 医師の眼鏡には、制服姿で茶色いロングヘアの少女とその隣に立つ幼い少年が映っている。雪臺世莉樺と、その弟の悠太だ。


「そんな……何で真由姉ちゃんが!?」


 医師に食って掛かる悠太、世莉樺はその背中を引き、弟を引き留める。弟が視線を合わせてくると、世莉樺は首を小さく横に振った。

 話によると、真由の担当医師は何も打つ手が無かったらしい。というのも、真由には何も昏睡するような原因が見つからなかったからだ。

 こんな患者は初めてだ、そう告げられた。


「世莉樺姉ちゃん……」


 世莉樺は、医師に問う。


「真由は……妹は大丈夫なんですか?」


 医師は、


「意識が無い事、それから体温の低下が気になる所ですが……今の所は、特に心配は要らないでしょう」


 医師には、真由は『何の前触れも無く、突然倒れた』と説明してあった。鬼の黒霧で体を貫かれた、などと言った所で信用してもらえる筈など無いし、正気を疑われる事になりかねない。

 世莉樺は一先ず安堵し、医師に返した。


「分かりました。妹の事……よろしくお願いします」


 世莉樺が医師に一礼すると、その後ろに居た悠太もぎこちなく礼をした。



  ◎  ◎  ◎



 パイプベッドの上で横になる真由の頬は、やはり体温を帯びていないかのように冷たかった。

 表情だけを見れば、ただ眠っているだけと言われても疑いは感じない。しかし、真由は決して目を覚まさない。瞼を開ける事も、側に居る世莉樺と悠太を見る事も無い。


「世莉樺姉ちゃん……お母さんに連絡しなくてもいいの?」


 悠太が問うと、パイプベッド脇の椅子に腰かけた世莉樺は応じた。


「そうしたいんだけど、携帯落としてきちゃったの。お母さんの携帯も、勤務先の番号も、私分からないし……」


 悠太は俯く。

 病室の窓には雨粒が当たり、外は依然大雨である事を示していた。耳障りな雨音が支配する病室内――世莉樺と悠太は、押し黙るかのように何も発しない。

 世莉樺も悠太も、真由の身を案じているのだ。


(真由……何で、こんな目に……)


 妹の頬に触れつつ、世莉樺は思う。

 全ての出来事が、夢だったならどんなに良い事か、と。廃校に行った事も、そこで恐ろしい目に遭った事も、真由が黒霧に貫かれた事も。

 しかし、夢として片付けるには余りにも生々しくて、そしてリアリティがあり過ぎた。


「……!」


 脳裏に蘇る光景に、世莉樺は両目を固く閉じる。

 黒霧を纏って悍ましく笑う瑠唯の姿が、世莉樺の頭に焼き付いていた。真由をこのような状況に陥れたのは、自身も良く知っている瑠唯という少女――その事が余りにも恐ろしくて、受け入れ難かった。

 ふと、世莉樺は瑠唯の言葉を思い出す。


“お姉さん……どうして来てくれなかったの? 約束したよね、また公園で会おうって……”


 何よりも、世莉樺の頭に残っている瑠唯の言葉。


(ひょっとして、あの時の……)


 世莉樺はふと、自身の右肩に手を触れる。あの大きく痛々しい火傷の跡が刻みつけられた部分だ。

 その時、世莉樺の後ろに居た悠太が、姉の背中に声を掛ける。


「姉ちゃん、ちょっと僕……トイレ」


「あ……うん」


 真由に気が傾いていた所為か、世莉樺は無意識に素っ気なく返事していた。悠太が出て行き、病室には世莉樺、そしてベッドに横たわる真由だけが残される。


(私が約束を守らなかったから、瑠唯ちゃんは……でも、どうしてあの子があんな、鬼なんかに……!?)


 世莉樺が考えを巡らせていたその時、彼女の背後から少年の声が発せられる。


「長くないよ、その子」


 世莉樺は椅子に座ったまま、はっとして振り返る。


「! 炬白……君!?」


「炬白でいいよ。姉ちゃん」


 少年が何時の間にか、世莉樺の後ろに立っていた。黒地の着物を着た、腰に銀色の鎖を下げたやんちゃそうな面持ちを持つ幼い男の子――炬白だ。

 彼は世莉樺と視線を合わせた後、ベッドの上の真由に視線を向ける。

 すると彼は、真由に向かって歩み寄り始めた。


「どういう意味、長くないって……!」


「文字通りの意味だよ」


 炬白は真由の側に立ち、彼女の顔を見つめつつ世莉樺に紡ぐ。

 幼い外見とは相反し、落ち着いた口調だった。


「鬼の呪いがこの子を蝕んでるんだ。急がないと、死んじゃうよ」


 ぞっとするような事を、炬白は言ってのける。世莉樺には、炬白の言葉が決して嘘ではない事が分かった。


「そんな……! っ、急ぐって……! どうすればいいの!?」


 取り乱す世莉樺。

 彼女は膝を折り、炬白の両肩に手を置く。


「お願い、教えて!」


 炬白は、即答した。


「その子を助ける方法はただ一つ、鬼の呪いから解放してあげればいいんだよ」


 少年は、そっと自身の肩から世莉樺の両手をどける。

 世莉樺と視線を合わせつつ、彼は言った。


「鬼さえ倒せば、真由を縛り付けている呪いは消えるから」


 ある言葉が引っ掛かり、世莉樺は少年に問う。


「ねえ待って、鬼って一体何なの!? 知ってるなら教えて!」


 世莉樺はもう、鬼の存在を信じて疑っていない。否。そもそも初めから、疑いようなど無かったのだ。

 雨音が支配する病室の中、炬白は応じる。


「村の言い伝え通りさ。人間が死んでも、その想いは現世に残される。死者の怒りや恨みや憎しみは、やがて形を成して……鬼に成るんだよ」


 常識ならば、考えられない話である。

 それでも世莉樺は口を挟もうとせずに、炬白の言葉に耳を貸していた。


「鬼は自分の負念を鎮める為に生者を襲って、その魂を取り込む。取り込まれた人間も鬼の一部になって、その呪いは永遠に……」


 炬白は口を噤む。

 世莉樺が、問いを重ねた。


「だったら、瑠唯ちゃんは鬼に殺されて……!?」


「いや、あの子は……由浅木瑠唯はきっと違う」


 炬白は、即座に否定した。

 彼は世莉樺から視線を外し、ぽつりと呟くかのように言う。 


「何だか……上手く言えないんだけど、あの子からは……」


 その時、病室の扉が開かれた。

 悠太がトイレから戻った、と思った世莉樺は視線を扉へ向ける。しかし、扉を開けたのは悠太では無かった。

 顔を覗かせたのは、病院の看護婦である。


「雪臺さん、面会時間終了ですよ」



  ◎  ◎  ◎



 翌日を迎えても、鵲村を覆う曇天が晴れる事は無かった。太陽の光を遮る灰色の雲は、容赦なく村に冷たい雨を落とし続けている。

 世莉樺はその日学校に行くか悩んだが、結局行く事にした。異常で非現実的な体験をしたと言えども、それを理由に学校を休むのは筋が通らない気がしたのである。

 真由の居ない食卓で朝食を済ませ、登校し、世莉樺は授業を受けた。数人の友人から声を掛けられたものの、どう応じたかは覚えていない。一時間目の数学、二時間目の現代文、三時間目の科学、四時間目の英語、五時間目の古文。どれも世莉樺は、教師の言葉をただ聞いて流すように受けていた。

 真由の事、それから瑠唯の事が頭から離れなかったのだ。


 そして放課後、世莉樺はいつも通り竹刀袋を背負い、剣道部の部室へと足を運んだ。

 部室内にはやはり、雨が屋根を叩く音が拡散していた。


「あ、お疲れ様です」


 机に向かってシャープペンを走らせる少年に、世莉樺は労いの言葉を紡ぐ。

 少年は一度、机の上のノートから世莉樺へと視線を移した。


「ああ、お疲れ」


 そう返すと、彼は再びノートにシャープペンを走らせる。

 どうやら、部の会計簿を付けているらしい。


「朱美と佑真は?」


 少年に問われ、世莉樺は応じた。


「二人とも、今日は学校来てないみたいです」


 少年の背中から、「そっか……」と返事が返って来る。

 一時の沈黙の後、世莉樺は冗談交じりに紡いだ。


「もしかして二人とも、昨日一月先輩に言われた事が効いたんでしょうかね?」


 会計簿を付ける少年、一月は、少しの間を置いて返答した。


「言いたくなかったよ、だけど言わなくちゃいけない気がしたんだ。でないと……」


 金雀枝一月――彼は二年生で、世莉樺と同じ剣道部に所属している。物静かな性格ながら後輩達への面倒見は良く、さらに小学校から竹刀を持ち始めたとの事で、剣道の腕はかなりの物だ。

 正直な所、余り気さくとは言えない、どこか陰のある少年。しかし世莉樺を初めとして、一年生は皆一月を慕っていた。


「ところでさ、何か悩み事でもあるの?」


「え?」


 一月からの問い掛けに、世莉樺は驚く。

 会計簿に書き込みながら、一月は言葉を繋げた。


「いや。何か世莉樺の声、いつもより元気ない感じがするっていうか」


「……」


 世莉樺は小さく、息を吐く。

 彼女は勿論、クラスの誰にも鬼の事など話していなかった。話した所で笑いものにされるか、或いは馬鹿にされる事が目に見えるからである。

 しかし、世莉樺はふと思う。


(……一月先輩になら)


 もしかしたら、一月ならば話ぐらい聞いてくれるかも知れない――その考えが、世莉樺を過る。

 後押しするように、一月から発せられた。


「悩みでもあるなら、僕で良ければ相談に乗るよ」


 世莉樺は決断する。

 数秒の沈黙の後、雨音響く剣道部の部室で――世莉樺は、誰にも出来なかった相談をする。


「一月先輩」


「ん?」


 世莉樺が呼ぶと、一月は彼女に背を向けたまま、応じた。

 窓の向こうから、雷の鳴る音が響き渡る。


「先輩はその……鵲村に伝わる鬼の存在って、信じていますか?」





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