其ノ九 ~世莉樺ト炬白~

 真由に気を傾けていた世莉樺は、自身がどのようにして自宅に戻ったのか分からなかった。気が付いた時には自身の周囲を白い霧が覆い包み、霧が晴れた途端、周りには荒廃した小学校の体育館では無く、自室の見慣れた風景があった。

 状況が分からず、困惑する。


「どうして……!?」


 何時の間にか戻っていたのは、最も生活に密着しているであろう場所だった。世莉樺の発した言葉が、耳障りな雨音に吸い込まれていく。

 思わず彼女は、きょろきょろと辺りを見回した。ベッドや、学習机や、棚の上に飾られた兎のぬいぐるみ。そのどれも、世莉樺が見慣れた物だ。

 窓には雨粒が体当たりのようにぶつかり、弾けて行く。その向こうには、曇天に覆い包まれた鵲村の風景。

 そして、カーペットの敷かれた床の上で眠るように横たわる真由を見つめ、世莉樺は思い出す。


「!」


 直ぐに世莉樺は膝を折り、妹に触れる。自身よりも遥かに小さな小学三年生の少女は、一切の反応を示さなかった。姉の声に応じる事も、目を開けて世莉樺を見る事すらも無かった。

 いきなり自宅に戻ったのは何故か、状況が呑み込めない、等と言っている余裕は残されていなかった。

 今、世莉樺が何よりも優先すべきは、真由の身だった。瑠唯の発する黒霧の槍に貫かれた自身の妹、彼女を助ける事こそが他の何よりも先決だった。


(とにかく……病院に!)


 世莉樺は制服のポケットを探りつつ、もう片方の手で真由の体を調べる。

 外傷は無く、真由の服に損傷は見当たらなかった。けれど、それは世莉樺にとって僅かな安心材料にもならない。

 黒霧の槍に貫かれた事こそ、真由が昏睡し、まるで死人のように目を覚まさない原因に変わりはないのだから。脈がある事と微かに呼吸している事だけが、真由が生きている事の証だった。


「あれ!? 携帯……!」


 ポケットを探っていた世莉樺は、自身の携帯電話が失くなっている事に気付く。


(あの学校に、落としてきちゃったんだ……!)


 自身が情けなく感じた。

 しかし、世莉樺にはそんな事に構っている余裕はない。


「仕方ない、下の電話で……!」


 携帯が無いなら、家にある電話で救急車を呼ぶしか無い。そう考えた世莉樺は、真由の側から腰を上げ、自室から出て行こうとする。

 その背中に、少年の声が発せられた。


「無駄だよ」


 世莉樺の足が止まる、止められる。ドアノブを握ろうとした手を降ろし、驚きに表情を染めつつ、世莉樺は振り返る。

 雨音が支配する、世莉樺の部屋――そこには、居た。黒着物に身を包み、腰に銀色の鎖を下げた、やんちゃそうな雰囲気を持つ幼い少年だ。


「! 君、さっきの……!? どうやってここに……!」


 紛れも無く、笹羅木小学校で世莉樺の前に現れた少年、炬白である。

 彼は世莉樺を見つめつつ、紡いだ。


「病院になんか連れてったって無駄さ」


「……!?」


 怪訝な表情を浮かべる世莉樺。

 彼女を余所に、炬白は真由に歩み寄る。


「この子……鬼の呪いに縛られてるから」


 どう考えようとも、現実的でない事を言う少年に、世莉樺は思わず声を荒げる。


「鬼とか呪いだとか! そんな……」


 けれど、世莉樺はそこで言葉を濁してしまう。

 自身が遭った状況、廃校となった小学校で見た光景。黒霧に首を絞められた事、黒霧に首を吊らされる幻、てるてる坊主のように天井から無数に吊り下げられた、死体――だが、何よりも強烈に世莉樺の頭に刻み込まれているのは、由浅木瑠唯の姿だった。

 黒霧にその身を包ませ、悍ましく笑いながら自分を殺そうとした、幼い少女。忘れようにも、忘れられる物ではない。


「現実を受け入れられない? 世莉樺」


「よ、呼び捨て……!?」


 世莉樺の言葉を受けると、炬白は考えるように視線を泳がせ、こう返した。


「ダメ? じゃあ……姉ちゃん」


 少年の視線が、再び世莉樺と合う。何の躊躇いも無く『姉ちゃん』と呼ぶ少年が失礼に感じ、世莉樺はむっとした表情を浮かべた。

 が、彼は世莉樺の様子を気に留める様子も無く、続ける。


「オレが助けなかったら、姉ちゃん今頃他の人と同じように殺されて……取り込まれてたよ」


 世莉樺が返事を返す間も無く、炬白は言葉を繋げる。


「由浅木瑠唯……いや、あの『鬼』に」


「鬼って何……!?」


 気が付けば、世莉樺は非現実的な事を受け入れていた。

 自身が当事者であるが故、拒絶のしようなど無かったのだ。


「姉ちゃん、聞いた事くらいない? この鵲村の言い伝えの事」


 炬白からの問いかけに、世莉樺は視線を逸らす。

 少し考えると、彼女の頭にある事が浮かんだ。いつ聞いたのかも分からない、この鵲村に伝承される言い伝えの事だ。世莉樺が記憶している限りでは、死人の負念はこの世に残され、やがて『鬼』となる……などと記述されていた筈だ。


「確かに聞いた事はあるけど……!」


「単なる馬鹿げた御伽噺だって思う? でも姉ちゃん、自分で見ちゃったじゃん」


 炬白の言う通りだった。世莉樺は返す言葉を見つけられずに、口をつぐむ。

 すると、先立つように炬白が言った。


「死んだ者の負念が寄せ集まって、形を成した存在……それが鬼さ。今は由浅木瑠唯の姿で居るみたいだけど」


 はっとしたように、世莉樺は少年に問う。


「ねえ、一体どういうこと!? 正直、鬼の事なんてまだ信じられないけど……なんであの瑠唯ちゃんが!?」


 続いてもう一つ、世莉樺の頭に疑問が浮かんだ。

 今彼女の目の前に居る、炬白の事である。


「それと……あなた、一体何者なの!? あんな光の鎖、どう考えたって普通の人に出来る訳……!」


 世莉樺が発したのは、妥当かつ率直な疑問である。

 鎖に紫の光を纏らせた事に加え、炬白は何の気配も無く、いきなり世莉樺の部屋に現れた。窓は鍵がかかっていたし、玄関が開く音も、世莉樺の部屋に続く階段を上る音も聞こえなかった。

 どう考えても、普通の人間には成しえない業を幾つもやってのける少年――炬白は答えた。外見相応の、無邪気な声で。


「人には出来ない……か。そりゃそうさ、オレは人じゃなくて『精霊』なんだから」


 これまで聞いた覚えの無い言葉に、世莉樺は一瞬返す言葉を失う。


「しょう……りょう……!?」


 その時だった。突然、世莉樺の部屋へ続く扉が開かれる。

 同時に、幼い少年の声が世莉樺に向けて発せられた。


「世莉樺姉ちゃん、いつ帰って来たの?」


 声の主は、雪臺悠太である。

 世莉樺と真由の弟で、雪臺家の末っ子だ。


「ていうか、さっきから誰と話して……?」


 ドア越しに、悠太は世莉樺と炬白の会話を聞いていたようだった。


「あ、ちょっとこの子とね……」


 世莉樺は、視線で炬白を指し示す。

 すると、悠太から思いもしない言葉が発せられる。


「え、この子って? どこ? 誰?」


「……? いやあの、だから……」


 世莉樺は戸惑う。

 悠太の面持ちは、世莉樺には冗談を言っているようには見えない。


(ちょ、どういう事……!?)


「まだ言ってなかったけど」


 世莉樺に向かって発したのは、炬白である。


「オレの姿、姉ちゃん以外には見えないから。勿論、声も聞こえない」


「え、本当に……!?」


 世莉樺が炬白に返すと、


「? 姉ちゃん、何か言った?」


「! あ、いや、何でも無いから!」


 慌てふためき、世莉樺は応じる。

 炬白が言っている事が本当なら(恐らく本当に違いないのだろうが)、世莉樺は一人で空想の相手と話しているように見えるだろう。


「?」


 悠太は怪訝な表情を浮かべていた物の、それ以上世莉樺に問いを重ねてくる事は無かった。

 代わりに、


「世莉樺姉ちゃん、真由姉ちゃんどうしたの?」


「!」


 世莉樺は、改めて真由に視線を移す。

 彼女は、弟の問いに答える事は出来なかった。


「悠太、私ちょっと救急車呼んで来るから!」


 炬白の話では、真由は鬼の呪いを受けた。

 病院に連れて行っても無駄と言われていた物の、世莉樺はただ手を拱いている事は出来なかった。妹の身に何が起きているのか把握しきれていない以上、病院に連れて行くべきと判断したのである。


「え、ちょっと世莉樺姉ちゃん!?」


 弟の呼びかけにも応じず、世莉樺は彼の隣を走り抜け、階段を駆け下りる。

 悠太が一人、部屋に残される。

 炬白は、世莉樺の二人の弟妹を見つめていた。まだ状況を呑み込めていない悠太と、そしてカーペットの上に伏す真由の姿が、その瞳に映っている。


「……」


 言葉では言い表しにくい面持ち――悲しさとも取れれば、はたまた嬉しさも感じ取れるような、両極端の感情が感じ取れる瞳で。

 悠太は勿論、自身の側に居る黒い着物を纏った少年には気付いていない。





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