其ノ八 ~炬白~

《……邪魔、消えてよ》


 由浅木瑠唯の忌々しげな視線は、黒着物の少年に向けられていた。彼は、何も応じない。

 瑠唯に首を絞められた影響なのだろう、世莉樺は体の自由が効かなくなっていた。


(ぐ……!)


 足に力が入らず、世莉樺は立ち上がる事も出来ない。

 彼女は床に這いつくばる姿勢のまま、自身の後ろに立つ少年を見る。


「君……早く逃げて! じゃないと殺される!」


 世莉樺は、黒着物の少年の身を案じていた。二人の弟妹を持つ姉としての本能故か、自身よりも、彼の事の方が心配だったのだ。

 しかし、少年は世莉樺の言葉に応じない。応じる所か、世莉樺に視線を向ける事すら無かった。


「ちょっと……君、聞こえてるんでしょ!?」


「聞こえてる。それとオレの名前は『君』じゃないよ」


 少年は、今度は世莉樺に応じた。どこか小生意気だが、しかし意思の強そうな声である。


「オレは炬白だよ」


 黒着物を纏い、こげ茶色の豊かな髪を持つ少年は、自らを『炬白』と名乗った。炬白は、その両手に持った鎖をガチャリと鳴らす。

 世莉樺からは、炬白の横顔しか視認する事が出来ない。歳の頃十歳程度と言えども、その容姿は整っており、挙げるような欠点は見当たらなかった。

 ――将来格好よくなりそうな子だ、こんな最中でも世莉樺はふと思う。


「あの化け物から助けに来たんだ。雪臺世莉樺」


 炬白の言葉に、世莉樺は驚愕した。


「何で、私の名前を……!?」


 直後、強風が吹き荒れるような風音が、荒廃した体育館内を走る。

 風では無く、黒霧が嵐のように舞う。世莉樺と炬白は、ほぼ同時にその発生源に視線を向けた。


《消えてって言ってるのに……!》


 渦巻く黒霧の中心に立ち、まるで従えるかのように黒霧を操る瑠唯。人智を超えた力で世莉樺を殺そうとした幼い少女、その姿は悍ましく、恐ろしかった。

 黄色いパーカーに、横にボリュームを持つショートヘア。しかし、何よりも目を引くのは――見る者を戦慄させる威圧感を帯びた、悪魔のような表情だろう。

 瑠唯の幼さや、可愛らしさには余りにも不釣り合いで、不似合いだった。

 炬白は瑠唯を視界の正面に置きつつ、世莉樺に促した。


「ごめん。答えてる暇は無さそうだから、ちょっとそのまま寝てて」


「え……!? ちょっと、どうするつもり……」


 世莉樺に返事を返さず、炬白は鎖をまるで鞭を張るように両手で引いた。

 ガシャリ、と金属音が発せられる。


「こうするんだよ」


 無数の判読不能な漢字が刻み込まれた鎖、それを両手に握りつつ、炬白は呟き始めた。世莉樺が聞いても、全く意味の理解出来ない言葉の羅列だ。


「唵 阿謨伽 尾盧左曩 摩訶母捺囉 麽抳 鉢納麽 入嚩攞 鉢囉韈哆野 吽……」


 間近で聞いていた世莉樺には、何処の国の言葉なのかすら分からない言葉。けれど、それが単なる無意味な言葉では無い事を、何故か世莉樺は理解出来る。

 途端、それが起こった。


 炬白が両手で持つ、無数の漢字が刻み込まれた鎖――それに、淡い紫色の光が纏い始めたのだ。暗い体育館内を、紫の光がぼんやりと照らし始める。


(え、何これ……!?)


 少年の成した業に、世莉樺は驚くのみだ。この黒着物姿の少年が何をしたのか、彼女には全く理解出来ない。

 紫の光を纏った鎖を両手で持ち、炬白は身構える。

 彼は険阻な面持ちで、瑠唯に向いていた。


《だったら……あんたから消してやる》


 まるで吐き捨てるように、瑠唯は炬白に向かって言い放つ。

 彼女が両手を広げると、瞬くように宙を舞っていた黒霧が、三か所に集まる。

 やがて黒霧は、三人の人間の形へと変貌した。黒霧だけで形成された、人間の形をした『何か』だ。


「な、何あれ……!?」


 世莉樺が発する。

 炬白は彼女に背を向けたまま、応じた。


「今まで取り殺してきた人間の魂だよ。……あの『鬼』が」


「え、鬼……!?」


 炬白は、紫の光を纏う鎖を握る手に力を込める。

 続いて彼は、顎で指した。瑠唯の黒霧に貫かれ、体育館の床に倒れ伏している世莉樺の妹を。


「オレが食い止めてる間に助けておきなよ、雪臺真由を」


 直後――その一言と共に、瑠唯は炬白に向かって指を指す。


《消して》


 たった三文字でありながらも、憎々しさ、忌々しさが溢れる程に込められた言葉。

 まるで瑠唯の命令を受けるかのように、三人……否、三つの人型の黒霧が、一斉に炬白へと向かう。

 まるで床を滑るように駆ける黒霧、明らかに人間の仕草とは乖離していた。


「……!」


 迫り来る三つの、瑠唯の操り人形。

 炬白は恐れる様子も無く、毅然とした面持ちを崩さない。


「この負念の密度……相当、人間の魂を食って来たな」


 炬白は、黒霧人形の向こうに立つ瑠唯を見つめつつ漏らした。

 直後――先頭を切っていた黒霧人形が、炬白に向かってその腕を伸ばす。


「むずかゆいよ」


 自身に向けて追い迫る黒霧人形に向かって、炬白は言い放つ。

 少年は、紫の光を纏う鎖を、勢いよく振る。

 紫の鎖が、黒霧人形に触れた瞬間――紫色の火花が大きく炸裂した。


「!?」


 その出来事を見ていた世莉樺は、驚きを隠せない。

 先程自分を殺そうとした、瑠唯の黒霧人形。黒着物の少年は、鎖一本でそれを防いでしまったのだ。

 黒霧が払われるだけでは無かった。

 鎖が触れた場所を起点とし、まるで空気に溶け入るように、黒霧人形が消滅していく。

 漫画でも見ているかのような情景に、世莉樺は自身の目を疑う。

 しかし、彼女は直ぐに思い出した。


(真由!)


 世莉樺は、両足に力を入れた。

 すると今度はすんなりと自身の身が起こされ、世莉樺は自身でも驚く。


「っ!」


 直ぐに世莉樺は、眠るように倒れ伏す真由へ駆け寄る。

 妹の肩を揺すりつつ、呼びかけた。


「真由! 真由!?」


 ……返事は無い。

 彼女の両目は閉じられたままで、世莉樺の顔を映すことは決して無い。

 世莉樺は、真由の頬に触れてみる。


(冷たい……!)


 妹の頬は、まるで氷のような冷たさを帯びていた。

 ――真由は死んでいる。恐ろしい予感が頭を走り抜け、世莉樺は取り乱す。


「やだ……やだ! 真由!」


 溢れ出た涙に、世莉樺は自身の視界がぼやけるのを感じる。

 涙を拭おうともせず、世莉樺は真由を呼び続けた。しかし――どれほど呼びかけても、真由は返事をする事は無かった。


「真由……っ」


 やがて、世莉樺の声から力が抜ける。


 悲痛な世莉樺の涙声を背に受けつつ、炬白は黒霧人形と戦いを繰り広げていた。彼が鎖を振るうたびに、紫色の光が尾を引き、暗い体育館内に光の筋が迸る。


「次から次へと……!」


 炬白の鎖が黒霧に触れる度に紫色の火花が迸り、黒霧人形が消滅する。

 後方から追い迫る黒霧人形、炬白はその場で身を返しつつ撃退した。

 けれど、倒した側から黒霧人形は新たに作り出され、炬白に襲い掛かって行く。


《無駄だよ……無駄無駄無駄》


 黒霧人形達の主――由浅木瑠唯は、嘲笑するように加虐的な笑みを浮かべている。何時炬白が倒れるのか、それを楽しみにしているかのようだ。

 瑠唯がかざすように手を動かすと、その先に黒霧が集まり、また新しく黒霧人形が出現した。


「……!」


 また一体、炬白は黒霧人形を打ち払う。

 鎖が振られる金属音と同時に、紫色の火花が闇の中に弾ける。余裕を見計らい、炬白は世莉樺の様子を後ろ目で確認した。


 世莉樺は、床に倒れ込む真由に駆け寄り、妹にすがり付くような体制で、何かを言っていた。


(……!)


 炬白は好天的な状況だと察知し、再び瑠唯が作り出し、差し向けてくる黒霧人形を撃退する。

 何体の黒霧人形を倒したのか、それすら分からなくなった頃。炬白は、世莉樺と真由に走り寄る。

 そして黒着物の少年は、世莉樺の片手を掴んだ。


「真由……真由……!」


 炬白に反応を示さずに、世莉樺はただ、真由の名前を呼ぶのみ。

 黒着物の少年に気を回す余裕など、彼女に残されてはいないのだ。


「その子の手、しっかり掴んでいて」


 炬白は、世莉樺に促す。

 しかし世莉樺は彼の声に応える事も出来ず、彼女が発するのは真由を案じる気持ちから発せられる涙声だ。

 それでも炬白は、世莉樺が真由の片手をしっかりと握っているのを確認し、唱え始めた。


 常人が聞いても全く不明な、経とも呼べれば呪文とも呼べる言葉の羅列を。

 その途端――炬白、世莉樺、そして倒れ伏す真由を、白い霧が覆い包み始める。瑠唯の黒霧と違い、邪悪さや悍ましさは感じない、純白の霧だ。


《なんだ……もう、帰っちゃうの?》


 三人の中、炬白だけが瑠唯の発した言葉を受けた。

 渦巻く白霧の中で、黒着物の少年は応じる。


「どんな悲しい死に方をしても……生者に呪いを撒き散らしていい理由にはならない」


 白霧に黒着物や豊かなこげ茶色の髪を揺らしつつ、炬白は瑠唯に言い放つ。瑠唯と炬白、人智を凌駕する二人。

 炬白と世莉樺が白い霧と共に消え去るまで、彼らは対峙していた。





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