其ノ七 ~黒ノ少年~
世莉樺は、自身の体が宙に浮いている事に気付く。辺りを見回しても何も目に留まらない、そこは何もなく――ただ闇に支配された場所だった。
何処に視線を向けようとも、目に入るのは黒い『何か』だ。
「ここは……?」
黒い空間の中に、世莉樺の声が反響する。自分が何処に居るのか、ここは一体何処なのか。世莉樺には何も分からなかった。
世莉樺は、手帳のページをめくるように自身が体験した出来事を振り返る。
(私は……確か……)
初めに彼女の頭に蘇ったのは、廃校となった笹羅木小学校に入った事。暗くて荒れ果てた校内、理科室で見た、人体模型やカエルのホルマリン漬けまでもが、鮮明に記憶に刻まれている。
(それから……)
恐ろしい光景が、彼女の頭を支配した。
「ひっ!?」
鮮明に、僅かな濁りや淀みも無く浮かんだ、その光景。
それは――黒霧に首を吊られ、目を見開き、口の端から涎を垂らし、失禁の滴りを落とす世莉樺自身の姿。てるてる坊主のようにゆらゆらと左右に揺れる、物言わぬ死体と化した自分自身だ。
その瞬間。世莉樺の首が、黒い霧に捕らえられた。
「ぐっ!?」
世莉樺が気が付いた時には、すでに彼女の周りを黒霧が覆っていた。
黒霧は徐々に一点へ集まり、膨張するように大きくなっていく。その間にも、世莉樺の首は締め上げられていた。
そして、人の形を作っていく。
「うぐ……っ……!?」
人の形を持つ黒霧は、その手に当たる部位で世莉樺の首を掴んでいる。
黒霧の顔に当たる部位に、二つの丸い目が現れる。血走っているような、見開かれた目。恐ろしい程の憎しみと殺意に溢れた瞳だ。
世莉樺の首を締める人型の黒霧は、その両目に世莉樺の顔を映している。
首を締め上げられ、悶えるような声を漏らす世莉樺の顔を。
「う、あっ! あ……っ」
無意識に、世莉樺の喉の奥から空気が噴出するような声が発せられる。
その時だった。
ある一人の幼い少年の声が、世莉樺の頭の中に浮かんだのだ。
《お姉ちゃん……どうして、僕を殺したの……?》
◎ ◎ ◎
「!?」
気が付いた時、世莉樺は暗い体育館に座り込んでいた。
荒廃した小学校の、机や椅子が周囲に乱雑に積み上げられた体育館。紛れも無く、笹羅木小学校の体育館である。
「はあっ、はあっ……!?」
状況が分からず、世莉樺は困惑する。
その茶髪は雨水で濡れ、額や頬に張り付いていた。
「……!」
世莉樺の脳裏に、てるてる坊主となった彼女の姿が蘇る。その瞬間、猛烈な嘔吐感が込み上げた。
「うっ!」
口に手を当てる――ほぼ同時に、吐瀉物が世莉樺の口まで込み上げた。
「う、おえっ……! がはっ……!」
世莉樺は耐え切れず、床に嘔吐した。
ゴボゴボと不快極まりない音と共に、黄色くて酸っぱい液体が体育館の床に撒かれる。胃が収縮する度に、世莉樺は上半身を震わせた。
「うぷっ、う、うう……!」
何時の間にか、世莉樺の視界は涙でぼやけていた。
(私……殺されたんじゃないの? さっきのは、幻……?)
口の端から胃液の雫を滴らせつつ、世莉樺は思考を巡らせる。
そう、先程彼女は黒霧に首を締められ、首吊りの状態にされ――死亡した。
しかし今、世莉樺は間違いなく生きている。だとすれば、先程の出来事は実際に起こった事では無かったのだ。
けれど、『彼女』の存在は、決して幻や虚像では無かった。
《ふふふ……お姉さん、床汚しちゃっていけないんだ……》
体育館の床に突っ伏し、荒く呼吸する世莉樺。黒霧を纏った少女が、その背中を見下ろしていた。
その瞳は無垢ながらも、残忍で、冷酷さを湛えている。
黄色いパーカーや横にボリュームを持つショートヘアが、黒霧に泳いでいるのが分かる。
「うっ、はあ、はあ……!」
呼吸を整えつつ、世莉樺は少女を見やる。否、『睨みつける』、そう表現した方がより適切だろう。
幼い少女に向けるには不似合いな、敵意の込められた視線だった。
「瑠唯ちゃん……あなた、本当に瑠唯ちゃんなの……!?」
威圧的な雰囲気を持つ世莉樺の視線に、黒霧を纏う少女――瑠唯は、全く動じていない。それどころか、その口元には笑みすら浮かんでいた。
《そうだよ……私は、由浅木瑠唯。お姉さん、いっぱい遊んでくれたでしょ……?》
「……!」
目の前の少女の悍ましさ、不気味さに世莉樺は言葉を濁す。
世莉樺の知っている『由浅木瑠唯』という少女は、こんな邪悪な存在では無かった。
自分自身の頭の中で、世莉樺は自分が知る瑠唯の姿を浮かべる。
世莉樺が瑠唯と会ったのは、もう何年も前の事だ。瑠唯は可愛らしく、優しい女の子だった筈である。どう考えようとも、世莉樺には目の前の黒霧を纏う少女が瑠唯であるなどとは思えない。瑠唯であるとは、認めたくなかったのだ。
「違う……! 私の知ってる瑠唯ちゃんは、っ……そんな……!」
嘔吐の余韻が残り、世莉樺は声を出すのもままならない。
その次の瞬間、瑠唯が何時の間にか、世莉樺の目前の位置にまで迫っていた。
「ひっ!?」
僅かな音を立てる事も無く、世莉樺の側にまで迫った瑠唯。
彼女はその場にしゃがみ、観察するかのように世莉樺を見つめていた。
《ねえお姉さん……どうしてあの日、来てくれなかったの? 私達、約束したよね? また公園で会おうって……》
世莉樺が返事を返すよりも先に、瑠唯はその両手で、世莉樺の首を掴んだ。
「!」
幼い少女の、小さな手。
しかし、世莉樺はそこに体温を一切感じられなかった。
まるで氷のような冷たさが、瑠唯の両手から世莉樺の首へ伝わっていく。
(冷たい……!)
世莉樺が瑠唯の両手を引き離そうとした時、瑠唯が先立って発した。
《ねえ……なんで来てくれなかったの?》
世莉樺の首を掴む瑠唯は、その両手に力を込めた。
幼い少女とは思えない力で、世莉樺の首が絞められる。
「うっ! ……っ!?」
首を絞められる中――世莉樺はふと、瑠唯の後ろに居る少女の姿を捉えた。
妹の、真由である。
真由は、怯えるように体を震わせていた。
(あの子だけでも、ここから逃がさないと!)
首を掴まれつつも、世莉樺は妹に向けて声を張り上げた。
「逃げなさい、真由!」
「!」
真由は、世莉樺に何も言葉を返さない。
ただ、怯えるような表情と共に、姉に視線を向けるだけである。
「早く!」
世莉樺が言葉を重ねると、真由は我に返ったかのように身を震わせた。
真由はその場で世莉樺と視線を合わせた後、怯えるような声と共に、駆け出す。
《……逃がさ、ないよ?》
その言葉と共に、瑠唯は片方の手を世莉樺の首から放す。
走り去ろうとする真由の背中に向かって、瑠唯は手を伸ばした。何をする気なのか、世莉樺には容易に想像が付く。
「っ……! やめて!」
世莉樺が瑠唯を止めようとする――しかし、聞き入れられる筈も無かった。
瑠唯に纏っていた黒霧が、まるで槍のような形状に変貌する。
《あはははははは!》
無垢な笑い声と共に、瑠唯が真由の後ろ姿に向かって腕を振り下ろす。
同時に、槍のような黒霧が真由の背中に向けて飛んでいく。
「えっ!?」
真由が気付き、振り返る。
彼女の視界に黒霧が映った、その瞬間――。
黒霧の槍が、真由の体を貫いた。
「うっ……!」
真由には、自身の身に何が起こったのか、それを理解する猶予すらも与えられなかった。
彼女に理解出来たのは、自身の背中から腹部にかけて、黒霧が貫いた事。急激に、意識が遠のき始めた事。
直後――自身の視界から、光が失われた事。
「……」
真由は、体育館の床に倒れ落ちた。
「ま、真由ーっ!」
悲痛極まる世莉樺の叫び声。瑠唯が再び世莉樺の首を掴み、締め上げる。
「ううっ……!」
世莉樺は、直ぐにでも真由に駆け寄りたかった。
しかし瑠唯は、彼女が妹の方を向く事すら許さない。
《ねえ、どうして来てくれなかったの? ねえ? ねえ? ねえ? お姉さん……》
次第に、瑠唯は世莉樺の首を掴む手に力を込めて行く。今度は正真正銘、幻覚などでは無かった。
(ぐ……私は……!)
世莉樺は瑠唯の腕を掴み、必死で抵抗する。
こんな場所で、命を落とすわけには無かった。
黒霧に貫かれた真由、それに――家で待っている悠太。母が不在の今、自分が居なくなってしまえば、彼らの面倒を見る者は居なくなってしまう。
姉として、世莉樺はその事を何よりも危惧していたのだ。
《ずっと、待ってたんだよ……? 私、ずっと、ずっと……》
悲哀とも取れる瑠唯の声が、世莉樺に届く。
涙でぼやける視界の中、世莉樺は必死で抵抗していた。けれども、世莉樺が渾身の力を込めようと、瑠唯の手をほどく事は出来ない。
その時、体育館の外から雷が落ちる音が響き渡った。
雷鳴の光が体育館内にも届き、世莉樺がこれまで目を向けることの無かった場所、体育館の高い天井付近が照らしだされる。
(ひっ……!?)
言葉では言い表せない光景に、世莉樺は戦慄する。
一体天井のどこから伸びているのかも分からない、人間の髪の毛を思わせる無数の黒い糸が、天井から伸びていた。
そして――糸の先には、人間の死体が吊り下がっている。
一人や二人では無く、数えきれない程の数だ。学生や大人、男、女……皆目を見開き、口の端から涎を垂らし、絶命していた。
脱力した死体達は、まるでてるてる坊主のように左右に揺れている。
そう、先程の幻の中の、世莉樺のように――。
「んんっ……! んんんっ……!」
引いたと思っていた吐き気が、再び世莉樺を襲う。しかし、彼女にそんな事を気にしている余裕は無かった。
――このままでは、自分もあの死体達の一人になる! 本能的に、世莉樺はそれを察知していたのだ。
《お姉さん、お姉さんもてるてる坊主になって? そして、ずっと私と一緒に居よう……?》
瑠唯に纏う霧が、世莉樺に向けて蠢き始める。
首を絞められているまま、世莉樺は猛烈に悶えた。
「うっ……! かはっ……んんんんっ!」
しかし、彼女の発する声など、何の効果も成さない。
自身の首を捕らえる瑠唯の手をほどく事も、迫って来る黒霧を止める事も出来ない。
《フフ……あははははははは!》
もがき苦しむ世莉樺を見つめ、瑠唯は悍ましく笑った。
対し、世莉樺は猛烈に身悶えする。
黒霧が、世莉樺の首に届こうとする――世莉樺は死を覚悟すると同時に、心中で哀願していた。
(助けて! 誰か……! お願い……!)
その時――世莉樺の首を掴まれている感覚が、消えた。
追い迫ろうとしていた黒霧も、宙で停止する。
「うっ、げほっ……ごほっ! はあ、はあ……!」
呼吸が解放され、世莉樺は首に手を当てて咽る。
彼女は直ぐに、視線を上に向けた。
世莉樺の前に立つ瑠唯は、世莉樺を見ていなかった。彼女の視線は世莉樺をすり抜け、その後ろを見ている。
まるで、眼前を飛び回る羽虫を見るかのような、忌々しげな眼差しだ。
《……ちぇっ》
不機嫌気に漏らす瑠唯。
くりりとした彼女の瞳には、一人の男の子が映っていた。
その少年は、何時の間に世莉樺の後ろに居たのだろうか。
歳の頃十歳程度の、幼い少年。
こげ茶色の豊かな髪はハリネズミのように跳ね、黒地に白の絣模様があしらわれた着物を着ていた。下は短パンのようになっており、膝から下は衣服に覆われていない。その足には何も履いておらず、裸足である。何よりも目を引くのは、数度折り返す形でその腰に掛けられた、銀色の長い鎖だろう。
いかにもやんちゃそうな雰囲気を持つ少年。
彼はその瞳で、瑠唯を睨みつけていた。
「……」
瑠唯を睨みつけたまま、少年は腰に下げた鎖を掴む。
ジャラリと重たげな金属音を発しつつ、彼は剣を抜くような仕草で鎖を手に持った。
眩い銀色の鎖には、無数の漢字が刻み込まれている。常人には到底読む事の出来ない漢字の羅列、それはどこかの経を思わせた。
長い鎖を床に泳がせながら、彼は瑠唯に向かって発する。幼い外見には不似合いな、敵意と怒りの込められた声だ。
「その人に触るな」
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