其ノ六 ~日和坊主~

《お姉さんだあ……お姉さん……》


 黒霧を纏う少女の声が、世莉樺に届く。

 彼女は一歩一歩、ゆっくりと、しかし確実に世莉樺に向かって歩み寄って来た。その生気の無い瞳には、困惑する世莉樺の表情が写っている。


(な、何……!? お姉さんって……私の事……!?)


 世莉樺には、眼前の黒霧を纏う少女に見覚えなど無い。

 しかし彼女の方は、陶酔したような眼差しで世莉樺を見つめていた。まるで……長い事会いたかった相手に、ようやく会えたかのような。


「誰!? あなた、誰!? 一体何で……あんな事を……!」


 世莉樺は、少女の後ろ、血塗れの亡骸と化した少年を指す。一体どんな理由があって、あんな事をしなければならないのか。まだ幼くて心が成長してないにもせよ、あんな残酷に人の命を奪って、何も感じないのか。


《お姉さんだあ……お姉さん……》


 少女は答えない。

 黒霧をその身に瞬かせつつ、まるでうわ言のように繰り返し、世莉樺へと歩み寄って来る。


(っ……!)


 彼女が近寄って来る度に、世莉樺は感じる。黒霧を纏う少女が醸す、悍ましい感じを。

 幼い少女であるが――その雰囲気は禍々しく、邪悪に感じられた。

 とてつもなく邪悪で、不気味極まりなかった。まるで、化け物が歩み寄って来るような感覚。

 世莉樺は思わず、一歩後ずさる。

 しかし世莉樺は負けじと、声を張り上げる。


「……答えなさい!」


 相手が幼い少女であるにも関わらず、怒りの込められた大きな声を発する。

 今まで、真由や悠太にも発した事の無いような声色だった。


《……》


 少女は世莉樺に歩み寄るのを止め、俯く。


「あ……」


 言い過ぎたか、世莉樺がそう思った時、


《ずっと……待ってたんだよ……私……》


 俯いたまま、少女は再び世莉樺へと歩み寄り始める。そのショートヘアーを、左右に揺らしながら。

 廃校となった笹羅木小学校の体育館の中、黒霧を纏う幼い少女は、世莉樺に向けて発し始める。


《また会おうって約束したのに、お姉さん……来てくれないんだもん……》


 世莉樺には、少女が言っている意味が理解出来ない。


(この子、さっきから何を……!?)


 レモンのように黄色いパーカーを着ており、横にボリュームを持つショートヘアーの少女。

 黒霧を瞬かせながら、彼女は世莉樺に向かって歩み寄り続ける。その視線は、俯かせたままだ。

 やがて、彼女は世莉樺から目と鼻の先の位置にまで接近する。近くで見ると、少女は想像以上に小さかった。世莉樺の胸に届くか、届かないか程度の身長しか無い。

 けれど、彼女を包むような黒霧の所為で、世莉樺には彼女の存在がより大きく、強大に――そして禍々しく、不気味に見える。


《ずっと……待ってたんだよ?》


 俯かせていた視線を、少女はゆっくりと上に向けて行く。

 世莉樺の革靴、白い太腿、制服のスカート、ブレザー……そして、少女は世莉樺の目を見つめた。

 彼女の生気の無い瞳と、世莉樺が間近で視線を合わせた瞬間――。


「!」


 世莉樺の体が、凍り付いた。

 両足、両手、指一本すらも、世莉樺は動かせなくなる。


(何これ……体が、動かない……!?)


 全身が石のように硬直し、瞬きすらも出来なくなる。


(金縛り……!?)


 そう、それは正しく『金縛り』だった。

 世莉樺は言葉に聞いた事があるだけだったが、現在の自分のように体が動かなくなることを金縛りと言うのだと察する。

 世莉樺をこの状態へ貶めた少女は、生気の無い瞳で世莉樺を見つめていた。


《お姉さん……忘れちゃったの?》


 少女が纏う黒霧が、まるで命を持っているかのように世莉樺へ伸びる。

 まるで、幼い少女の背中から大きな黒い翼が伸びているようだった。


「うっ……!」


 腐臭とも分からない匂いが、世莉樺の鼻腔に飛び込んでくる。

 世莉樺は鼻を覆いたくなるが、金縛りがそれを許さない。


《覚えてないの? ねえお姉さん、私の事……》


 少女は問う。

 けれど世莉樺は応じない。


(この子、おかしい……! 生きてる人間て感じがしない……!)


 否、応じないのではなく、『応じられない』のだ。

 間近で少女を見つめ、世莉樺は改めて彼女の異様さを実感する。

 外見的な異様さを差し引いても、彼女が近づいた途端に急激に周囲の空気が重く、冷たく感じた。


《……はあ~あ、分からないんだあ。忘れちゃったんだね、私の事》


 少女は、落胆するように発する。

 一度目を逸らしたが、彼女は直ぐに世莉樺と視線を合わせ直した。


《いっぱい遊んで、いっぱい蝶の事お話ししたのに……》


 その言葉が、世莉樺を急変させた。


「!」


 世莉樺はまず、驚きを感じた。

 そして、自身の記憶の中から、世莉樺は一人の少女を導き出す。彼女が生を享けて十五年、歩んできた人生の中で出会った数十人、もしかしたら百を越えるかも知れない人の中から、その女の子を。

 先程の黒霧が纏う少女が発した言葉を検索ワードとするように絞り込み――そして世莉樺は、思い出す。


「ま、まさか……!?」


 驚愕と困惑で、世莉樺は自身の声が震えている事に気付く。

 少女は変わらず、生気の無い瞳で世莉樺を見上げている。


「る、瑠唯ちゃん……?」


 少女は答えない。

 しかし、その口元が笑みに歪んだ。

 世莉樺は、頭の中で一人の少女の映像を浮かべていた。黄色いパーカーを着ていて、横にボリュームを持ったショートヘアーをしていた女の子。

 そう、今目の前に居る、黒霧を纏った少女と同じように。


「あなた……あの由浅木瑠唯ちゃんなの!?」


 嬉しさでは無く、恐ろしさから出た言葉だった。

 世莉樺が知っている由浅木瑠唯という少女と、今彼女の目の前に居る黒霧を纏う少女。どう考えても、世莉樺には同一人物と思えなかったのだ。


「嘘……そんな筈無い、あの瑠唯ちゃんが、そんな残酷な事……!」


 世莉樺は受け入れられなかった、受け入れたくなかった。

 瑠唯という少女は純真で、心優しい子だった。包丁を持って、笑いながら他人を嬲り殺せるような残虐さとは、縁もゆかりも無かった筈だ。


《覚えててくれたんだ……》


 けれど――黒霧を纏う彼女は否定しない。

 それどころか、その表情は自分の名を思い出してくれた事に嬉しさを湛えている。

 黒霧を纏う幼い少女――瑠唯は、その片手を世莉樺に向ける。その途端、瑠唯にまとわりつく黒霧が、一斉に世莉樺へと伸び始めた。


《お姉さんも……殺してあげるね? てるてる坊主にしてあげるね……?》


 瑠唯のくりりとした生気の無い瞳が――大きく見開かれる。

 その口は、まるで口裂け女のように横に伸びていた。


「ひっ!?」


 気が付いた時――世莉樺は、自身の首に何かが絡み付いてくるような感覚を覚えた。

 生暖かくて、とてつもなく不気味な何かが。

 瑠唯の発する、黒霧だった。


「やだ、やあああッ!?」


 世莉樺は黒霧を払うが、そんな行為で黒霧を消すことは出来ない。

 まるで蛇のように黒霧は動き回り――世莉樺の首を覆っていく。黒霧の放つ生ぬるい空気や異臭が、世莉樺の全身にまとわりついてくる。

 しかし、世莉樺にはそんな事を気にしている余裕など残されていない。


「い、いや! 何なのこれッ!?」


 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い――!

 世莉樺は半狂乱になったように、まるで黒いマフラーのようになった黒霧を払い退けようとする。それが無意味な行為だと分かっても、止めようとはしない。

 もがくように抗う世莉樺を見て、瑠唯は笑みを浮かべていた。

 純粋で無垢な笑みでは無く、死んでいく虫けらを見て楽しむような、不気味で残忍な笑みを。


《バイバイ……お姉さん》


 瑠唯の言葉と同時に、瑠唯は世莉樺に向けて伸ばしていた片手を握る。

 途端、世莉樺の首の周りに漂っていた黒霧が、一斉に彼女の首へ巻き付いた。

 まるで、ロープのように。


「ぐっ!?」


 首を圧迫され、世莉樺は空気が噴出するような声を漏らす。

 その次の瞬間だった。

 まるで見えない糸に引かれるように、世莉樺は自身の体が宙に浮くのを感じた。世莉樺の足が体育館の床から離れ、首に巻き付いた黒霧によって、世莉樺は首吊りの状態となる。


「うっ……ぐっ……!」


 世莉樺が手にしていた携帯が彼女の手を離れ、床に落下する。

 体重によって、世莉樺の首に黒霧が深くめり込んでいく。


「お姉ちゃん!」


 真由の声を、世莉樺は何処かから聞いた。

 けれど彼女には、妹の声に応じる余裕などある筈が無い。地面から離れた足をばたつかせながら、世莉樺は苦しみから逃れようと、両手で首を掻き毟る。

 けれど黒霧に触れる事は出来ず、その両手は首の皮をべりべりと剥がし、出血させるだけだ。


「が、あ、あ、あ……あああああッ……!」


 目を見開き、口の端から涎を垂らし――黒霧によって首を吊られる世莉樺はもがく。

 ばたつかせる両足、右足から靴が脱げ、落下した。

 最早、彼女の表情は恐怖と苦しみに歪み、見る影も無い。


「あ、アアアアア、ア、ア……ッ……」


 やがて――世莉樺の手足の動きが小さくなり、発する声も弱々しく、途切れ途切れになっていく。


《あははははははは! 死んじゃえ! 早く死んじゃえ!》


 苦しむ世莉樺を見つめる瑠唯は、嘲笑するように発する。

 瑠唯には哀れみも、同情も無かった。

 世莉樺の命が消えていく様を、楽しんでいるかのようである。


「ウヴッ! ……ッ……」


 その声とほぼ同時に――世莉樺の首元から、ゴキッという鈍い音が響いた。

 それを境に、世莉樺は脱力する。

 乱れた茶色のロングヘアや両手足は垂れ下がり、半開きになった口から涎を垂らし――世莉樺のスカートの股間部分に染みが拡がり、彼女の太腿を伝って流れ落ちた尿が靴下を濡らし、小さなせせらぎの音と共に、靴の先から滴り落ちて行く。

 猛烈な苦しみを味わった果てに、世莉樺は死んだ。

 誰がどう見ても、死んだ。物言わぬ死体と化してもなお、彼女の身は黒霧によって宙に吊られ、尿を垂れ流しながらゆらゆらと左右に小さく揺れていた。

 そう、まるで『てるてる坊主』。

 明日を晴れにする呪いに用いる、紙や布を丸くくるんだ人形のように――。


《てるてるぼーず……るてぼーず……あーした天気にしておくれー……》


 抑揚を欠いたような声で発せられる瑠唯の童歌が、暗い体育館内に発せられる。

 彼女の小さな体には変わらず、黒い霧が渦巻き続けていた。




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