其ノ五 ~殺戮~
笹羅木小学校――廃校となった、かつての学び舎。今となっては、誰も立ち入る理由など持たないであろう場所。
その暗い廊下に、世莉樺の息遣いが響く。
(どこから……!?)
木目の床に散乱する木屑を巻き上げ、何なのかも分からないゴミを蹴り飛ばしつつ、世莉樺は駆ける。
雨に濡れた茶髪や、制服を靡かせながら――彼女は、悲鳴を発した者を探していた。真由が発した悲鳴なのかは分からなかったが、放って置く事など出来ない。
その時、
「い、いやだ! やめてえええええっ! いやだああああああああああああッ!」
どう考えても尋常では無い悲鳴だ。
今度は、世莉樺の耳にもはっきりと届いた。
(! 男の子の声……!?)
驚きつつも、世莉樺は悲鳴が少年の発した者であると確認する。世莉樺には聞き覚えの無い声だったが、幼い少年の声だと分かる。
少年という事は、真由の悲鳴では無いだろう。しかし、世莉樺は悲鳴の発せられた方向へと駆け出す。
こんな悲鳴を上げるなど、尋常の沙汰では無い。
(! 体育館……!?)
悲鳴の発せられた場所を探る内、世莉樺は自身が体育館へと続く通路に出ている事に気付いた。他の場所と変わらず真っ暗で、世莉樺が頼りに出来るのは、彼女が手にする携帯電話の明かりのみ。
再び、悲鳴が発せられた。
「きゃあああああああああああっ!」
今度は、少年の悲鳴ではない。
その悲鳴に、世莉樺は走る足を一度止め――驚愕に表情を染める。
(真由……!?)
他の誰でも無い、世莉樺が聞き違える筈の無い声。彼女の大切な妹である、雪臺真由の声だった。
「真由!」
妹の名を、世莉樺は声に出して呼ぶ。
彼女は直ぐに、体育館に向かって駆け出そうとした。
妹が悲鳴を発した、妹が怖い目に遭っているのかも知れない、妹を家に連れて帰らなければならない。
どのような暗闇だろうと、恐れている状況では無かった。
世莉樺は、再び体育館へと駆け出す。
その時だった。
「うっ!?」
突然、世莉樺の頭を激痛が走り抜ける。同時に周囲の空気が重く、冷たく感じた。
(何、これ……!?)
ギリギリと頭を締め付けられるような感覚、氷で出来た部屋に入ったような悪寒。
世莉樺は片手で頭を押さえ、もう片方の手で壁に寄り掛かった。手の平が、木目の壁の感触を直に感じ取る。
(うう、痛い……!)
一刻も早く、真由を見つけなければならない。
分かってはいるものの、世莉樺は頭痛と悪寒に阻まれ、身動きが出来なくなっていた。ふと、顔の表面に液体の雫が流れる感触を覚え、世莉樺は顔に手を触れる。
(……? 何だろ……)
髪に付いた雨水が、顔に流れたのか――そう思って世莉樺は、自身の手の平を携帯電話のライトで照らした。
「え……!? 血……!?」
世莉樺の手の平には、赤い液体が付いていた。確認する必要も無く、それは血液である。
(鼻血……! うそ……!?)
途端、頭痛が一段と重くなり、世莉樺は床に膝を付いた。
(うう、何なのこれ……!? 頭が……割れる……!)
突然襲ってきた頭痛は、世莉樺の十五年の生涯で経験した事も無いような、凄まじい物だった。氷水のような冷や汗が流れるのを、世莉樺は感じる。彼女の鼻の片穴から、血液がどっと流れていく。
いきなり、理由もなしに、このような現象に襲われる事など――世莉樺には、全く理解出来ない事だった。
けれど、世莉樺は現在の最重要事項を思い出し、顔を上げる。
(そうだ、真由!)
頭痛に悶えている場合では無かった。
世莉樺は携帯のライトを照らし、壁にその身を預けつつ――ゆっくりと体育館へ踏み入った。
体育館には、児童用の机や椅子が乱雑に積み上げられていた。
「ううああああああッ! やめ、て……ゴプッ、か……」
再び発せられた、少年の悲鳴。
同時に、バシャッという、まるでバケツの水をぶちまけたような水音が、世莉樺の耳に届く。
(何……!? ここで何が……!?)
世莉樺は音の発せられた場所――積み上げられた机や椅子を挟んだ向こう側に、視線を向けた。
場所は、体育館内の壁際。体育館には多くの窓があり、薄らと明かりが差していた。
故に、携帯のライトを使わずとも、世莉樺には体育館内を確認できる。
「え……?」
その光景に、世莉樺は凄まじい戦慄、そして焦燥感を覚えた。
口の中がカラカラに渇くのを感じる。
「っ……!?」
想像を絶する、現実だと受け入れ難い光景だった。
体育館の壁際に、一人の幼い少年が仰向けに倒れ込んでいる。その少年の側に、同じく幼い少女が座っていた。
レモンのように黄色いパーカーと、横にボリュームを持ったショートヘア―が印象的な、可愛らしい女の子。
しかし、彼女を包み込むように、黒い霧が渦巻いている事が分かる。
その小さな手には、真っ赤に染まった包丁が握られていた。
そして仰向けに倒れ込んだ少年の腹部と、その周囲には――赤い赤い赤い血の海が出来上がっていた。
「!?」
猛烈な吐き気がこみ上げ、世莉樺は両手で口を覆った。
遠目で見ても、あの男の子は死んでいる。それを理解するのに、世莉樺はさほどの時間を要しなかった。
あの小学生くらいの男の子、真由と同じくらいの少年は、殺されたのだ。それも、同じく小学生くらいの、あの女の子に。
その体を黒い霧に覆う、その可愛らしい外見には余りにも不釣り合いな包丁を握った、幼い女の子に――。
(嘘でしょ……!? こんな事……!)
世莉樺が戦慄に身を震わせる中、黒霧を纏う少女は、包丁を床に置いた。
そして彼女は、少年の腹部――包丁によって付けたであろう傷に、手を突っ込んだ。
グジャッ、という肉が弾けるような音と共に、鮮血がビュッと飛び散り、周囲の血の海に弾ける。
「ウウッ……う、やめ……て……」
少年は、まだ息絶えてはいなかった。
けれどもその口から発せられる声は弱々しく、瀕死であることが聞いて取れる。
(あの女の子……何て残酷な事を!?)
世莉樺は、直ぐに黒霧を纏った少女を止めに入ろうとする。
しかし、頭痛に阻まれ――世莉樺は身動きが取れなくなった。
《死んじゃえ……》
頭の中に浮かぶような声に、世莉樺は反応する。
(誰……?)
黒霧を纏った幼い少女が、包丁を再び逆手に手に持った。
そして彼女は……何の躊躇も無く、包丁を少年の腹部に向けて突き刺した。
「が……! やめ……ぐ……」
最早、少年の声は言葉の断片と化していた。
《私を蔑む奴なんか、みんな大っ嫌い……》
もう一度、少女は少年の腹部に包丁を突き刺す。
《あはははははは! ……いっぱい血が出てきた……!》
少年の腹部から噴出する血液が、再び飛び散る。
眼前の恐ろしい光景に、世莉樺は最早、少女を止める気など喪失していた。
何の戸惑いも、躊躇も無く、不気味に笑いながら少年を包丁で刺す少女。黒霧を纏っている事を差し引いても、正常な人間では無かった。
《死んじゃえ……苦しんで苦しんで、私が味わった苦しさを思い知って、死んじゃえ……!》
頭の中に響くような声。
黒霧の少女に包丁で腹部を何度も突き刺された少年は、苦しみ抜いた末に絶命した。
幼い少年には余りに耐え難い、残忍で猟奇的な殺され方。しかも、彼の命を絶ったのは、彼と同じくらいの、幼い少女。
(何なのあの子……! 何であんな事……怖い……!)
まるで毛虫を潰して遊ぶように、少年の命を奪った女の子。
大人でも躊躇するような残忍極まりない行為を、笑いながらやってのける彼女が、世莉樺には恐ろしくて堪らない。
幼い子供は、時に大人よりも遥かに残酷な生き物だ。命を奪う事を躊躇するどころか、寧ろ楽しむ事もある。カエルを爆竹で爆砕したり、蟻の首を捥いだり、犬や猫を刃物で切り付けたりする子供も居る。
けれど、今世莉樺の前に居る少女は――そんなものとは比べようも無かった。
化け物、正しく化け物だった。
(あの子に、見つかったらダメだ……!)
吐きそうになる中、世莉樺は本能的に察知していた。もし見つかれば、自分も同じ目に遭うと。
あの女の子は、危険だ。人間としての心が一切欠かれた、幼い少女の皮を被った怪物なのだ。
《あははははは! 死んだ死んだ死んだ死んだ死んだあああああああ!》
血塗れの肉塊と化した幼い少年――少女はその傍らで、狂ったように笑い始めた。
「……!」
世莉樺は気付いた。
眼前で繰り広げられる殺戮に、本来の目的を忘れていた。
少女の側には、世莉樺が探していた妹――真由が立っている。
その表情は、怯えきっていた。
《さあて、次は……誰の番……?》
黒霧を纏う少女が、真由を向く。
「ひっ!?」
真由は、引きつるような悲鳴を上げた。
これから彼女が何をされるのか、世莉樺には容易に想像が付く。
「ま、真由……!」
思わず世莉樺は、声を発した。
その声に、黒霧を纏った少女が反応する。
《……だあれ? そこに居るの……》
「!」
黒霧を纏った少女と、世莉樺の視線が合う。
少女のくりりとした大きな目には、生気が無かった。まるで死んだ魚のような、濁り切った目だ。
《あああ……》
世莉樺の姿を捉えた途端、少女の表情が嬉しさのような感情で満たされる。
彼女を包む黒霧が大きくなり、黄色いパーカーや横にボリュームを持つショートヘア―を靡かせる。
「っ……!」
恐ろしかった。少女の見た目だけでなく、その心までもが恐ろしかった。
世莉樺は直ぐに逃げ出したくなったが、真由を連れて帰るという目的を思い出す。自分だけ逃げだす事など、世莉樺には出来なかった。
(う、また頭が……!)
一旦は収まった頭痛が、再び世莉樺に襲い始める。
黒霧を纏う幼い少女は、包丁を手にしたまま――世莉樺に向かって発する。
真っ赤な鮮血が、包丁の先から滴り落ちた。
《お姉さんだあ……》
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