第60話 昭和20年5月、春香、夜這い

「安恵さん。いくよ。熱いから気をつけて!」

「はいっ」


 大釜の中で煮えたぎっているお湯に竹竿をさしこむ。ぐるりと動かして、中でおどっている衣類をたぐり寄せる。そのまま引っかけて、地面に並べてある すのこの上にベチャンと降ろした。

 湯気の立っている衣類のかたまりを、安恵さんが火箸で広げてから団扇であおぐ。


 ここのところ晴れて穏やかな天気がつづいているので、2日かけて、みんなでシラミ退治をしているところだ。

 特に今日は村の婦人会にも手伝いに来てもらって、朝から布団を本堂の回廊に並べて日干しし、今ごろは子供たちも一緒に宿舎を掃除をしている頃だろう。

 同時並行で班ごとに呼び出して、散髪と頭のシラミ取りを行い、そのままお風呂場へ直行の予定になっている。


 服についた成虫や卵を殺すための煮沸作業は、寮母の私たちと美子さん、そして、無理矢理来てもらった香織ちゃんが担当している。


 もちろん香織ちゃんの子供の和くんも一緒なので、危険な火のそばの作業はさせられない。

 なので今は美子さんのところで、1つ年下の菜々子ちゃんとできる範囲のお手伝いをしてもらっている。


 香織ちゃんは、温度の下がった衣類を再度たらいに入れて水に浸し、踏み洗いをしてから絞る係をお願いしている。

 作業量は多いけれど、手があき次第に私もそっちに合流するし、清掃中の婦人会の人たちも応援に来るからそれまでの我慢だ。


 児童全員分なので山のような衣類。

 一枚一枚を大釜の中に放り込み、熱湯に10分ほど浸して取り出す。三角巾で髪を覆っているけれど、お釜の熱気で額から汗が噴き出てくる。


 そんな作業をしながらも、チラリと香織ちゃんの表情をうかがう。

 あれから1月が経ったとはいえ、表面上は落ちついて見える。子供たちを気にしながら、美子さんともおしゃべりをしながら作業をしているようだ。

 それを見て、そっと安堵のため息をつく。


 あの英霊の伝達のあった次の日、私は香織ちゃんの様子を見に、嫁ぎ先の石川さんの家に向かった。

 そこで石川さんの奥さんに聞いてみたところ、白木の箱を安置して中をあけると、やはり私と同じく1枚の木札が入っているだけだったという。


 それを見た途端、香織ちゃんは拳を握りしめて立ち上がり、そのまま台所に向かって包丁を握り、大根を乱雑にダンッ、ダンッと包丁を叩きつけてぶつ切りにしていたらしい。

 そして1本切り終わるや、包丁を置いて、その場で泣き崩れたという。


 その後、お家にお邪魔して少し香織ちゃんと話もしたけれど、どこか魂が抜けたようになっていて、とても見ていられなかった。

 秀雄くんの葬儀に参列した時は、憔悴しょうすいしきった香織ちゃんが、まだ何にもわかっていない和くんを膝の上に載せている光景を見て、あまりの痛ましさに胸が苦しかった。


 あれからずっと彼女のことが気がかりだったけれど、残念ながら寮母をしている私には、あまり彼女とゆっくりと会う時間をとることができない。

 そんな事もあって、今日は無理矢理来てもらったんだよね。


 一方で私の方は、青木先生や安恵さん、隣組の人たちから、葬儀はしないのですかと何度も尋ねられている。それはもう、うるさいくらいに。

 けれど、主人はまだ生きていますと頑なにお断りしつづけているうちに、最近になってようやく誰も葬儀のことを言い出さなくなった。

 諦めたのか、恵海さんたちが説得してくれたのか……、それはわからないけど。


 戦況は悪くなる一方だ。

 5月9日には、ラジオでドイツが無条件降伏をしたと流れてきて、村の多くの人たちが驚いていた。

 ……これでもう残っているのは日本だけになったというわけだ。


 聞くところによると、いよいよ敵軍が沖縄に上陸したというから、多くの住民をも巻き添えにしている泥沼の戦いが、今、この時も続けられているのだろう。


 日本だけでどうやって戦っていくつもりなのか。どこまで戦うつもりなのか。なんでこんな時代になってしまったのか。

 戦争、出征、空襲、戦死……。もううんざりだ。夏樹も帰ってこないし、私1人でどうしろと。

 っと、いけない。まだ作業中だったっけ。

 濡れた衣類って重いから、こんな作業をしていたら腰を痛めてしまいそうだ。……筋肉痛とは無縁の身体ですけどね。


 さて、そんなことを考えているうちに大釜の作業は終わり、火を消してから、香織ちゃんの作業に合流する。早いうちに大釜も洗いたいけれど、まだ熱すぎるので後回しにせざるをえないだろう。


 洗い場のポンプからくみ出した水をバケツで運び、たらいに入れ、そこへ温度の下がった衣類を放り込む。

 そっと足を踏み入れると、くみ出した水が冷たくて、思わず「ひぇっ」と声が出た。


 そんな私を見ていたのだろう。衣類を踏み踏みしている香織ちゃんが小さく吹き出した。


 ――お。笑った。


 内心でそう思いながら、「いっちに、さんし、いっちに、さんし」と口でリズムをとりながら私も踏み洗い作業をはじめる。


 さっきまで大釜の前にいたせいか、着ている服の中にまだ熱気が籠もっている。時折そよいでいく風が、えり元から入ってきて心地よかった。

 目の前の林の間ではチョウチョが舞っている。チョウチョが飛んでいると菜々子ちゃんに教えてあげようと振り向いた。


「2人とも手伝ってくれるの? いい子だねぇ」

 コクンとうなずいた和くんは、菜々子ちゃんと一緒になって、美子さんが絞った衣類を受け取り空になったたらいに持っていく。その光景が、お婆ちゃんと孫のように見えてほほ笑ましい。


「奥様って変わりませんね」

 香織ちゃんから突然そう言われた。


 私の場合は夏樹が死ぬわけないって思っているからだけど、それを秀雄くんに当てはめるわけにもいかない。

 あんな戦死通知なんて信じていないからと言ったとしても、それを香織ちゃんが信じてしまってもマズいことになる。たとえ、それで彼女の心を慰めることができたとしても、後で戦死が確実なものとわかったときが怖い。


「まあ、遺骨が帰ってこないから実感がないってのもあって、そのうちひょっこり帰ってこないかなって。どうだかわからないけどさ……。それに目の前にもっと悲しんでいる若奥様がいるからね~」

「はい」

 香織ちゃんが曖昧な微笑みでうなずいた。


「それでも私たちは生きていかなきゃいけないしね。それに今は他に子供たちがいるから悲しんでいる暇もないってわけよ」

「ああ、……まあそうですね」

「というわけで香織ちゃん」

「はい」

「いつでもお手伝いに来てくれていいからね」

「――はい」


 きっと家にいても時の経つのが長く感じているはず。

 あたかも明けない夜の中にいるように、出口の無いトンネルをさまよっているように。親御さんも同じ気持ちかもしれない。


 でもね。それでもその悲しみを背負いながらも、生きていかなきゃいけないんだよ。

 たとえ今は、地獄にいるかのように辛い日々になっているとしても。やがて、その悲しみは時が解決していくだろう。


 不意に和くんの明るい笑い声が響く。菜々子ちゃんのキャッキャと笑う声が続く。美子さんったら、楽しそうにしている。


 でもこの笑い声を聞いていると、なぜか私もうれしくなってくる。

 息が詰まりそうな時もある。暗く重苦しい気持ちになる時もある。そういう私たちを癒やしてくれるのは、子供たちの笑顔や笑い声じゃないだろうか。


 秀雄くんの忘れ形見である和くんが笑っている。その声を聞いて微笑んでいる香織ちゃんを見ながら、私も自分が微笑んでいることに気がついた。



「ふうぅ。チェック終わりっと」


 直子さんが亡くなってから、会計書類は私の仕事になっていた。幸いに食糧事情が回復してきていたので、どうにか今月は収入と支出がトントンといったところだ。

 けれど先のことを考えるとまだまだ不安が頭をもたげてくる。


 というのも、今のところは政府の補助金があるからどうにかなっているわけで、戦争が終わってからもこの補助金が続くのかどうかはわからない。もし補助金が出ないとなれば、運営はかなり厳しくなるだろう。


 だいたい配給だってどうなるかわからないんだよね。特に8月15日以降は。

 今のうちから対策をしておいた方がいいと思うけど、8月で戦争が終わるなどとは誰にも言えない。やるなら1人で、気取られないように話を進めておくしかないだろうか。


 ……うう。こんな時、夏樹がいてくれたらなぁ。


 そう思って、布団に入れてある抱き枕夏樹枕を見る。

 ここのところ菜々子ちゃんと一緒に寝ていたけれど、今晩はバーバとなった美子さんと一緒に寝るらしい。

 ほんのちょっとだけ寂しいけれど、まあ私にはこの夏樹枕があるからね。大丈夫ですよ。


 それにしても……。夏樹枕のにっこり笑っている顔が恨めしい。


 直子さんは亡くなりました。

 いくらこちらで回向をしているとはいえ、まだここの学寮に彼女がいるようで、ふとしたときにその姿を探してしまう自分がいる。一緒に暮らしていた彼女の死を、私はまだ受け入れられていないのだ。


 ……戦争か。

 銃弾に爆弾、焼夷弾。人類の作り出した兵器が、私たち市井しせいの命をもたやすく奪い、大都市をも一夜にして廃墟に変えてしまう。

 悠久の歴史の中で人々の暮らしを支えてきた火が、今は多くの一般市民を殺す武器になっている。


 かつては弓矢や剣の戦いだった。それでも国と国の争いがあり、多くの人々が殺し合い、悲劇が生まれた。

 国というものが生まれる時や滅びる時には、大勢の人々が死ぬ。そんな光景をいくつも見てきた。

 もちろん疫病えきびょうや魔女狩りなんて時代もあったけれど、やがて銃が生まれ、大砲が生まれ……。その行き着く先が、この戦争となっているのだろう。


 ふと昼間の香織ちゃんの顔を思い出した。……秀雄くんはやはり死んでしまったのだろうか。それとも夏樹と一緒にどこかで生き延びているのだろうか。

 生きていて欲しいと思いつつも、心のどこかでやはり死んでしまったのだろうとも感じている。


 一緒にいた人、近しい人が亡くなる。それは辛いことだ。そんなことはわかっている。

 決してうわっつらの言葉だけじゃない。私にだってお父さんを亡くした経験があるんだから。


 ただ……、あの時は夏樹がいてくれた。

 お父さんがガンで闘病中の時も、いや、もっともっと前からずっと夏樹がそばにいて私を支えてくれていた。

 一緒に病院に行ってくれること。一緒に家にいてくれること。隣にいてくれたことで、どれだけ私は救われてきただろうか。


 けれども、その夏樹が今はいない。


 それでも救いになっているのは、この広い世界の中で、私は決して迷子になっているわけじゃないということだ。

 ここで待っていれば、必ず夏樹が迎えに来てくれるとわかっているってこと。

 この狂ったような時代のなかで、ただそれだけが私にとっての支えになっている。


 まあ、それでも辛いし、寂しいし、1人にされて困ってるし、いつまで我慢すればいいのかわからなくて苛立つこともあるし、ぐちぐちと文句だっていいたいこともあるけどね。


 四つんいになって枕ににじりより、笑顔のほっぺたを突っついた。


「あなたはいつ帰ってくるんでしょうね?」


 反応はない。……また突っつく。


「今どこで何をしているんでしょうね?」


 指先でほっぺたの辺りをぐりぐりと押し当てる。本物だったら、ここでつねってやるのに。


「いつまで私を1人にしておくんでしょうね?」


 両手でほっぺたを左右から挟み込む。


「何でもいいから早く帰ってきてよね。……お願いだから」


 ぱっと両手を離して、ため息をついた。


 ――はあ、何やってんのかね。私は。


 迷子よりはいいのかもしれないけれど、待ち続けることも辛いよ。

 疎開している子供たちがいるから、まだマシだけどさ。忙しく動いていることで、あのにぎやかな子供たちの中にいるだけで、幾分か寂しさが紛れているのも事実なんだよね。


 それでも、

「ままならないなぁ。……本当にままならないよ」


 そうつぶやきながら、私は夏樹枕の顔を優しく撫でた。にっこり笑ったその口に、そっと唇を重ねる。

 布の感触がむなしいけれど、それでも幸せな気持ちになった。


 うん。今日は、もう寝よう。


 夢で会えるといいなぁと思いつつ、私は部屋の明かりを落として布団にもぐりこんだ。



 いつしか眠りに落ちてから、どれくらいの時間が経ったろうか。

 ふと目が覚めてしまった。……今は何時だろう?


 室内には5月のどこか気だるい空気が漂っている。

 壁と障子しょうじに囲まれた6畳間。電気をけず、静寂の漂っている今、あたかもこの部屋だけが世界から切り離されているような錯覚さっかくがした。

 それが急に怖くなって、隣の夏樹枕に頬をりつける。


 さっきまで何か夢を見ていたのは覚えているんだけれど、その内容は思い出せない。それがちょっともどかしい。

 まあ、いいか……。まだ早いみたいだし、もうひと眠りしよう。


 そう思って再び目を閉じた。ゆっくりとゆっくりと意識がどこかに沈んでいく――。


 うん?


 意識の端っこで何かが引っかかった。まるで張り巡らしたあみに何かがかかったような違和感がする。

 寝ようとしている時に、一体なんだろう。危機感というほどではないけれど、このままここに居ては面倒なことになる気がする。


 目を閉じたままでこの感覚が何かを探ろうと、耳を澄ませて意識を広げていくと、廊下の離れたところを誰かが歩いているのが感じられた。


 ここに向かっている?


 目を開き、さっと起き上がって周囲を警戒する。さっきまで気だるく感じていた部屋の空気が、今は張りつめているかのように感じられた。

 今はわかる。確かに誰かがやってくる。音を立てないように忍び足で、ゆっくりと。


 こんな夜中に私の所に来るなんて。

 それも見つからないようにとは穏やかではない。


 ……こういう時にどうすればいいのかはもう決まっている。伊達に長く生きているわけではないんですよ。


 というわけで、夏樹枕を持って私は縁側に通じる障子をそっと開いた。そのままガラス戸の鍵を外し、音を立てないように裸足のままで外に出た。


 今日は月が明るい夜だ。

 穏やかな月明かりを頼りに、私は蔵へと走る。暗い林の間を、いくつかの光点が動いている。早くも蛍が少し飛んでいるのだろう。

 その光景を横目にしながら蔵にたどりつき、後ろを気にしながら急いで鍵を開けた。


 大丈夫。まだその誰かが外に出てくる気配はない。

 けれど警戒は緩めないままに、するりと中に忍び込んで鍵を掛ける。


 ここまで来れば、もう大丈夫。はやる胸をなで下ろし、台所脇の水瓶から水をすくって、汚れた足の裏をぬぐった。


 ……さて、誰か分からないけれど、部屋にいないとなったらどうするだろうか。外まで追いかけてくるだろうか。


 蔵の居間の明かりを点けず暗いままでハシゴを登り、2階のロフトスペースへ上がる。ここは夏樹と私の寝室スペース。そして、ここには清玄寺側に向いた窓があるんだ。

 窓を開いて、そおっと外の様子を窺う。


 ここから見える夜の村は静かに眠りについている。何もなければこのまま穏やかな空気が流れるところなのだろうけど……。


 そう思っていると、清玄寺の離れの障子が開いた。月明かりに照らされたその人は、青木先生だった。


 ……そう。そういうこと。


 その姿を見た途端、私は悟った。あの人、私に夜這よばいをしようとしたってわけだ。


 私が夏樹以外の誰かになびくわけないのにねぇ……。たとえ1人でいるからって、ありえないし、すきは見せていなかったはずなんだけどな。そうか。未亡人だから大丈夫とふんだのだろう。


 そりゃあ、この村ではかつて夜這いの風習があったよ。

 正確には今でもあるかもしれないけどさ。ただ、それは事前になんとなく合意みたいなのがあったりするわけで。よりによって私にしなくても。


 だいたい夏樹は戦死したわけじゃないんだし。……他の人にはわからないかもしれないから、それを責めるのは酷かもしれないか。


 見ていると、ガラス戸の鍵が開いているのを見つけたようで、先生は外をながめて私を探しているようだ。


 お願い。そのまま帰って……。


 しばらく視線をさまよわせていた先生だけれど、私の祈りが届いたのか、諦めたように頭を小さく左右に振り、ふたたび障子を閉めていった。

 もしかしたらトイレにでも行っていると思ったのかもしれないね。


 肩から力を抜いて、ため息をひとつつく。

 先生には少し同情をしている部分もある。だって、こんな田舎に男1人で来られてるんだよ。奥さんでもいれば別なんだけれどね……。


 かといって、私にはどうにもできないことだ。しかも誰にも相談できないしねぇ。精々が、あの人に良い人が現れますようにと祈るくらいかな。


 気を取り直して振り返り、私は2階のロフトスペースを見回した。


 私たちが寝室にしていたこの場所。いくつもの思い出のある蔵。

 そして何より、この建物全体に込められた夏樹の力が、私の肌にしっとりと馴染む。


 私を包み込むあたたかい力。心安らぐ気配。思い出の品々。

 それらが私のいるべき場所はここなんだよと教えてくれているように感じる。


 ――うん。今日から、寝泊まりはここでしよう。


 それにしても私に夜這いなんてね。やっぱり1人になると色んなことが起きるもんだ。

 しみじみとそう思いつつ、この事はすっぱり忘れることにした。


 だって今は蔵に居るんだもん。少しご機嫌な気持ちになりながら、私は改めて布団を敷くのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る