第50話 昭和19年8月、春香、学童との生活
子供たちの朝は5時30分の起床ラッパから始まる。
起床して布団をしまい、朝礼の後で、みんなで宿舎やお寺周りのお掃除をして、本堂に集合。ようやく朝ご飯となる。
それが終わったら、午前4時限の授業。もっとも疎開2日目の今日は、分校の子供たちと対面式があるというので、整列して分校に出発していった。
子供たちを見送れば、急にお寺も静かになる。
さっそく私たちは、子供たちの汚れ物を洗濯することにした。
たらいに洗濯板を置き、シャツや下着を一枚一枚濡らしては石けんをつけ、せっせともみ洗いをしていく。
枚数が多いから大変だけど、午前のうちにやっておかないとね。
昨夜はさっそくおねしょをした子が何人もいたようだ。夜にトイレに行くのが怖かったらしい。
もしかしたら、お寺というだけで怖いのかもしれないね。墓地は村はずれだから、ここから離れているんだけど。
シャーーッとたくさんの蝉が鳴きつづけ、午前中だというのに太陽がギラギラと照りつけていた。地面には木々の枝が色濃い影を投げかけている。
チャプチャプと音を立てながら、洗い終わった衣類をゆすいで、絞って水を切る。この時期なら多少絞りが緩くても、
空になったたらいに、しぼった衣類をいれたまま、寮母3人で
宿舎って言っているけれど、お寺としては本当は客殿って呼んでいる。子供たちの間では清玄寺寮とか、単純に寮って呼んでいるらしい。
その宿舎を見て、思わず笑ってしまいそうになる。
「――あらあら」
2階建ての宿舎の窓に、いくつものお布団が掛けられている。太陽に向かって堂々と掲げられている布団には、立派な
う~ん。やっぱり怖いんだろうね。どうしたらいいかなぁ。
消灯時間で部屋や廊下の電気は消すけれど、階段とトイレだけは場所がわかるように明かりを点けておいた。けれど、それが返って怖かったのかもしれない。
闇の中にぽっかりトイレの裸電球だけがついている。静寂、そして、電球のオレンジ色の光が壁板の凸凹を不気味に照らしている。個室に入ると隅の方は薄暗くなっていて、いないはずの虫が動いているような音が聞こえる気がする。まるでホラーのように、扉の隙間から何かがのぞいているような気配を感じてもおかしくはない。……のかもしれない。
それだと、ランプを増やす? 薄暗いトイレじゃなくて、ものすごく明るいトイレにしちゃうか。
それとも板壁が怖いなら、色画用紙でお花やキリンなんかを作って、幼稚園のような雰囲気にしちゃうか……。
まあ、慣れちゃえば
それはともかく洗濯ものを干そう。
しわを伸ばして物干し竿に掛け、飛んでいかないように竹製の洗濯ばさみで留める。そよぐ風に白い下着やタオルが揺れていた。
「春香さんの旦那さんって、軍人なんですって?」
そう尋ねてくるのは、東京から子供たちについてきた寮母の直子さんだ。24歳独身。メガネを掛けて学校の事務員をしていたらしい。
「そうよ。
「ビルマですか。遠いですねぇ」
そういって目を細める直子さん。なんでも彼女の兄は中国で戦っているらしい。手紙には具体的な地名は書いてないのでわからないそうだけど、
もう一人の寮母の安恵さんは、長女だそうで他は弟ばかりらしい。その弟も一番上の子が学徒動員で黒磯の工場に行っているという。
「直子さん。春香さんの旦那さんは素敵な人ですよ」
「え? 安恵さんはご存じなんですか?」
「ええ。
いやいや。安恵さん。その言い方だと素敵な人とは結びつかないから。
「東京では三井物産に勤めてらしたとか」
それを聞いて直子さんが驚いて私の方を見た。
「へえ。東京にお住まいだったんですか……」
「あはは。まあ、ちょっとした
「でも三井なんて凄い。一流の会社じゃないですか」
「働いていたのは昔の話だよ。3年ばかりで辞めちゃったし」
「それから、この村に来られたんですか?」
「そうそう。……東京と比べてどっちがどうって事はないけど、ここの生活もいいものだよ」
「はぁ」
そこへ安恵さんがさらに、私たちが幼馴染みだという情報を突っ込んでくる。妙に詳しいけど、香織ちゃんから聞いたのかな?
「そういう2人は良い人は?」
そう問いかけると、2人とも顔を見合わせて苦笑している。
「私にはまだ早いですよ」という安恵さん。まあ、まだ18歳の女学生さんですからね。相手がいてもおかしくはないけど。
「縁があれば……」と口を濁す直子さん。
年齢的には直子さんは、そろそろ誰か見つけた方がいいと思う。この時代は特に。……ただ、健康な男性は戦場に行ってしまっているからねぇ。なかなか難しいのかもしれないね。
◇
子供たちは午前の授業を終えて帰ってきた。
お昼ご飯が終わった後は、3年生と4年生はお昼寝の時間。5年生と6年生は私と一緒に畑仕事だ。
国の方から援助金や配給があるとはいえ、それだけじゃとても足りない。
川津さんの手配で村の人たちから安く買い入れることもできるけれど、ちょうど広い畑があるんだから、自分たちでも作物を作るべきだろう。
帽子をかぶった子供たちと引率して、うちの畑に行くと子供たちがその広さに驚いていた。
今までは休耕地も多かったけれど、これからは子供たちもいるから、いよいよ本格的に野菜を作れるかな?
さっそく班に分かれてもらって、キュウリやトマト、トウモロコシの収穫と、さらに並行してカボチャの受粉作業をやってもらう。
子供の手とはいえ、さすがに28人もいれば作業がはかどる。途中で休憩をしながら、2時間ほどで大方の作業は終わってしまった。
例の日陰の休憩所に行き、各自持って来た水筒で水分補給。私の水筒にはミントとローズマリー、レモンバームを入れたハーブウォーターだ。この爽やかな風味が汗ばんだ身体にちょうどいい。
どれも温室で採れるので、物資不足の今日でも大丈夫。
機嫌良く、畑の上を飛び回っているトンボを見ていると、男の子たちがいかにも虫取りに行きたそうな表情をしていた。
「行きたい?」
と指をさすと、「網がないから……」と我慢しているようだ。
そうか。虫取り網か。それくらいなら黒磯で手に入りそうな気がする。考えてみようか。
「――あ」
女の子の声がしたと思ったら、バシャッと水がこぼれる音がする。1人、水筒を落っことしちゃったみたいだ。
男の子たちは呆れたように、
「まったく石田はとろいな」
と言うと、こぼした女の子は水筒を抱えて小さくなった。
あ~、こういうのあったな。
私の場合は、いつも夏樹と一緒にいるところをからかわれた覚えがある。
不思議と夏樹は堂々としていたけど、よく考えたら2度目の人生だったわけで、それも当然だよね。
そんな昔のことを思い出しながら、女の子の所ヘ行って、私の水筒を差し出した。
「はい。飲む?」
首を横に振るけれど、
「いいのよ。こういう暑い日はね。ちゃんと水を飲まないと身体がおかしくなっちゃうから」
と半ば強引に渡すと、「ありがとうございます」と言って受け取ってくれた。
そのまま一口飲んだその子の目が丸くなる。
口を離して不思議そうに水筒を見る。
「子供にはちょっと早かったかな?」
「いいえ。おいしかったです」
「そう。ならよかった」
う~ん。まだまだ緊張してる……。
苦笑いを浮かべていると、隣の女の子が、
「鈴子ちゃん。それって水と違うの?」
ときいていた。コクンとうなずいたその子だったけど、うまく説明できないみたい。
「それはね。ハーブウォーターっていって、ハーブを漬けてあるんだよ。……飲んでみる?」
「はい」
とまあ、私の水筒は、子供たちの手を順繰りと回された。
「あ~、女子ばっかりずっけぇ」
一人の男の子が言い出すと、ほかの男の子も同じことを言い出した。
残念。もう水筒が空になっちゃったよ。
でも、そういう子には……、
「あら、いいの? 女の子と私と間接キスになるけど」
「――うっ」
やっぱりそこは気にするんだ。ちょっとおもしろい。
「水出しだから時間がかかるんだよね。明日はみんなの分を作ってあげるよ」
すると途端に、男の子たちが小さい声で「よしっ」と言っている。
まったくね~。6年生とはいえ、やっぱり子供だ。……でもちょっとは素の表情が見られたかな。
そのことに少しうれしくなりつつも、清玄寺に帰る途中で、ハーブを育てている温室に寄ることにした。
野菜を入れたカゴを持ちながら清玄寺に戻ると、本堂の周りの回廊で、3、4年生の子供たちがきれいに並んでお昼寝をしている。中には女の子の人形を抱きかかえている子もいた。
日だまりのなかを、安らかに眠るその寝顔。蝉の声が子供たちを見守るように鳴きつづけていた。
◇
2日目の夜がやってきた。
私たち寮母と美子さんとで内々に相談をして、しばらくはフロア毎に宿直を立てることにした。
というのも、夜のおトイレが怖くて行けないという子が、それなりにいるようだから。
今日の宿直は私と美子さんがやることになっている。私は1階の、美子さんは2階の担当だ。
宿直室として1階の8
というわけで、今晩は8畳間の女の子が泊まる部屋にお邪魔しよう。寝る場所は廊下側。
今は8月の暑い盛りだから、窓も廊下側の
これから子供たちは夜の点呼集合だというので、私も美子さんと一緒に1階の大部屋にやって来た。
宴会もできるくらい広いけれど、さすがに56人の児童が集合すると狭く感じる。先生の前に子供たちが班ごとに並び、気をつけの姿勢で整列している。それぞれの班長さんが先生に全員そろったとの報告をした。
先生が、
「反省」
と言うと、全員で、
「
「信義にたごうことなかりしか」
「気力にかけることなかりしか」
「努力にうらむことなかりしか」
「
と5ヵ条を斉唱していた。
私は聞き覚えがないけれど、何かの標語なのかな? 自戒する内容で、学生に対しては悪くはないと思う。
つづいて先生から訓示として、今日の出来事、明日の予定の説明があり、
「寮母さんの方から何かありますか?」
と尋ねられる。
「はい。……しばらく各階ごとに宿直を置き、みんなと一緒の部屋で寝ることします。部屋は各階とも8畳間なので、何かあったら起こして下さい」
ところが子供たちの返事がない。話の切れ目がわからなかったかな?
「よろしいですか」
「はい」
まだ私もこうして人前で話をするのに慣れていない証拠だね。内心でクスッと笑い、子供たちを眺めた。
連絡事項が終わると、先生が隊長の6年生・笠井
「東京に直れ!」
と号令をする。一斉に子供たちが東京の方を向いた。
「お父さまっ、お母さまっ、おやすみなさい」
すると一同で「おやすみなさい」と言って頭を下げる。そして、すぐに先生の方に向き直り、「先生、おやすみなさい」と同じように挨拶をする。
先生がうなずいて「おやすみなさい」と言うと、将人くんが「解散」と言い、夜の点呼は終わった。
私と美子さんも、先生に挨拶をしてそれぞれの寝る部屋に向かうことにした。
「じゃあ、美子さん。また後で」
「はい。御仏使さま」
と相も変わらず、御仏使さまと呼ぶわけですが、もう言い直してもらうのも諦めている。というか慣れてしまった。はた目には恥ずかしいんだろうけどね。
さすがにまだ2日目とあって、男の子も借りてきた猫のようにおとなしくしているようだ。きっと慣れてくると、廊下とか走り回る子も出てくるだろう。
……それも楽しそうだ。
同じ部屋で寝る女の子たちと一緒に、1階の8畳間にやって来た。
この部屋には6年生2人、5年生2人、4年生3人、3年生2人の9名。それに私。布団が敷ききれないこともあって、3年生と4年生は2人で1枚の布団を使っている。
就寝前の少しの時間に、みんなの服がかわいいねと言ってあげた。なんでも、今回の疎開に合わせてご両親が服を仕立ててくれたらしい。
かといって暮らしが裕福なわけでもなく、配給外の食糧も衣服も手に入れるのには苦労しているようだ。
……もしかしてご両親は、これが子供にしてあげられる最後になるかもしれない。そう思っているんじゃないだろうか。
考えてみればそうだよね。今は戦時下だ。いつ何が起きるのかわからないんだし、それよりなにより小さな子供を親元から離して、こうして集団生活をさせること自体が普通ではない。
きっと目の前にいる子供たちは、そこまでわかっていないだろうけど……。そんな親の思いに考えが至ってしまうと、そこに込められた愛情に少し目頭が熱くなる。
なんだか最近は
6年生の班長さんは宮田香代子ちゃんで、その指示で皆で布団を敷く。
まだ3年生の子は、シーツの敷き方がわからないようで戸惑っていた。上に載せるだけだと寝ているうちにめくれちゃうから、敷き布団の下に折り込まないといけないんだよ。
「シーツはこうやるといいよ」
と一緒にやりながら教えてあげると、「はい」と小さい声で返事をしてくれた。
廊下を6年生の男の子がやって来た。廊下を歩きながら、
「消灯!」
と大きな声を出していく。きっと伝令の係なんだろう。
「じゃあ、私は後でやって来てここで寝るから、何かあったら遠慮なく起こしてちょうだい」
誰かが起きればすぐに気配でわかるけれど、言い含めておけば安心だろう。
班長の香代子ちゃんが明かりのスイッチを消す。部屋の明かりは暗くなり、廊下のすみと階段にだけ小さな明かりが残った。
「おやすみなさい」と声をかけ、私は一度、宿直室に向かった。まもなくして美子さんもやって来た。おしゃべりをしながら時間が経つのを待ち、40分後にお互いに「おやすみなさい」と挨拶をして、静かに8畳間に戻る。
途中で通りかかった大広間を廊下からのぞくと、まだほとんどの子供が起きているようだ。疲れてはいるんだろうけど、普段とは違う環境で、なかなか寝付けないのかもしれない。
――うん?
微かにだけれど、部屋の奥の方から鼻をすする音が聞こえた。
そっと部屋に入って音の聞こえた方へ行くと、どうやら3年生の子供たちの一画のようで、女の子がお人形さんを抱きかかえ声を殺して泣いている。
手を延ばして頭を撫でてやると、ビクッと震えて私を見上げてくる。見ると同じ布団で寝ている子も、ほかのお布団の子もじっと我慢しているようだ。
これは……、すべての部屋を回った方がいいかもしれない。
指先に感じるベタついた髪を
裏技で無理矢理ではあるけれど、すうっと眠りについていく子供たちが愛しい。
親から遠く離れて暮らす子供たち。だけど、少しでもここを家と同じように思ってくれたら……。
健やかに、安らかに。こんな時代に負けないように育ってほしい。そう思う。
大広間が終われば、8畳間。そして、2階の男の子たち。子供たちの頭を撫でて回る私を、美子さんがじっと見つめていた。
――――
――
夜中におトイレに行きたいという子供に何度か起こされて、一緒について行ったりしたけれど、朝は朝で子供たちよりも早くに起きる。
午前5時。外は日の出を迎えたばかりの時間帯で明るくなってきていた。
鳥のさえずる声を聞きながら伸びをして、身なりを整えてすぐに
すでに直子さんと安恵さんが朝ご飯の準備を始めていた。
「おはようございます」
と挨拶をして、私も
――さあ、今日もばりばり頑張るぞ。
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