第46話 昭和19年9月、夏樹、密林をさすらう

 ピチョン。ピチョンと頬に水が当たっている。


「ふふふ。起きたかな」

 この声は春香だな。俺が寝ているのをいいことに、いたずらをしているのだろう。

 外は雨だろうか。ザーッと音がしている。


 なんだか疲れが残っていて体を動かす気力が無い。そのまま寝ている振りをしていると、春香は、俺の体のあちこちをツンツンと突っつきはじめた。


 まったく。しょうがないなぁ。


 思わず口元に笑みが浮かびそうになって、我慢するが、

「起きてるのはわかってるんだぞ」

と春香が耳元で言ってきた。


 笑いながら目を開けると、そこには浴衣姿の春香が笑っている。膝枕をしてくれていたようだ。

 そばの机には水滴のついたコップがおいてある。さっきの水滴の正体はあれかな?


「お寝坊さん、おはよう」

「おはよう。……なんだか体がだるい」

「夏風邪かな? どれどれ」

 ほっそりした手が額に乗せられる。

「大丈夫。熱はないね。いつも頑張っているから少しは休めってことかな」

 だといいんだけどね。


 風鈴が涼やかな音を響かせる。


「――なんだか凄い夢を見たよ。戦争のまっただ中に行ってさ」

「へえ」


 ……本当はわかってるさ。こっちが夢なんだろ。


「今度話を聞いてくれるか」


 でも……。今はまだめないでくれ。

 そう思うと涙が出てきた。

「どうしたの? そんなに辛かったの」

「まあな」

「そう……。戦争だものね。うん。泣いてもいいよ。夏樹が何を見てきたのかを私にも教えて。多分、私も一緒に泣いちゃうと思うけど」

「ああ」


 少しずつ声が遠くなっていく気がする。


「だから、あなた……。もう少しがんばって。私はずっと待っているから」

「ああ。わかってる」


 ――愛しているわ。


 その声を最後に意識が急浮上していく。


 俺もだ。春香。おまえを愛している。


 ……ああ、この言葉は届いただろうか。夢の中の春香に。



 ザーッと聞き慣れた雨の音が。そして、服の中を何かがいずり回っている。


「う、」


 一声ひとこえ挙げた途端、体に痛みが走った。しかし、すぐにすうっと痛みは消え、俺は目を開ける。

 雨にれた木々。葉っぱが雨を弾き、地面には土砂が広がっている。そのすぐ向こうは川になっていて水が流れていた。


 ここは……。そうか。崖崩れに巻き込まれて……。


 何があったのか思いだした俺は、体を確認したがどこも怪我はないようだった。まあ、それも当然か。

 ただ服の中に虫が入り込んでいるようで、それが気持ち悪い。入り込んだ泥がざらざらとしている。幸いに頭上に枝が張りだしていて、俺を空から隠してくれていた。


 泥からい出て木の根に座る。

 もうしょうがないから服を脱いで、中に入っていた虫を放り投げた。この泥は……、どうにもならないだろう。気持ち悪いけれど、あきらめて再び身にまとう。


「うん?」

 さっきまで気がつかなかったが、少し離れたところに背の高い草に埋もれるように1台の車があるようだ。誰かが乗っている。

「誰かいるのか」

と声をかけながら近くに寄っていくと、そこには軍服を着た骸骨がいこつがハンドルを握っていた。


 こいつ。弓の自動車隊の誰かだろうか。それとも師団直轄ちょっかつか? 輸送の途中で崖から落ちてしまったんだろうが……。


 そいつの足元に背嚢はいのうがあったので中をまさぐって軍隊手帳を探すも、どうやらどこかで紛失したらしく見当たらない。それとも生き残りがいて持っていったのだろうか。見ると確かに右手の親指の骨がないようだ。


 それを見て俺は安心した。なら大丈夫か。……この背嚢はいのうの中身は申しわけないが使わせてもらおう。


 そう思った時だった。少し離れたところの茂みが揺れた。

 反射的に車体の影に身を隠し、ナイフを取り出した。小銃は崖崩れの時にどっかにいってしまっている。手元の武器はこれくらいしかない。


 何か、もしくは誰かが近づいてきている。

 緊張が高まる。息を殺しながら、その誰かを確認しようと、茂みに意識を集中していた。


 鉄帽だ。それも日本軍の……。


「誰かぁ」

と声を挙げて誰何すいかすると、揺れていた茂みがピタッと止まった。日本語で呼びかけたから、向こうもこっちが分かったはずだ。


 頼む。日本軍でいてくれよ。


 その願いが通じたのだろうか。はたまた因縁のなせるわざか。

「弓は作間連隊の井上だ。井上秀雄だ。――そっちは誰だ」


 井上秀雄! 秀雄くんじゃないか!

 俺は手を挙げて、

「こっちだ。俺だ。夏樹だ!」


 はじめはギョッとして小銃を構えた秀雄くんだったが、驚きに目を見開いて慌てて銃口を下げた。

「夏樹さん!」


 俺を見て安心したのか、笑顔になった秀雄くんだったが、そのまま後ろにふらっとよろめいて尻餅をついた。


 ……ああ、やつれたなぁ。だいぶ。


 苦笑しながら近寄って、手を引っ張り上げてやった。


「いやぁ。あの崖を落っこちちゃいましてね」

「俺もだよ。ほら……、あの崖崩れに巻き込まれて」

「よく無事でしたね」

「人のことは言えないだろ」

「それもそうだ」


 そう言って秀雄くんは笑った。


 さて2人になれば、できることも増える。とはいえ、崩れた崖を見上げるも、ここを登るのは危険そうだ。どこか別の道を探すしかないだろう。


 崖の位置から、おそらく現在地はトンザンからテイデムに向かうインパール街道のさらに東側。谷間のどこかだろうと思われる。

 目の前には小さな川が見える。おそらく雨季にしか現れない川だと思われるが、あの流れる方向に進んでいけば、やがてどこかの集落が見つかるだろう。


 相談した上で、敵機に見つからないように注意しながら、あの川から近すぎず、離れすぎずの距離を保って下流の方に進むことにした。

 うっそうとした林の中だ。なにか目標となるものがないと方向を見失ってしまう。どこか見覚えのある場所にぶつかることを期待しよう。



 幸いにも秀雄くんは小銃を持っている。だから彼には警戒をお願いし、ナイフを持った俺が先に道を作る。……正直にいえばかなり体力を消耗しているようで、ふらついている彼に先頭を行かせるのはこくというものだ。


 俺たちの行く手を阻むような緑の壁。そのなかでも獣道を見定め、邪魔な草木を切り払う。部隊の行軍ではないから、川さえ見失わなければ自由にルートを決定できる。その点は楽だな。


「夏樹さん。山歩き慣れてますね」

「まあな。これでも春香と一緒によく狩りをしていたから」

「そういえば、あの飢饉ききんの時も山で鹿を仕留めてましたか……」

「よく覚えているな」

「ははは。こうして部隊と離れると、どうしても昔のことを思い出しちゃって」

「……それもそうか」


 しかし、すぐに口数が減っていく。後ろからはついてきているが、周りを警戒しているわけでもなく、体力が無くてついてくるのが精一杯という様子だ。


 どうやら雨はそこまで強くないらしく、葉っぱに囲まれている俺たちのところまでは降っては来ない。

 何度目かの休憩をとったところで、次第に周りが暗くなってきたことに気がつき、いったん夕飯がてら長めの休憩にした。

 途中で見つけたジャングル野菜で、後でスープでも作ろう。


 例の自動車の中にあった背嚢に、幸いに携帯天幕があったので、それを使わせてもらう。

 枝で天幕を吊り、下に敷物を敷いて準備ができたところで、秀雄くんは、ちょっと……と言って、茂みの中に入っていった。


 ずっとフラフラしているようだったし、一瞬、マラリヤかとも思ったが、確認してみると幸いに熱は無いらしい。もし腹を下しているのだとしたら思い当たるのはアメーバ赤痢だ。


 ……早めに部隊に追及。それも野戦病院か衛生兵のところへ行かないとマズそうだ。

 とはいえ、今はどうにもできない。俺も休憩させてもらおう。


 投げ出した足の先。道の端っこでは、山ヒルが尺取しゃくとり虫のようにその体を伸ばし、俺の足に取りこうとしていた。

 ナイフの端っこで引っかけて遠くに投げ飛ばしたが、俺に取り憑いたところで血は吸えないだろうに。


 夕飯代わりに雨水を集めて、そこにジャングル野菜を入れて、水の煮沸しゃふつ消毒も兼ねてスープを作る。残念ながら塩はない。けれども、重湯がわりにはなるだろう。これで少しでも腹がくちくなればいいんだが……。


 ついでに燃やすのに使った木片の燃え残りを手渡す。何も訊かずに受け取ったところを見ると、炭がくだはらに効くということを知っていたようだ。


「すいません。作ってもらっちゃって」

「いいって。サバイバルは俺の方が慣れているみたいだからな」

「すいません」

 頭を下げる彼の飯ごうにスープを入れてやった。

「まあ、ジャングル野菜しかないが、我慢してくれ。……どこかにマンゴーでもあればいいんだがなぁ」

「はは……、そうですね」



 ――静かだ。

 時折こぼれてくる雨水。地面を流れる水。どこもかしこも水の流れる音しか聞こえてこない。かといって空から見えては困るので、明かり代わりの火を起こすわけにもいかない。


 ふと秀雄くんが小さい声で歌をうたい出した。


 ――夕焼け小焼けの 赤とんぼ

   負われて見たのは いつの日か


   山の畑の 桑の実を

   小籠こかごんだは まぼろしか


 きっと松守村を思い出しているんだろう。

 彼の心には、今どんな風景が映し出されているのだろうか。


「俺と香織は小さい時から兄妹同然に育ったんです」

 ぽつりと語り出した秀雄くんの話を聞く。


「まあ、ちっちゃい頃は生意気な女の子でしてね。でも、あの飢饉ききんで、身売りになるって聞いて、すごい心配したんです」

 そう言って俺を見る。

「今だから言いますが、それも東京だっていうんで、いくら清玄寺の仲介とはいえ、もう会えないんじゃないかって思いましたよ」


 はははと苦笑いをするしかないが、その俺の表情を見て秀雄くんも笑っていた。

「まあ、実際は、村で暮らす以上に良くしてもらっていたようですが」


 そりゃあね。


「久しぶりに村に帰ってきて、ちんまい子供だったのに、すっかり女らしくなってて。……正直、年下のはずが同い年。いや年上のように見える時もありましたね」


 きっと香織ちゃんは、清玄寺や俺たちの畑で働きながらも、お休みの度に実家に戻っていたんだろう。その時に、秀雄くんと会っていたにちがいない。

 恋愛相談を受けていた春香なら知っているだろうけど、きっとそうやって仲を深めていったんだろう。


「春香さんにもお世話になって、香織から発破をかけられましてね。私と結婚したいなら早く覚悟を決めろって言われて」

 その時のことを思い出しているんだろう。目を細めて、口元に笑みが浮かんでいる。


「そうだ。前にもらったタバコがまだ残ってるんです。――1本どうです?」

「そうだな。……もらおうか」

「元々は夏樹さんのですがね」


 彼の差し出した箱から1本とると、彼も1本指にはさんだ。

 何度もマッチを擦る秀雄くんだが、すっかりしけててなかなかつかないようだ。マッチを取り上げて、ひそかに神力を利用して点けてやる。

 先に彼のタバコに火を点けてから、くわえたタバコの先端に火を点けた。ふうっと息を吐くと、タバコの先端がさあっと赤くなり、細く煙が出た。


 すうっと吸い込み肺に煙を送り込むが、相変わらずどこが旨いのかよくわからない。

 けれど、こうして秀雄くんと並んで吸っている。この雰囲気がいい。


 それから夜になったので、休憩を切り上げて再び獣道を歩き続けた。


 夜の森を、たった2人で進んでいる。だけど、今は不気味な気配もなければ、危険も感じない。何かに見守られているような、そんな温かさを感じていた。もしかしたら、秀雄くんが一緒にいるせいかもしれない。


 さて夜半を過ぎたところで、とうとう秀雄くんに限界が来たようなので、朝まで仮眠をとることにして、再び天幕を張った。


 本当は交代で見張りをしようと言っていたが、秀雄くんはあっという間に眠り込んでしまった。

 ……だが、それでいい。少しでも休んで体力を回復してくれ。俺は睡眠不要だから平気だしな。


 夜の暗がりのなかで、じいっと俺は座り込んで物思いにふける。

 谷底に落ちた時はあせったけれど、こうして彼と合流できたのならば、かえって良かった。あのままだと秀雄くんは1人で死んでいた可能性もある。


 体力があっても、1人きりは心細くさせる。心細さは、そして体力のない時の辛さは、たやすく心を絶望に染める。

 そうなってしまえば、諦めて手榴弾で自決してしまうこともあるだろう。人は1人では生きていけないんだ。ましてやここは戦場だから尚のこと……。


 その時、ふと何かの気配を感じて、さっと左を見ると、獣道の奥に1頭の虎がたたずんでいた。そうか。この獣道は虎の通り道だったのか。

 グルルルと息遣いきづかいが聞こえてくる。獰猛どうもうな目で俺たちを見ていた。


 言葉に神力を乗せて「去れ」と言おうとした時、その虎の傍らに透き通った少年と少女の姿が現れた。

 思わず身構えたが、もしかしてこの子らはチン族の信仰するナッツか?

 2人は無言で微笑みながら俺の前にやって来て、すっと闇の中の一方向を指さした。


『――あっちへ行けってことか?』

 チン族の言葉でそう尋ねると、コクンとうなずいている。

『そうか。日本軍が向こうにいるのかな。……ありがとう』


 礼をいうと、2人の精霊はうれしそうに手を振りながら、すうっと姿を消していった。

 虎はどうなったかと思って振り向くと、すでに姿を消していた。ぽつんと、2つのマンゴーを残して。



――――

『赤とんぼ』

作詞:三木露風(PD)JASRAC作品番号 000-0391-3

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