第47話 昭和19年9月、夏樹、カレミョウ

【傷病者描写注意】



 2人の精霊ナッツの教えてくれた方角をひたすら進む。1日、2日と日が経ち、頭上を戦闘機や爆撃機がさかんに飛んでいく日もあった。

 もはやどれだけの日にちが過ぎたのか、よくわからない。

 次第に秀雄くんのお腹も、下す回数が増えていて、少しずつ体力を失っていっているのが心配だ。


 それでも途中でマンゴーの木を幾つか見つけたこともあり、どうにかこうにか歩き続けることができた。


 やがて道しるべにしていた小さな川が、ここから前方でより大きな川に合流しているのがわかった。

 敵影が無いかどうかを確認してその川辺に出てみると、どうにも見覚えがある。方角は何となくだが南に向かって流れているようだ。


 その時、対岸を少し下ったところに集落の建物が見えた。

「あれは……」

 すると後ろで木により掛かっていた秀雄くんが、ぽつりとつぶやいた。

「ヤザギョウじゃないですか?」


 その地名を聞いて思い出した。そうだ。ここはヤザギョウだ。野戦病院も倉庫もあったはず。すると俺たちは今、カボウ谷地にいるのか。

 たしか秀雄くんたちが進軍したのは、ここヤザギョウが発起ほっき地点だったな。それで覚えていたのだろう。


 ここがヤザギョウだとすると、南に行けばカレミョウやインタンギーだ。幸運にも俺たちは、ケネディピークやフォートホワイトの高山をショートカットしてこれたんだ。

 ひそかに案内してくれた2人の精霊ナッツに心の中でお礼を言う。



 さて場所が分かれば元気も出てくる。とすると、目の前の川はミッタ川だろう。ここをずっと下流に行けば、エナンジョンの北方でイラワジ河と合流するが、空からは丸見えなのでその手段はつかえない。


 ともあれ、俺たちは気を引き締めて、カレミョウに向かって川沿いを南下した。


「おお……。追いついた」

 無事にカレミョウで日本軍に追及できたことに安堵して、座り込みそうになってしまう。

 もちろん自分の部隊かどうかはわからない。それでも、ここまで無事に来られたことがうれしい。


 しかし、秀雄くんはやはりアメーバ赤痢に感染していたようで、すでに重篤じゅうとくの症状を呈している。

 薬なんかないから、増田の時のように炭を作っては食べさせている状態だった。


 近くの座り込んでいる奴に聞いてみると、まだ作間連隊がティデムで英印軍を抑えているらしい。

 とにかく師団の撤退を急がせているらしいが、敵の飛行機が街道も川面も監視しているため、夜間しか移動できず。しかもチンドウィン川を渡るのに時間がかかっているという。


 ここに来るまでで体力を使い果たしてしまった者も多く、野戦病院もあるせいか、多くの傷病者の姿が見える。しかも隅の方では、力尽きた者の遺体をもまるで眠っているように横たわっていた。

 それを気にする者もなく、ここでは生者と死者が一緒になっている。


 俺は秀雄くんの肩を支えながら、野戦病院に向かって歩きはじめた。


 泥まみれの兵士。あかか、死臭ししゅうか、なんとも言えない腐臭ふしゅうが辺りに漂っている。

 血のにじんだ包帯。手の傷にうじが湧いていても、もうそれを振り落とすこともできないでいる兵士。目を開き、生きているのか死んでいるのかわからない奴。


 ……はたしてここは、本当に現世なのだろうか。同じ地球なのだろうか。

 そんな馬鹿げた考えが頭に浮かんでくるほど、ここにいる人々は凄惨せいさんな姿をしていた。


 しかし、目の前の人々――。

 やせ衰えて骨と皮だけになり、傷か病気かわからないが体の一部がふくらんでいたり、白くぶよぶよの素足を投げ出し、服はボロボロでシラミがっていて、うみと血便で汚れたふんどしのままに横たわっている者たちが、ゆっくりとうごめいている。

 この人々を見ると、これが現実の光景とは思えなかった。


 不意に離れたところの一角いっかくでケンカが起こり、「貴様か。俺の――をったのは」と声が聞こえたが、周りの奴も一瞥いちべつするだけで何も言わなかった。


 がしっと突然、服を捕まれた。見下ろすと、目をぎょろっとさせた兵士が俺を見上げている。


「なあ、お前、なんか食うもん持ってないか? なければ手榴弾しゅりゅうだんでもいい」


 目の奥に青白い火が見えるようだった。

 ――なんでこんな所にいるんだ。なんで俺たちはこんなに苦しまなければいけないんだ。彼の瞳にその怒りが、恨みが宿っているのだろうか。


 異様な雰囲気をまとっているその男に、俺は黙って首を横に振った。それでもそいつは、秀雄くんの方を見たが、秀雄くんも首を横に振った。

 やがて諦めたのか、その男は舌打ちをして手を離してくれた。


 突然めまいが俺をおそった。

 ……ここは一体なんなんだ。なんなんだよっ。

 ただその言葉だけがグルグルと頭の中で回っていた。


 目を閉じてめまいが治まるのを待つ。ようやくマシになったので目を開いたところ、ふと足元に1枚の新聞らしきものが落ちているのに気がついた。


 ――こんな場所で新聞?


 だが本物ならば情報に飢えている俺にとって、こんなにありがたいものはない。

 拾い上げて読んでみると、タイトルに『陣中新聞』と書いてある。日付は6月19日。読んでみて驚いた。

 連合国軍によるフランス・ノルマンディへの上陸作戦。さらにサイパン陥落と本土空襲。北ビルマの情勢まで詳細に記事になっていた。


 なんだか、自分の足元にぽっかりと穴が開いている気持ちがする。

 いや、これはあらかじめわかっていたことじゃないか。この戦争に日本が負けることは。


 しかしそれでも、追い詰められていくドイツと日本の記事を見ると、俺たちは一体なんのために戦ったのか、わけが分からなくなってきた。

 何のために、あんなに大勢が死んだのか。何のために今も、この河原に集まっているのか。何のために。何のために……。


 俺の肩にもたれかかっている秀雄くんがいなかったら、俺はその場にへたり込んでいたかもしれない。


 その時、ぼんやりしている俺の視線の先で、うずくまっている一団の中に埋もれるように、横たわる増田の姿があった。


「増田だ。……秀雄くん。ちょっと我慢できるか?」

と断って、急いで増田の所に向かった。


 増田のそばに2人の兵士が屈んで、何かを見ている。……あいつら何をしているんだろう? 話しかけているようでもないが。

 俺が来たことに気がつくと、その2人の兵士は立ち上がってこっちにやって来た。


「なあ。ここだけの話なんだが、牛の肉がある。100円でどうだ?」「いちじくもあるぞ。こっちは30円でいい」


 は? 牛肉? いちじく? ……そんなもの今はどうでもいい。


「すまん。今はいい」

 そんなことより早くそこを通してくれっ。

「そうか――、じゃあな」と言うそいつらの横を通り抜けて、増田のところへ駆けつけた。


「おい増田!」

と声をかけるも、横になった増田は弱々しく俺を見上げた。

 何かをしゃべろうと口を開けたが、言葉が出てこない。喉がヒュウッと音を鳴らす。そして……、なんてことだ。金蝿きんばえがたかっている。


 あわてて近くにしゃがみ込んで肩に手を置いた。

「しっかりしろ。俺だ。夏樹だ」

 力なく増田はうなずいた。


 ……死期が近づいている!


 否応なく、その事がわかってしまう。増田の命が消えようとしているのがわかる。こいつから死の匂いがしていた。


 愕然がくぜんとしながらも必死で声をかけると、増田は息を荒げながら、震える手でポケットの中から何かをとりだした。

 俺に持って行ってくれというように掲げられたのは、しわくちゃになった遺書だった。

「お、おい。馬鹿野郎。なんだよこれ。しっかりしろよ」


 もうそれしか言えない。光の消えそうな目で、増田が俺を見つめている。

 俺が懸命になっているのがおかしいとでもいうように、そっと微笑んだ。

 口が開いた。あわてて耳を近づけると、


「あ、りがと……。後は……」

とかすれた声で言い、最後に小さく誰かの名前を呼ぶ。

 ふっと力が抜けた増田は、そのまま横たわった。まるで眠っているように。――動かない。


「おい。増田。……増田。おい。返事をしろ! 増田。馬鹿野郎。しっかりしろ!」

 いつしか俺は泣いていた。なんども増田の名前を呼ぶ、肩を揺するが、それから増田が目を開けることは二度と無かった。


 くそ。ちくしょう。お前まで死んじまいやがって。くそっ。くそっ。くそっ。



――――

――


 どれだけの時間をそうしていたのだろうか。

 急にポンと肩を叩かれて振り向くと、そこには心配そうな表情の秀雄くんがいた。「夏樹さん」

「ああ。わかっている……。すまん」


 痛ましそうな視線をしている彼に謝り、俺は地面に落ちた遺書を拾った。「馬鹿野郎。こんなものをたくしやがって」


 ナイフを取り出し、奴の親指を切り取る。軍隊手帳を抜き取り、一緒にあり合わせの布でくるんだ。


 ふと見ると、すでに靴を履いておらず裸足になっていた。……いやまてよ。脱がされた跡があるぞ。

「まさか」

 誰かに取られたのか?


 怒りでギリッと歯をかみしめる。が、今さらどうにもできない。


 増田の顔を忘れないように、じっと見つめる。

 辛かったろう。苦しかったろう。故郷くにに帰りたかったろう。家族のところへ帰りたかったろうに。


 こいつの望みも、命とともに虚しく消えてしまったのだ。


 秀雄くんが急に倒れたのは、その後すぐだった。

 あわてて背中に背負って病院に急ぎ、軍医に診てもらう。そこで告げられた病名は、俺に衝撃を与えた。


「マラリアだな。……残念だが、ここにはもうキニーネも無いぞ。カレワに行ってみろ。あそこならまだ残っている可能性がある」


 マラリア! よりによって……。もしかして南端とはいえ、カボウ谷地を通過したのがいけなかったのだろうか。俺がそばについていながら……。


 辛そうな表情の秀雄くんを見て、俺は後悔の念に襲われた。だが、秀雄くんはまだ生きている。


 カレワか。自動車なら1日だが、歩きなら3日ほどかかる……。だが、俺が連れて行く。背負って、山を越えて、もしカレワになかったら、いかだをつくってでも直ちにチンドウィン川を渡ろう。

 必ず秀雄くんを助けるんだ。絶対に香織ちゃんの元に連れて帰るんだ。


 俺は先生にお礼を言うや、すぐに秀雄くんを負ぶって野戦病院を出た。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る