第44話 昭和19年9月、夏樹、野戦病院

 撤退作戦がはじまってから、およそ1ヶ月半が経った。

 笹原大隊は、師団の、そして第15軍の撤退を支えるため、見事な遅滞ちたい戦闘を繰り広げ、敵英印軍の追撃を阻止そししつづけている。


 その間、俺たち輜重兵しちょうへい33連隊は、彼らへのなけなしの弾丸補給と、戦傷者の後方輸送、川の渡河とか補助にと駆けずり回っていた。


 しかし、すでに指揮網も崩壊しつつあり、全体がどうなっているか、師団が、連隊がどうなっているかよくわからなくなりつつある。


 ここはトンザンの後方にある野戦病院。

 9月15日からトンザン北方にまで進出してきた敵と、トンザンの笹原大隊が決死の防衛戦を行いつづけ、既に4日が経っていた。


 一刻も早くここの傷病者を後方に下げなければならないが、車両は1台もなく、「歩け」とただ送り出すだけしかできず、遅々として進まない。


 北方に見えるトンザンの上空では、20数機の戦闘機や爆撃機が旋回しており、陣地では砲撃や爆撃で幾度も土が舞い上がっている。

 もはや防衛戦といえる状態じゃない。ただ攻撃に耐え続けているようにしか見えない。

 眼前で蹂躙じゅうりんを受ける陣地を見ていると、悔しくてたまらない。しかし、もちこたえてくれと祈っているひますら残されていないのだ。


「急げ!」

「がんばれ。立てるか!」


 戦友たちが駆けつけて、肩を貸して行ってくれる奴はまだいい。すでに生き残ることを諦めている奴もいて、特にマラリアで高熱を発している奴など、近くの茂みに自ら入っていき手榴弾しゅりゅうだんで自決をした者もいる。


「笹原大隊、撤退てったい! 次はここに来るぞ。急げ!」

 無線を受けたのか、天幕の外で誰かが叫んだ。


 野戦病院がさらに騒がしくなる。この病院のやや北方に松林があって、そこに山砲兵が陣を張っていた。だが、敵軍がここに来るのも時間の問題だろう。


 くそっ。

 心の中で悪態をつきながら、天幕内を見る。まだ避難が住んでいない者が40名ほどもいる。


 すぐ手前にいる、両足を怪我している若い兵士が、なさけない表情で俺を見上げていた。

 見捨てるのかと問いかけているような視線。


 俺がこいつを連れて下がったら……。他の奴らは連れて行けないだろう。

 しかし、もうタイムリミットだ。全員を助けることは……、もう無理だ……。


 その時、奥の方から一際ひときわ大きなうめき声が聞こえた。どうにか立ち上がった兵士が、杖を両手で突きながらやってくる。


「おいっ。少しでも動ける奴はついてこいっ。――――最後の戦いに行こう」


 その声に誘われたように、横たわっていた兵士たちが、やはりうめき声を上げながら体をどうにか起こしていく。

 中には泣きそうな表情の奴も、寂しそうに笑っている奴もいる。


 どうする? いや、俺も――、戦うか。それともこいつを連れて下がるか。


 みんなに声を掛けた兵士がゆっくりとやって来て、俺を見た。

「お前はそいつを連れて下がれ。俺たちが戦っている間に。さあ、行けっ」


 俺も戦う、とは言えなかった。後につづく兵士も、

「お前は輜重しちょうだろう。早く行け。戦うのは俺たちの役目だ」


 次々にそう言って、満身創痍まんしんそういの姿のままに外に出て行く奴ら。残された天幕には、もう動けずに横たわったままで涙を流している者がいた。そいつらが俺を見て、「早く、行けぇ」と怒鳴どなった。その手には手榴弾が握られている。


「すまん! ――さあ、乗れ」

と謝って、すぐに傍の奴に背中を向けてしゃがんだ。そいつも「すまん。みんな。すまん……」と言いながら俺の背中につかまる。


「しっかりつかまっていろよ」

 そう言って立ち上がり、俺は振り返ることができずにそのまま天幕を出た。


 北に構築した陣地に向かって、よろよろの一団が進んでいく。最後にその勇姿を見て、俺は南の、ティデムに向かって足を速めた。


「くそっ。みんな。……すまん」

 無意識のうちにつぶやきがれつづけていた。だが、立ちとどまることはできなかった。

 背中に負ぶったこいつの重みが、俺を前へ前へと進ませる。一刻も早く、ティデムに。みんなの戦いを無駄にしてはいけない。


 後ろ髪を引かれる。心残り。悔しい。そんな言葉で、この気持ちは表現できない。

 ただ申しわけない。後ろに残して行かざるをえない皆に、ただただ申しわけない。


 頭上に戦闘機が飛び始めた。あわててインパール道から脇の林に入るが、彼らの狙いは俺たちではなく、退却する笹原連隊や先ほどの野戦病院のようだった。


 今のうちだ。すぐに道に出て足を速める。背中から機銃掃射そうしゃの音が聞こえだした。ヒューンと言う音、そして、急降下したり旋回しているブウーンという音が、近づいて来ている。


 爆撃の音が近くなった。ちらりと背後を見ると、野戦病院の辺りをめがけて、次々に爆撃機が急降下していた。


「ちくしょう。ちくしょう!」

 悔しさと情けなさで、涙がにじんでくる。それでも俺は足を動かし続けた――。


 雨が降る。道はぬかるんでいる。足が滑り膝をつくが、それでも立ち上がり、ひたすら歩き続けた。

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