第43話 昭和19年7月、夏樹、打ち破られた作戦、無念の撤退戦へ

 6月18日、待望の援軍として、京都はやす第53師団の151連隊300名が到着した。


 心強い援軍に、下がっていた俺たちの士気も、これでまだ戦えると上がりはじめていた。


 あいかわらず牟田口司令官は、なんとしてもインパールを攻略するとの妄執を持っているようで、作間連隊にコヒマを遮断しゃだんせよと師団命令が下った。


 コヒマは、烈師団が攻略したはいいものの、敵の増援部隊と飢餓きがによって撤退していったところだ。

 対する作間連隊はインパール手前の山中にある。どうやってコヒマへ行けというのだろうか?


 そんな命令を出せるとは、もはや正常な神経ではない。そんな気がする。

 もっとも第一線も第15軍方面軍も、誰一人として冷静に物事を判断できなくなっているのかもしれないが……。



 今日6月27日の朝、安師団は師団命令に従って、シルチャール道にある林高地陣地への攻撃を開始した。


 ――林高地の陣地。

 それは、俺たち弓師団が何度も突撃しながら遂に落とせなかった陣地だ。


 誰もが諦めまじりでもなお、安師団の成功を祈りつづけている。やがてここまで聞こえていた突撃の声と銃撃じゅうげき音が急に静かになった。今では、耳を澄ませば散発的な音が聞こえてくるくらいだ。


 本部から興奮した通信士の声が聞こえてくる。

「橋本連隊。突撃成功! 林高地を占領」


 その声が聞こえてきた俺たち外の兵士も、たちまちに歓声を上げた。


 アメーバ赤痢せきりから復帰した増田も、うれしそうに、

「流石は新着の部隊だ! 俺たちが散々苦労していたのに。……すげぇ!」

とすっかり伸びてしまったひげ面をほころばせている。

 小躍こおどりしそうになってふらついていたが、それも無理はない。ほとんど食べられていないから。


 輸送するトラックもなく、アラカンの山々を徒歩で越えてきた彼ら安師団だったが、わずか30分で、あの苦汁くじゅうをなめ続けた陣地を攻略したとは!

 確かにすごい。


 幾度いくども突撃して死んでしまった仲間たちには悪いけれど、こうして無事に占領できたことを彼らも喜んでくれるんじゃないだろうか。


 久しぶりに明るい気持ちで、俺は命令のあったとおりに、他のみんなと一緒に徴発ちょうはつに向かうことにした。


 ――その時だ。


 突然の爆音が空気を揺るがした。

「なんだ――」

と振り返ったのと同時に、次々に空気が震える。地面が揺れた。林高地陣地の方向から、まるで火山の爆発のように噴煙ふんえんが空高くまでのびていた。


 あれは一体? 何が起きている?


 一瞬そう思ったものの、砲撃音が鳴りつづき、占領したばかりの林高地が攻撃を受けていることがわかった。

 花火の連発どころじゃない。いつまでも続く砲撃音に耳がおかしくなる。誰もが陣地の方を唖然あぜんとした表情で見つめていた。


 あ、あ。なんてことだ。


 雷が落ち続けるような、イグアスの大瀑布ばくふの下に行った時のような、俺たちをあっするようなすさまじい音。それが一体どれくらいの時間続いているのだろう。

 立ち上った土煙の中から新たな土砂が巻き上がり、黒々とした煙が空に広がっていく。辺りが暗くなり、時たま空から細かな砂が降ってきた。


 どれくらい経ったのだろうか。ようやく砲撃が止まり、動けないでいる俺たちの前で、少しずつ噴煙ふんえんがおさまっていく。


 やがて見えてきた林高地には、そこにいたはずの安・橋本連隊300名とともに文字通り消滅していた。

 肉片も何もない。地形が変わっている。どこを探そうにも人がいた痕跡こんせきなどあるはずもない。


 こんなことがあっていいものか!


 胸の奥から理不尽な攻撃に対する怒りが湧いてくる。死体も残っていない。今までも戦争に直面したけれど、ここまでひどくはなかったぞ。部隊ごと消滅だと……。


 ――くそっ。


 やり場のない怒りを拳に込めて、俺は近くの木を殴りつけた。叩きつけた拳がじんじんと痛む。


 気がつくと雨が降り出していた。すぐに怒濤どとうのスコールとなり、空から降る雨が激しく大地を撃ちはじめた。

 前も見えないような激しい雨に、全身を打たれながらも俺は空を向く。冷たい雨が軍衣をらし、そのまま下着にまで染み渡っていく。

 顔の表面をくすぐり落ちるように流れていく水。濡れるままでいるうちに、いつしか怒りに満たされていた俺の心は鎮まっていく。


 やるせない。けれど、なげいても歎いても俺には止める手段は無い。――これが戦争なんだ。


 10日後の7月7日。俺は師団本部のあるモロウの夜間歩哨ほしょうに立っていた。

 前の日に降っていた雨は、朝方に一度止み、山裾やますそから深い霧がさあっと陣地をおおい隠していた。

 すっかり霧が立ちこめて薄暗くなった陣地だったが、朝日が昇ったのだろうか、さあっと明るくなり、やがてすうっと晴れていった。


 俺たち輜重兵しちょうへい33連隊第2中隊は、師団本部の警備を命じられていた。

 すでに後方輜重の俺たちも、ある奴はマラリアで、ある奴は行動中に爆撃の巻き添えを食って、またある奴は徴発ちょうはつに行った村で敵英印軍の銃撃を受けて、それぞれ戦死したり後方の野戦病院に送られていった。


 食べるものもとうとう無くなり、ここ数日は米の融けた水のようなスープを一杯飲んだきりだった。

 一緒に歩哨ほしょうに立っていた増田は、最初から立っていることもできずに横になっている。


 伝え聞くところによると、作間連隊では、連隊長自身がえと高熱のために意識がもうろうとし、夢遊病者のように立ち上がると、

「おおい! みんなでラングーンに旨いものを食べにいこう」

と呼びかけたらしい。


 糧食りょうしょくが尽きようとしている。弾薬も……。


 まだ頭上には雲がおおっているが、遥か東、インパール平原を越えた向こうの山脈の稜線りょうせんのさらに向こうに、輝く太陽の姿が見えた。

 ゆっくりと昇っていく太陽は、しかし、すぐに雲に隠れてしまった。一瞬の輝きだけを残して、いつものように薄暗くどんよりした世界になった。



 そしてこの日、師団は運命の日を迎えた。


 ――現戦線をてっして、トンザン、ヤザギョウの線に後退すべし。



 すでに弓師団で戦闘可能な兵員は、笹原連隊で146名、作間連隊で224名のみ。中隊規模しかいない兵員で、撤退てったい戦を行うことになったのだ。


 このうち、まず作間連隊は第一線から撤収し、新たな第15軍からの命令を受けて出発していった。

 インパール平原の南の山際を東進し東のパレルを攻略せよと。


 しかしその2日後には、トンザンまでさがって大回りをしてパレルに迎えと命令が出された。

 ――大回りをしてパレルへ行け。

 無茶苦茶な命令だと思うけれど、そのまま後方の防衛任務に切り替えられるような気がする。


 俺の加護がまだ残っていたのか、秀雄くんは奇跡的に未だ銃撃を受けることなく無事だった。すでに南に向かって出発していっている。

 ……きっとこのまま行けば、彼は無事に香織ちゃんのところへ戻ることができるだろう。


 撤退作戦は次のようになった。


 現在、インパール平原ではログタク湖西側のニンソウコンが最前線になっている。そこで井瀬いせ戦車連隊がまだ頑張っている。


 その間に師団本部、笹原連隊の順で下がり、トルブンで笹原連隊が防衛戦をく。そこで井瀬戦車隊を撤退させ、敵の追撃をトルブンで防ぐ。


 以下、笹原連隊の第1大隊、第3大隊とで交互に防衛戦をさせ、順次、時間を稼ぎ遅滞ちたい戦闘を行いつつ撤退する。

 つまり、第1大隊が戦っている間に、その後方で第3大隊が防衛陣地を築き、次は撤退した第1大隊が第3大隊の後方に防衛陣地を構築する。次は第3大隊が、というように交互に陣地構築、防衛戦を繰り返していく手はずだ。


 作間連隊は、トンザンを越えたティデムで後方輸送と防衛任務に就いている。ティデムまで下がれば、そこには作間連隊が待っている。なんとかそこまで転進できれば……。


 こうして撤退戦の詳細を知ることができたのも、俺たちが後方の、それも本部の警備をしていたからだ。自然と、ある程度の戦況が耳に入ってきていたんだ。


 着任当初は強気の命令をしていた田中師団長だが、すぐに尋常ならざる戦況に撤退もやむなしと考えを改めたようだった。


 そうはいっても、もちろん第15軍の命令無しに撤退などできない。


 毎日、展望所に行く師団長は眼下で、井瀬隊が敵英印軍の天地からの攻撃に蹂躙じゅうりんを受けつづけている様子に、どうにもできずに悔しい思いをしていたようだ。


 その気持ちは、俺にもわかる。そして、敵の追撃を受けながらの後方転進は、やはり厳しい戦いになるだろう。


 インパール平原西側の山中を、俺たちは歩いていた。


 わずか36頭の生き残っている馬もすでに力なく、わずかな距離ですぐに腰を下ろしてしまう馬もいる。……残念ながら、そういう馬は処分せざるを得なかった。


 空には敵の戦闘機が飛んでいる。平原の方からは今日もひっきりなしに、爆撃機の投下した爆弾の炸裂した音、そして、戦車の砲弾の音、重砲の砲撃音が聞こえてくる。


 井瀬隊はまだ戦っている。師団の転進を支えるために、殿しんがりとして戦い続けているのだ。

 悔しいけれど、俺たちの行動が遅れれば、それだけ残された部隊が厳しくなる。

 早く。早く。

 一刻も早くトルブンの向こうに行かなければならない。


 隣を歩く増田も、やせ細って落ちくぼんだ目をしばたたかせながら、フラフラとしながらも歩き続けている。

 俺は、ほかの3人の輜重しちょう兵とともに担架たんかを担いでいた。その上にはすでに歩けなくなった歩兵がうめき声を上げながら横たわっている。


 担架で運んでやりたい奴は他にももっと多くいる。しかし、満足に食べていない俺たち輜重兵では、すでに担架で運ぶ力も残っていない者も多い。歩兵が担架を担いでいる場合もあるが、それは同じ班の戦友だった。


 歩いている中には、すでに軍袴も無くなりふんどしになってい者、靴がこわれて裸足はだしで歩いている者。さらに血と泥にまみれた包帯を巻いている者、杖をつきつつ必至に追いすがろうとする者たちがいる。


 しゃべる気力すらなく、誰もが無言だ。

 一歩、また一歩と進むその足ごとに、やるせなく、くやしくて、申しわけない複雑な気持ちが強くなる。


 担架の上で横になっている歩兵が泣いている。その口から「すまない、すまない……」と言葉が漏れていた。

 その目が見つめている先には、退却してきた山々があった。


 森、林、アンテナの高地、5846高地の竹のジャングルに灌木かんぼくの山、ガランジャールに三角山、ビジェンプール……。


 どこの戦いでも、俺たちは懸命に戦った。


 どれだけ弱められ、疲れ果てても、目的達成のために勇敢に突撃を繰り返し、大胆に侵入して戦った。白虎部隊の名に恥じない戦いを繰り広げたんだ。


 ああ、けれど、あの山々にはまだ戦友たちの遺体が残されている。

 多くの戦友の血が流れた。死した仲間の遺体を日本に届けてやることができない。祖国を遠く離れた、この山の中に置いていくしかないのか……。


 ――無念むねん

 たった3文字の言葉に、どれほどの感情が込められていることか。こみ上げる複雑な感情に歯を食いしばり、俺は前を向いた。


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