第40話 昭和19年5月17日 夏樹、輜重兵トルブンに突撃す
暗闇の中を俺たちはトラックに乗り込んだ。
ここは38マイル地点のチュラチャンプールの連隊本部。5月17日の夜。これから俺たちは32マイルにあるトルブンの敵に突撃する。
状況は目まぐるしく変化している。
俺はジトッとした夜の風に吹かれながら、最近の出来事を思い返していた。
――俺たちが3299高地から戻り、再びコイレンタックと前線を往復する日々が始まった。幸いに増田も回復したようだが、まだ本調子ではないので食料
5日前の13日だったか、久しぶりに第3自動車中隊の町田が糧食輸送に来た時に再会した。
その時に聞いたんだが、前日12日に突然、
松木連隊長が状況報告し、軍需物資の増強を要請。ところが、突然、牟田口司令官は凄まじい剣幕で怒り出したらしい。
〝軍の補給が遅れているから前進できないとでも言うのか! それならば夜間だけでなく日中も貴様らがやれ! 貴様らがぐずぐずしてだらしないから、俺がここに来ることにしたんだ!〟
それを聞いていた将官が
ほぼ同時に、前からこの
〝は? 師団長が更迭? なぜ?〟
〝夏樹。わかっているだろ〟
〝馬鹿を言うな。師団長は天皇陛下直々の任命だろ。じゃあ、陛下が辞めさせたのか?〟
〝いや、違うだろう。牟田口司令官、方面軍、そして大本営だと思う〟
〝それこそ
〝声を抑えろ。落ちつけって〟
新師団長は師団長心得という形で、田中信男少将が任命された。これは階位の面で制限があるからで、心得とはいっても実際は師団長となる。一体どんな人なんだろうか。
牟田口司令官達は、弓師団の本部があるモロウ、コイレンタック西側の山中にある、に向かい、そこに
状況がにわかに急を要するようになったのが昨日だ。
インパール平原の入り口に当たる山間の狭い
もともとこのトルブン隘路の防備のために、東方の山中に桜井
前線と遮断されている状態。これを打破し、補給線を維持するため、松木連隊長は手元の戦力でこじ開けることを決意した。
32マイルのトルブンに対し、
33マイルに高田隊50名を進出、34マイルに中村見習士官の自動車小隊を待機、山砲分隊を同じく34マイルに展開。
高田隊を持ってトルブンを攻撃、山砲分隊を協同させてこじ開ける。中村小隊は前線への補給のため、10トンの
作戦発起は23時。たまたまチュラチェンプールにいた俺は、中村自動車小隊に臨時に入り今、町田が運転するトラックの助手席にいる。
車列は全部で8両。俺たちは前から3台目だった。
出発前に点検は済ませていたが、改めて99式歩兵銃の点検を暗闇の中で行う。
「そういえば夏樹は元歩兵だったんだっけ」
「ああ。……でも10年以上前だぞ」
「もうおっちゃんだもんな」
「お前もな」
緊張をほぐすために、わざといつものような会話を続けているが、町田の緊張はどんどん高まっているようだ。
だがそれも無理はない。こうして最前線に出るのは初めてなんだから。
暗闇の中で腕時計を確認すると、時計の針は23:30を示している。そろそろ、高田隊のいる33マイルに着くだろう。
突撃は24:00の予定だったか。今のところ敵影は無いが油断はできない。いつもはやらないタバコだが、今この時だけは吸いたい気分だ。
しばらくして無言になった町田を見ると、ブルブルと手が震えていた。
「おい。町田」
「だ、だってよ。お前は怖くないのか」
暗闇だけれど、その顔は血の気が引いていた。どこか血走った目で俺をチラリと見て、また正面に向き直る。
「歩兵だったお前は平気かもしれないけど。俺は怖い。すっげえ怖い。逃げ出したいよ」
「……町田」
こういう時、なんて言ってやればいいのだろうか。
もどかしいが俺には何も言ってやれない。大丈夫だなんて言えるわけもない。
「そりゃあよ。俺だって軍人だ。せ、戦陣訓くらい覚えてる。だけど、まさかこんな。輜重兵なのに突撃なんて」
「おい。落ち着け」
「これが落ち着けるか!」
息を荒げる町田。それでも運転は間違えていない。
だけど、その頬を涙が伝っていた。
「ちくしょう。なんで俺がこんなところに。ちくしょう」
鼻をすする音がして、また無言になる。
「町田……。じゃあ逃げるか? 俺が代わりに運転してもいいんだぞ」
俺だってお前には死んで欲しくない。なら死ぬことのない俺が代わってやる。突撃の混乱の最中に一人くらいいなくなってもわからないだろうし。
「できるかよ。……今さらそんなことはできないさ」
そういって寂しそうに笑った。
「あ~あ、せっかく結婚したのに、もっとベタベタしたかったな」
「おいおい。まだ死ぬって決まったわけじゃないだろう」
「まあな」
けれど、どうも町田は自分の死を確信しているように見える。なぜだ。なぜ生きようとしない。なぜ死ぬことを確信するんだ。
「そろそろ33マイルだ。高田隊と合流するぞ」
「……ああ」
「まあ、悪かったな。変なことを言って」
「いいや別に構わない」
「はは。夏樹らしいな。お前はどんなところでも生き延びる気がするよ」
「そうかもな」
「――なあ、夏樹」
「なんだ」
「俺がもし死んだら、ここに遺書が入ってる。それを……、届けて欲しい。もし死んだらだぞ。もしもの話だ」
笑ってはいるけれど、どこか乾いた笑いというか、寂しげだ。……町田。お前。
でも、俺には「わかったよ」としか言えなかった。
◇
途中で高田隊と合流。中村隊長が何事か打合せを行っている。
計画では、高田隊が敵を追い込み、山砲がそれを援護、開いたトルブンを俺たちは通過するはずだったが……。
理由は分からないが、どうも高田隊の兵士がトラックに分乗するらしい。
敵影がないということだろうか?
ともかく50名からなる高田隊だが1台につき7名ずつくらい乗せ、再び自動車隊は前進した。
ここまで無灯火だったが、今、微灯の指示が出た。やはり遮断されていないからこのままモイランまで強行補給に行くつもりなのか。それならそれで安心だ。
――いやまてよ。空気が重い。張りつめている。
これは戦場の空気だ。ならば、必ず敵がいる。
「おい。注意しろよ」
「ああ」
町田にそう言って、俺も周りを見る。
1列に道を北上しているせいで正面は、前のトラックの荷台とそこに乗っている兵士しか見えない。
左右は山裾が広がっている。東側は、峰の上の方に人の気配がする。あれはこっちの桜井隊だろうか。それとも敵軍だろうか。
急に前方の車が停止した。
人が次々に下りる気配がする。
「なんだ?」
といぶかしげな町田を運転席に残し、見てくると言って助手席から出た。
荷台に載っていた高田隊の奴らも下りてきた。一緒に前の方に行くと、正面の川を渡る橋にドラムカンが積んであって通れないらしい。
中村見習士官殿が、
「敵の妨害工作だろう。さっさとどかして急行するぞ」
と言う。
とはいえ、ここはもう最前線だ。みんな小銃を構えながら慎重に進んでいる。先頭が何事もなく橋もとに到着。
周囲に散らばった1小隊が引き続き警戒をし、他のみんなでドラムカンをどかすようだ。
俺も小銃を肩に掛け、橋に近寄った。
――チュンッ。
その時、何かがドラムカンを打つ音が聞こえた。次の瞬間――。
ドウンッと大きな音を立ててドラムカンが爆発した。中はガソリンかっ。見る見るうちに広がる爆炎が妙にスローモーションのように見える。周りの皆が次々に呑み込まれ、なお炎は膨らみつづけ、俺をも包み込んだ。
熱気を感じると同時に時間の流れが元通りになり、凄まじい衝撃が俺の身体も意識も吹き飛ばした。
◇
「はっ」
気がつくと、真っ暗闇の中、重機関銃の音が響きわたっていた。
ドウンと音がして何かが打ち上げられ、上空が閃光に包まれた。パチパチパチと音がして昼間のように俺たちが照らし出される。――
どうやら気を失っていたのは一瞬だったようだ。トラックの近くまで吹き飛ばされたようだが、炎に巻き込まれたにもかかわらず、服すら焼けた様子はない。
周囲の地面に銃弾が突き刺さる音がする。あわてて俺はトラックの影に隠れた。
みんなはっ。他に生き残りはっ。
必死に探すと、どうやらトラックに残留していた人たちは無事なようだ。爆発に巻き込まれた人は。前方に出ていた人は……。
うめき声が聞こえるから、それでも生き残りはいるのだろう。
トラックの影から慎重に顔を出して銃撃地点を探す。――正面にある橋の向こう側か。
「おいっ。夏樹っ。こっちだ」
町田の声に顔を上げると、後ろのトラックの影に隠れるようにしていた。あいつも無事だったか。
南の方から山砲の発射する音が聞こえた。どうやら味方の援護射撃がはじまったようだ。
「お前。よく無事だったな」
「こんなところで死ねるかっ」
銃撃と閃光が激しく行き
その命令を聞き、
あつまったのは20人ほどだった。中村隊長殿は左の肩と脇腹を撃たれているようだった。
「今、友軍が協同して砲撃してくれている。被害は甚大だが撤退はない。――砲撃終了次第に行くぞ」
何をだとは言わない。突撃命令に決まっているから。
町田はうなずくと、汗まみれの顔を右手でこすった。さっきまで怖がっていたのと同じ奴とは思えないほど、穏やかな顔をしている。
最後にポケットから写真を出して眺め、何事かをつぶやいていた。
顔を上げた町田と目が合った。黙ってうなずく町田に俺もうなずき返した。
集められるだけの手榴弾を集めた。
山砲隊の砲撃を受けているというのに、まったく機関銃斉射が止む気配はない。
このトラックから橋までおよそ8メートル。橋を渡るのに15メートル。そこから敵陣まで25メートル。
目算だが、およそ50メートルの距離。手榴弾は何とか届くかどうかといったところか。
「放てぇ」
隊長の号令でみんな一斉に手榴弾を投げる。放物線を描いて飛んでいく手榴弾が闇に消えた。……俺は天帝釈様の指示があるから、申しわけないが明後日の方向に投げる。
前方の闇の中で爆発が生じ、いくらか機関銃の勢いが弱まった。
「放てぇ」
もう一度手榴弾を放り投げ、すぐに突撃の姿勢になる。「突撃ぃぃ」
第2射の手榴弾の着弾を確認もせずに、中村隊長を先頭に俺たちはトラックの影から飛び出した。
前方の暗闇から機関銃の赤い火花がいくつも見える。どこに着弾しているかもわからないが、必死で走る。
周囲で「ぐわぁ」「ばんざぁい」と叫ぶ声がする。弾かれたように後ろに倒れる音。前後ではじけ飛ぶ土砂。身体の近くを通り抜けていく弾丸の空気を着る音。
それでも俺たちは走る。
ガッと左肩に衝撃を感じたと思ったら、体が後ろにくずれ、そのまま橋から投げ出された。
ボチャンと水の中に倒れ込むものの、さほど水深はないようで、俺は仰向けになって岸に背中を預ける。
上の方から、まだ突撃していく
気がつくと、そばに同じく川に落ちている奴がいた。
「大丈夫か」
とうつ伏せになっている身体を仰向けにすると、それは町田だった。「町田――」
町田は……、すでに事切れていた。
左胸、右
立派に戦った。見事な最後。――そんなわけがあるかっ!
涙がこぼれる。悔しい。……だが今、悲しんでいる暇はない。
幸いにここは川底で敵からは死角になっているようだ。けれど、戦闘がひと段落したら
その前に、ここを脱出しないと。
俺は町田の右手親指を切り軍隊手帳を抜き取ると、そのまま山裾の方に向かって川床を走った。
くそっ。町田。すまん! お前を置いていく。許してくれ。
――畜生。畜生。畜生ーっ。
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