第25話 昭和17年9月、夏樹、出発の朝


 幾度となく春香を抱いてきた俺だが、昨夜はいつもと違う不思議な感覚だった。


 離ればなれになる。


 それがわかっているせいか、肌を重ねても、キスを降らしても、燃え上がるというよりは、どこか寂しさがいてきて……。

 このぬくもりを、俺を呼ぶ声を、汗の感触を、そして、匂いを忘れまじと執念にも似た気持ちになっていた。

 春香も同じ気持ちだったと思う。途中で、涙を一筋ひとすじ流していたから。


 暗い部屋の中で浮かび上がる春香の白い身体。すがりつくように俺を抱き留め、伝わってくるぬくもり。そして、俺の愛してやまないあの眼差し。

 ずっとずっと傍にいてくれた彼女。恋人とか妻とか関係無しに、俺にとって命より大切なかけがえのない女性。


 ああ、俺は今、満たされている。彼女がいるだけで、それでいい――。



 夢うつつの意識が、ゆっくりと浮上するように目が覚めた。

 そっと目を開けると、窓の隙間から漏れた朝日で、部屋の中がうっすらと明るくなっていた。

 左を見るとすでに春香が起きていて、少し寂しげな目で俺を見つめている。

 けれど彼女の顔を見ただけで、俺は幸せだ。


「おはよう」

「うん。おはよう」


 そっと顔を近づけて朝のキスをする。ふぅっと春香が息を吐いた。

 うん? そういえばどこか疲れているように見える。まさか、昨夜は寝てないんじゃ……。


「そんな顔をしないで。私は大丈夫よ」


 俺の心配を先取りして返事をした春香は、俺の頬に左手を添えた。剃る前のひげを優しく撫でている。


 時計を見ると、朝の6時。まだ時間はあるか。

 俺も春香に手を伸ばし、頬から首元、肩、そして乳房へと手を滑らせていく。

 わずかな時間を惜しむように、ただ触れあうだけだけど。朝の室内の柔らかな光の中で見る彼女の身体は、いつにもまして美しかった。


 しばらくして、廊下に人がやってくる気配がした。

 仲居さんが「食事の準備をしてもよろしいですか」と声を掛けてきたが、その時俺たちはまだ布団に。

 あわてて飛び起きて、脱ぎ捨てた浴衣を探す。


「ちょっと待って下さい」と言って、廊下に待たせたままで急いで着替える俺たち。どこか滑稽こっけいに思えて春香を見ると、彼女もおかしそうにほくそ笑んでいた。

 きっと仲居さんには部屋の中の様子が伝わっているだろう。


 誤魔化すようにぬくもりの残っている布団を、敷き布団ごと大きく二つにたたむ。とりあえず俺は廊下へ向かい、春香は窓を開け放った。

 すぐには部屋にもった汗の匂いは抜けないだろうけど、まあもうバレていることだろう。春香の寝ぐせもひどいしな。


「すみません。まだ寝てたもんですから」

「いえいえ。構いませんよ」


 微笑みながら入ってきた仲居さんが、布団をバサバサと畳んで片づけていく。

「すぐに朝食をお持ちします。それと……、今日は9時5分初の宇都宮方面行きが出るようです」


 そう。昨日のうちに仲居さんには、俺の入営時間を伝えていたのだ。伝手つてをたどって、きっと朝のうちに確認してくれたのだろう。

 おそらくは今までも出征する兵士のために同じ事をしてくれていたと思う。


「はい。ありがとうございます」

「ご武運をお祈りしております。では、また後ほど」

 お辞儀をして部屋を出て行く仲居さんを見送った。


 まずは髪を整えないといけない。すぐに2人で洗面所に行った。

 バシャッとぬるい水で顔を洗い、髪を濡らしてタオルでワシャワシャと水気を取る。こういう時に坊主頭はすぐに乾くから便利だ。

 クシを当てている春香には悪いが、先に荷物の片付けを始めよう。通り抜け様に、脇をちょんと突っつくと、身をよじって小さく笑っていた。


 部屋に戻り、広げていた荷物を片づける。

 とはいえ、俺が持って行くのはダミーの、見られても構わない私物ばかり。手帳と筆記用具、それといくつかの着替えぐらいだ。


 春香に作ってもらった春香人形は、大切なものなので神力収納の方だ。

 残念ながら見た目はあまり似てはいなかったけれど、中には綿と一緒に彼女の髪が入っている。手に持つと彼女が感じられて、まるで傍にいてくれるかのような気がする。


 結局見せてはくれなかったけど、春香にも夏樹枕がある、らしい。

 その枕に俺の着物を着させるといっていた。それはどうなんだと思わないでもないが、春香にも俺のぬくもりがあるものが必要だろう。


 そして、俺の描いたヌードデッサン。裸になった春香に着物を肩に掛け、前をはだけたままで布団の上で、横になってこっちを見上げる姿勢。

 肩や乳房のライン、そして下半身の繁みから柔らかい太もも、すっと伸びた足の指先まで、我ながら綺麗に描けたと思う。なにしろ俺は、その隅々すみずみまで知り尽くしているのだから。


 描いた時はもちろん蔵を閉めて、2階の明かり取りの窓だけ開けていた。最初は恥ずかしそうにしていた春香だけど、しばらくすると慣れてきたみたいで、モデルをしながらしゃべったりしていた。

 どうやら俺がどこに視線を当てているのかわかるようで、時には頬を染めていたのが、妙に色っぽかったっけ。


 人形も裸体画も俺だけの宝物だ。誰にも見つからぬように、神力による俺だけの空間収納に収めてある。

 それ以外の手帳や着替えなどを小さな背負い袋に詰めれば、俺の方の荷物は終わり。後は壁に掛けてある軍服に着替えるだけだ。


 髪を整えた春香も戻ってきて、自分の荷物を片づけていた。黒磯から村に帰るだけだから、もとから量はないわけだが。


 おっとそうだ。大事なことを忘れていた。


「あ、そうだ。……春香」

「うん。なあに」

「こっちのことは基本的におまえに任せる」

「うん」

「それとな……、その指輪なんだが」


 今、俺たちがしているプラチナの指輪を隠しておかないといけない。


「結婚指輪?」

「ああ。言いにくいんだが……、おそらく戦争末期になると供出せよと言われる可能性が高い」

「え?」

 俺の言葉に驚いた春香が、守るように右手で指輪を隠す。


「だから、明日から神力収納に隠しておいてくれ」

「……うん。でもそれじゃ、なんだか寂しいな」

「俺もだ。でも、我慢するしかないんじゃないか」


 う~んと考え込んだ春香が、「あ、そうだ」とつぶやいた。

「それならミサンガにしない」

「ミサンガ?」

「そ」


 それは良い考えかもしれない。ペアのミサンガならば目立たないだろうし、文句も言われないだろう。


 春香は座り込んで、自分の収納から赤、白、緑のひもを取り出した。

「すぐに作るから」

 すぐに編み始める春香。慣れた手つきで次々に平織りになった紐ができあがっていく。


 その間に仲居さんが料理を持って戻ってきた。

 おぜんを用意し、米びつのふたを開けて、玄米ご飯をよそってくれる。

 朝食はその玄米ご飯にお味噌汁、たくあんに納豆が添えられ、おかずとして焼きなすのシンプルな構成だった。

 魚はなく、正直言えば物足りないけれど、食糧統制の影響がここにも出ているのだ。

 後は自分たちでやりますからと言って下がってもらう。その間にも春香はミサンガ作りに集中していた。


「春香、ご飯だぞ」「できた!」

 早い。もう一本完成したか。


 続きはご飯の後にするらしく、そそくさと対面に座ってきた。

 普段通りにおしゃべりをしながら出発前の最後の朝食を終え、春香が2本目を編んでいるのをお茶を飲みながら眺めていた。さすがは春香、15分ほどで2本目も完成した。

 すぐにお互いの右手首に、出来たばかりのミサンガを回してキュッと結びつける。


 なかなか良い雰囲気だ。やはりペア物を身につけていると、いつも春香と繋がっているみたいでうれしくなる。

「これなら寂しくないな」

と言うと、春香もうれしそうにうなずいていた。


 さてと名残惜しいけれど、そろそろ着替えないといけない。

 俺は浴衣を脱いで、軍袴ぐんかいた。つづいてハンガーに掛けていた軍服に袖を通す。順番にボタンを留めていくのを、春香がまぶしそうに見ていた。

 時計を見ると8時になっている。


「さてと……」

 そろそろ行くかという言葉は出せなかった。


 春香が前から抱きついてくるのを受け止め、2人でしばらくたたずむ。


「手紙出すからね」

「俺もだ」

「慰問品も送る」

「頼むよ」

「待ってるから」

「ちゃんと帰るよ」


 春香の髪をすくように頭を撫で、肩を叩いた。

「そろそろ行こう」

「……うん」


 宿の仲居さんたちも、玄関までお見送りに来てくれた。お礼をして、駅までの短い距離を春香と並んで歩く。

 一歩ごとに別れの時が近づいてくる。それがお互いにわかっている。


 梅雨が明けて、今日は朝から綺麗きれいに晴れ渡っていた。昨日はかなりの猛暑だったが、今日も暑そうだ。

 

 この時間になると、通りを歩いている人も多くなる。俺と同じように召集された人だろうか、軍服の人もいるようだ。敬礼をして通り過ぎ、とうとう黒磯の駅に到着してしまった。

 街のざわめきが急に遠くなっていくような気がした。


 人混みの中を俺は春香と向かい合う。


 言葉が出てこない。まるでのどに何かがつかえているように、声も出てこない。

 ただ春香の眼差しを見つめ返すしかできなかった。

 それがもどかしい。


 うつむいた時、春香がそっと手を伸ばして俺の喉に触れた。

「いいのよ。何も言わなくてもいいの」

 不思議なことに、彼女の指が触れた途端、すっと喉が楽になった。


「ちゃんと待っているから、必ず帰ってくること」

「ああ」

「それだけ約束してくれたら、それでいいよ」

「当たり前だ。必ず約束する」


 俺のいる場所は春香の隣なんだから。


 春香は微笑んで、俺の喉から手を離して、自身の胸もとをゆっくりとトントントンと叩いた。

 この仕草、俺たち2人だけのハンドサイン。その意味は――、


〝私の心には、いつも貴方がいる〟

 そして、

〝愛してる〟


 俺も自分の胸もとをトントントンと叩く。春香が黙ってうなずいた。


 駅では列車が来たようだ。

「じゃあ、行ってくるよ」

「うん。――行ってらっしゃい」



 俺は一つうなずくと、まっすぐに改札口に向かう。通り抜けてから一度だけ振り返ると、街の人々の中で春香の所だけがぽっかりと空いて見えた。


 次にただいまを言えるのは、いつになるだろうか。


 軽く右手を挙げ、春香が手を振っているのを見て前に向き直る。帽子をキュッとかぶり直し、俺は列車に乗り込んだ。



 時間となり、笛の音とともに黒磯を離れていく列車。

 春香の姿が見えないかと探したけれど、見つける前に駅が離れていってしまう。少し寂しくなって胸に手を当てると、不思議とその手を当てたところのポケットからも、彼女の気配が感じ取れた。


 なんだろうかと思ったけど、それだけで落ち着ける自分に苦笑する。

 窓の外を見慣れた景色が流れ、町が遠ざかっていくのを、列車に揺られながら眺めていた。


 車内は戦時中にもかかわらず、移動する人たちでそれなりに混んでいる。もっとも二等車ということもあって、俺と同じように入営のために宇都宮に向かっている人もいるんだろう。

 巡回の憲兵さんに挨拶をし、おもむろに荷物から手帳を取り出した。


 今日の日付を書き入れ、黒磯出発とだけ書く。春香の顔が浮かび、昨夜の事が思い出された。今の気持ちを残そうと思うけれど、何一つ言葉が浮かんでこない。


 ――春香。


 愛する人の名前。ただその2文字だけ書いて、俺は手帳を閉じた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る