第24話 昭和17年8月、村の川原

マキノ正博監督、轟有起子主演『ハナ子さん』に敬意を表して

――――――





「どうか一針お願いいたします」


 黒磯駅の前で、他の女性たちと一緒に並んで、道行く女性に声を掛ける。

 夏樹のための千人針。

 すでに村で一軒一軒回ってお願いをしていたし、ここに立ち始めて5日になる。ようやく残りは1割ほどだった。


 モンペ姿のご婦人、そして若い女学生の集団が、一針う私たちの行列を、端から順番に回って縫ってくれていた。

 毎日強烈な陽射しで照りつける夏の太陽だったが、今日は曇り空。どんよりしていて夕立が来るんじゃないかって思える。

 真珠湾攻撃の日から天気予報は軍事機密に当たるという理由で無くなっている。はたして今日の天気はってくれるのだろうか。


 天候のことは無しにしても、できうるならば早く村に戻りたい。残された時間、少しでも多く夏樹のそばにいたい。

 気がくけれど、それは他の人も同じだろう。


 あれから夏樹はすぐに役場を辞めた。

 普通なら挨拶回りの期間なんだけれど、それもすぐに終わり、三井の松本さんにも挨拶状を出して済ませてあった。

 松本さんのところも長男が15歳で中学2年生、長女が小学校6年生だという。中学校では学校報国隊というのが結成され、授業の一環として学校の畑で農作業をしたり、兎を飼っているとか。


 久しぶりにしまい込んでいた軍服を取り出して体に当ててみたけれど、サイズに変更はなく大丈夫だった。

 ひじのところの穴は、上から布をかぶせて補強し、ポケットの見えないところにお守り代わりの小さな袋をい込んでおいた。中は……、恥ずかしいから内緒で。


 およそ1時間ほどで私の千人針は完成し、並んでいる人たちに挨拶をしてから行列を外れる。

 あとは家に戻ってから、十銭と五銭をい付けるだけ。苦戦九銭を免れるように、死線四銭を乗り越えるように。そして、早く私のところに帰ってこられるようにと。


 駅から出ている木炭バスに乗りこむ。幸いにして空いている席があったので、座ることができた。

 窓の外に広がる雲は、先ほどより低くなっている。まるで今の私の気持ちを表すかのような曇り空。いまにも降り出しそうな気配だ。


 流れてゆく街の景色を見ていると、モンペ姿の女性も増えてきたことに気がついた。

 かくいう私もモンペ姿だし、ついこの前、伸ばしていた髪を肩口までで切っていた。切った髪は、夏樹所望の私の人形の中に詰め込んである。


 戦場まで私はついて行けない。

 だからせめて私の代わりに、分身として夏樹の傍にあって欲しい。口には出さないけれど、そう願っている。


 建物の壁には「撃ちてし止まむ」と書かれたポスター。商店には慰問品いもんひんと書かれた紙も。そして、近くに那須野なすの陸軍飛行場ができたこともあって、「空の兵隊にならう」と飛行兵募集のポスターも貼ってあった。


 街を抜ければ、畑と草っ原が広がる田舎道になる。麦の収穫を終えた畑。トウモロコシも背が高くなって、来月中頃には収穫できそうだ。

 遠くの山では雨が降り出しているようで、そこだけ薄いしゃの幕が降りているようにけむっていた。


 村は……、まだかな。


 田舎道を揺られながら、何度も胸の中でつぶやいた。


 幸いに村の入り口に到着するころには、どうやら雨雲は遠のいたようだった。大切な千人針の入った風呂敷ふろしき包みを胸に抱え、清玄寺までの道を歩く。

 ミンミンゼミの声がそこかしらから聞こえ、道路には昨日までの強烈な陽射しでひからびたミミズが黒くなっていた。


 村役場で働いていた夏樹が出征するということは、すでに村中の人たちが知っている。そのせいか、すれ違う度に会釈をされ、こちらも会釈をして通り過ぎていく。


 通りがかった分校の校庭では、子供たちが遊んでいた。


 地面に離れて2つの円が描かれ、そこに男の子がいる。まるでケイドロ警泥遊びのように、そこから数珠つなぎに3人くらいの子供が手を繋いでいた。

 他の子供は走り回っていて、誰かと遭遇するとじゃんけんをして、勝った方が負けた方を自分の基地に連れ帰っていく。


「中野中隊ちゅうたい回り込め!」

「おおい! こっちだっ」


 軍隊ごっこだね。

 しばし子供たちが遊んでいる様子をながめてから、再び家路につく。遊んでいる子供たちに元気を分けてもらったようで、少し心が軽かった。


 清玄寺に帰り着き、そのまま蔵に向かう。

 誰もいない。きっと夏樹は畑に行っているんだろう。

 荷物を置いてすぐにモンペに着替え、自転車に乗って畑に急ぐと、畑の外れで夏樹が草を食んでいる馬を眺めていた。

 うちの馬に乗ってきたんだろう。革のくらが載せられている。


 チリンチリンと自転車の鈴を鳴らすと、気がついた夏樹が手を振ってくれる。その姿を見るとほっとして、頬がゆるんだ。

 自転車を停めてすぐその横に座ろうとすると、夏樹は立ち上がって、

「ちょっと川を見に行かないか」

「うん。……いいけど」

「そっか」


 そう言った夏樹がニカッと笑った。

 「ほれ、先に」とうながされて

「え? 自転車は」

と言うと、「ここに置いていけって」


 うん。私も一緒に乗りたいかな。


 促されるままに先に馬に乗ると、すぐ後ろに夏樹も乗った。輓馬用の力強い馬だけど、さすがに大人2人は重いだろう。神力を調整して少し体重を減らしてあげた。


 後ろから私の身体を抱き込む夏樹。私の両腹から腕を回して手綱を握っている。その手の上に、私は自分の手を重ねた。

「行くぞ」「うん」


 歩き出す馬の背に揺られながら、村はずれの川に向かって行く。ときおり鼻を鳴らす馬。力強い動き。そして、夏樹と密着している背中。無言のままだけど、穏やかな時が流れていく。


「今年のカボチャは旨そうだな」

「順調に育っているよね」

「出征には間に合わないか……。ま、俺がいない分、春香がたくさん食べてくれよ」

「一人じゃ食べきれないって」

 あなたがいないとさ。


「ははは。それもそうか。恵海さんや美子さんと分けて……。そうだな。松本さんのところに送っても」

「え……、それって保つの?」

 今の時期、個人で送った荷物はどれくらいで届くんだろうか。カボチャなら大丈夫な気もするけど。

「無理かな。……俺たちの畑のカボチャは旨いんだけどなぁ」


 ああ。――この時間が永遠に続けばいいのに。


 やがて馬は川を見下ろす土手に到着した。そのまま近くの木につないで、2人で見晴らしの良い場所を探して、草むらに腰掛けた。

 草葉の向こうに流れる川の上には、小さな羽虫が集まって飛んでいた。


「あと3日か……」

 夏樹がつぶやいた。その声を聞くと胸が切なくなって、どうしようもなくなる。


「ねえ。何かして欲しいことはない?」


 この前みたいにモデルにだってなってあげる。他にもっと。コスプレだっていいし、とにかく何かをしてあげたい。あなたのために。


 しかし夏樹はかぶりを振って微笑んだ。川の方を見たままで、

「いいや。特にないさ」


 私はもう一度きく。

「何か、して欲しいことはない?」


 夏樹は黙って頭を横に振った。


 そっと身体を夏樹の方に向け、その腕にとりすがる。


「本当に、何でも言って。……何かしてあげたいのよ」


 そういう私の顔を優しく見つめる夏樹。


「大丈夫だ。こうして傍にいてくれれば」

「うん。でもして欲しいことがあったら、いつでも言って」

「ああ。――じゃあ、もう少しこのままでいてくれ」


 うんと返事をして、私は夏樹の方に身を寄せた。

 私の肩に夏樹が腕を回してくる。蒸し暑い時期ということもあって、汗の臭いがする。私の好きな夏樹の匂いだ。


 そのまま黙って川を見ていると、突然夏樹が、手元に何かを見つけたようだ。

「おっ」といってゴソゴソしていたかと思ったら、ひょいっと私に何かを差し出した。


「ほら、やるよ。お守り代わりに。……四つ葉のクローバー」

 男の人としてはしなやかな指先に、緑のクローバーがあった。受け取って目の前でまじまじと見つめる。


 急に視界がにじんできた。目に涙がこみ上げてくる。あわててたもとで顔を隠す。

 ……泣いたら駄目。


 こっそりと神力収納から、前に縁日で買ったお面を取り出した。夏樹が春香みたいだなって笑った女性のお面。


 お面をかぶって夏樹の方を見ると、どこか泣き笑いのような表情を浮かべていた。

「春香……」


 ああ。あと幾度、この声を聞けるのだろう。

 その顔を見ていると、胸が苦しくなった。切なさに息がつまりそう。


 ああ、あなた……。あなた、あなたあなたあなた――。


 泣かないつもりだったのに。

 こんなはずじゃなかったのに。


 我慢していた感情が決壊けっかいしたように、止めどなくぽろぽろと涙があふれてくる。


 急に夏樹がぐいっと私の右腕をつかむ。押されるままに仰向けに転がった。長い草が曇り空に向かって伸びている。その草と草の間にあいた隙間すきまで、夏樹がおおいかぶさって私を見下ろしていた。


 そっと右手がお面に伸びてくる。


 だめ。取らないで――。

 まだ泣いているから。


 嫌々と頭を振るけれど、夏樹の手がお面を取り上げた。


 れた頬が外気に触れる。見られた。こんな顔を。

 それでも涙は止まってくれない。


 一度こぼれてしまった心が、もう抑えられなかった。嗚咽おえつれる。

 押さえつけられていた右腕を振り払うと、そのまま夏樹の胸もとをギュッとつかんだ。その胸もとに顔を埋め、私は泣きつづけた。


「――だよ。大――。大丈夫。ね? 大丈夫だ」

 気がつくと耳元で夏樹が「大丈夫。大丈夫」と何度も繰り返してつぶやいていた。優しく後ろ頭が支えられている。まるで幼子をあやすように、夏樹に抱かれていた。


 どれくらい泣いていたのだろう。どれだけこうしていたのだろう。


 そっと顔を上げると、夏樹はあの穏やかな表情で私を見下ろしていた。目の前にある慈しむような眼差しに、一人ぼっちになりそうだった私の心が包み込まれる。


 あたたかいぬくもり。今、私は夏樹の愛に包まれているんだ。

 それがわかると、心が温かく満ち足りた気持ちになる。けれど、このぬくもりも近いうちに遠くに行ってしまう。それが辛く、またすぐにぽっかりと胸に穴が開いたような気持ちになる。


「……落ちついたか?」


 頭上から降ってくる声にうなずいて、れそぼった目をこする。不意におでこにチュッとキスをされた。


 ああ、愛してる。

 その思いだけがつのる。私は野外であるのも忘れて、夏樹に抱きついた――。



◇◇◇◇

 入営日の1日前にあたる8月31日。


 私たちは黒磯駅近くの旅館に宿を取っていた。

 今では列車の発車時刻も、防諜ぼうちょうのために時間通りに来なかったり、時刻表から隠されている。

 とはいえ、黒磯から宇都宮までの駅はわずか10駅。召集も理由はわからないけど午後3時という遅い時間なので、朝の便に乗れば間に合うだろう。

 ただし、付き添いの見送りはここまで。……明日の朝が来れば、夏樹は行ってしまう。


 それを思うと再び切なくなるけれど、表情には出さないように我慢をしながら、宿帳に夏樹と私の名前を記した。

 仲居さんに案内された部屋は2階の一間ひとまだった。

 お部屋でお夕飯をいただき、宿にあるお風呂をいただいた。


 夏樹が入営のために泊まっているということを、宿の方では分かってくれていて、お風呂上がりにとお酒を用意してくれていた。

 すぐにお酒をと思ったんだけれど、既に敷いてあるお布団に横になれという。


「え?」

「マッサージしてやる」

「いいよ」

「いいからいいから、俺がやりたいんだからさ」

「うん……」


 掛け布団の上にうつ伏せになると、お尻に辺りに夏樹がグイッと乗っかったようだ。

 肩に両手が添えられ、体重を掛けながら優しく力が加えられる。


 くすぐったいけど気持ちいい。

 そのまま背筋に沿って腰の方までいき、今度はツボを親指でグイグイと押してくれる。


「あー、そこそこ」

「ここだろ? かたくなってる」

「うん」


 目をつぶっていると、私の身体に触れている夏樹の手の感触がより強く感じられる。力強くも、優しいこの手。


 ウットリとしていると、急に両の手がスルスルと脇腹の方に回ってきた。

「ん」と声を漏らした瞬間、夏樹がこちょこちょこちょとくすぐり始めた。

 ビクッと飛び上がりそうになる身体だけど押さえつけられていて、「ウヒー」と女にあるまじき笑い声をあげてしまう。


 足をバタバタと暴れさせて、ようやく夏樹をはねのけ、笑いすぎてこぼれた目もとを拭きながら、恨みがましくにらみつける。

「ちょっと!」


 右手を振り上げてポカポカと殴りつけるけれど、それをひょいっと受け止められ、そのまま抱きすくめられた。

「ごめんごめん。ついさ」

「ついじゃない! 私、怒ってんだからねっ」

「あはは」


 笑い事じゃないのに。……もう。


 乱れた浴衣を調えて、何知らぬ顔でポンポンと布団を叩いた。

「次はあなたの番です」


 ぎくりとした顔を見せた夏樹だけど、絶対に仕返ししてやるから。

 恐る恐るうつ向きになる夏樹。今度は私がお尻にまたがった。


「ほらほら、覚悟を決めなさい」

と言いながら、右の脇腹を突く。途端に左に身をよじる夏樹。そのまま脇腹を突かなくても、左右交互によじりだした。

 ペシッと頭を叩き「やめいっ」と言って、その肩に両手を乗せて力を込めた。


 たくましくゴツゴツした男の肩。引き締まって大きい背中。私の大好きな背中。

 肩からずっと背筋に沿ってマッサージをしていく。最後のお約束に再び脇腹を突いて、そのままくすぐり返す。

 がばっと仰向けになった夏樹に、そのまま上からおおいかぶさった。「あはははは」「このぉ」


 そんなイチャイチャをして、2人して並んで布団に転がった。仰向けになったままで、互いの顔を見てはクスクスと笑い合う。


「――ふう。お酒飲むか」

「そうだね」


 この時間が愛おしい。こんな日だから特にそう思う。


 富士登山の前に旅館に泊まった時のように、並んで窓の近くに座ってお酒を飲みわす。

 窓辺で街を見下ろす夏樹の背中。たわんだえりから、たくましい首筋や胸もとがのぞいて見えた。


 おしゃべりし続けていると、消灯の合図が来てしまい。名残惜しいけれど雨戸を閉める。

 振り向くと夏樹と目が合った。私は立ち上がって電気を消す。


 ――ああ、今日が最後になっちゃうのね。


 出征前はということだけど、その事実に哀しくなりながらも、私は暗闇の中でシュルシュルと帯をほどいた。

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