第12話 昭和7年5月15日
「ただいま帰りました」
玄関から元気な声がして、香織ちゃんが帰ってきた。
今年の春に
最初はちゃんと友だちができるかどうか、こっちの子供たちと上手くやっていけるかどう心配だったけれど、こうして笑顔で帰ってきているから大丈夫だろう。
もちろん学費は私たち持ち。香織ちゃんの家の借金に上乗せはしない。
うちに来た初めの頃は寂しげにしていた時が多かったけれど、どうやら生活にも慣れてきたようで良かったと思っている。
「奥様。遅くなってすみません。友だちと一緒だったので……」
「いいのよ。友だちは大切にしなさい」
「はい!」
まだ制服のままだけれど、お財布を渡してお夕飯のおかずを買ってきてもらうようお願いした。さっそく「いってきます」と言って出て行く彼女の背中を見て、私はそっと微笑む。
やっぱり子供は元気でないとね。
あの子も12歳。そろそろお稽古とかやった方がいいのかな。いや、でも娘ってわけじゃないから、そこまでしてあげたらマズいだろうか。
私がお琴を教えるくらいなら……。今度、夏樹に相談してみようか。
玄関から見える空は青い。田植えの季節が過ぎ去ろうとしている――。
満州事変があってから、日本は変わってしまった。
新聞も満州事変を正当防衛とする軍部寄りの記事を書くようになっていた。そんな戦乱の世に突き進む動きと呼応するかのように、今年の2月には前大蔵大臣の井上さん、3月5日には三井合名会社の理事長だった
恐ろしい何かが動いている。そんな嫌な空気を感じた。
捜査の結果、井上という僧侶による
1月には天皇陛下の乗った自動車に
今の東京、それも政府や財閥の要人がいるあたりは非常に危険だと思う。
夏樹が言うには、陛下への事件は朝鮮の人が犯人だったらしいが、血盟団の方はどうも右翼集団や海軍とも繋がりがあるらしく、事件はこれで終わらないんじゃないかということだ。
満州事変の方だって、国際連盟から実態を調査するためにリットン調査団が到着したけれど、時期を合わせるかのように清朝最後の皇帝である
上海でも武力衝突が起きているし、内も外も緊迫した情勢。
しかも満州国を建国しておいて、肝心の日本政府がまだそれを承認していないという不安定な状態。
……正直、いつ何が起きてもおかしくないんじゃないかって思う。
いけないっ。そろそろ洗濯物を取り込まないと。
考え事を切り上げて、私は庭に向かった。
◇◇◇◇
その日のお夕飯の時に、夏樹が、
「15日の日曜日は神保町に行かないか」
と提案してきた。
「別に構わないけど……」
「香織ちゃんも高等女学校に行ってるんだし、何か欲しい本があるだろう」
「え? 私ですか?」
「ああ」
――ははぁ。香織ちゃんを
さらにこの機会に、香織ちゃんを都心に連れて行ってやろうと。なるほどなるほど。
「じゃあ3人でお出かけだね。折角だから食事もしてこようよ」
「そうだな。……香織ちゃんもそういうわけだから、宿題は済ませておくようにね」
「はい。……でもいいんですか」
「もちろん。な?」
振られたので、ニコッと笑ってうなずいた。「もちろんよ。夏樹のお小遣いから出してくれるんだろうし、ご馳走になろうね」
途端にウッと引きつった夏樹だけれど、冗談だよ。ちゃんと後で家計から出しますから。
とまあ、こんなやり取りがあったわけで、5月15日のお昼過ぎごろに私たちは神保町に向かった。
日曜日ということもあって東京市電の車内は混雑していて、3人ともつり革につかまって立っていた。
もしかしたら、昨日チャップリンが東京に来たらしいからその影響も……、それはないか。どこで出逢えるかわからないのだから、そんな理由で都心に出る人はいないだろう。もちろん、スターだけに警備の人もついているだろうしね。
窓の外を見たり、車内の注意事項を眺めて、社内でふとももなんて出す人がいるのかと思ったりしているうちに電車は進んでいく。
靖国通りを進む電車が、九段を過ぎて神保町の駅に到着。そこで降りると、靖国神社の方に向かって左側にずらっと本屋さんが並んでいた。
さて谷崎潤一郎の弟に谷崎精二という人がいる。
その人が神保町について、新聞に次のように書いていた。
「銀座が紳士の街なら、神保町通りは学生の街だ。銀座のカフェーへは紳士でないと
「銀座が紳士の街」には異論もあるけれど、神保町が学生の街ということには納得できる。
聞くところによると関東大震災の時には火の手が回るのが早くかったらしく、
「不如帰」「中学講義録」
軒下からぶら下がっている紙に、売り出し中の書名が書かれている。この本屋街独特の雰囲気は、今も昔も、そして未来も変わることがないだろう。
下駄に着流しの男の人や、洋装の人も。男性ばかりかと思えば、和服に袴姿の女学生の姿も見える。
三省堂で新本を眺め、東陽堂で香織ちゃんが必要とする教科書や参考書の古本でめぼしいものがないか探したりしつつ、そのまま西の靖国の方へとのんびり歩く。
古本のお店もあれば、新本のお店も軒を連ね。軒先に出ている平台にはお薦めの本や安売りの本が平積みになっていた。
新本も良いけれど、特に古本のお店にはどこか宝探しのようなわくわく感があると思うんだ。私は。
さっそく手近な本屋に入る。ぎっしり詰まった本棚が並び、一人通れるくらいしか空いていない狭い通路。お店の出入り口は開いているというのに、店内は古本の紙の匂いが充満していた。
私が探しているのは小説だ。この時代だと川端康成、芥川龍之介、菊池寛、谷崎潤一郎などかな。
この前は久方ぶりに『野菊の墓』を読んでグスグス泣いちゃって夏樹から心配されたっけ。……だいたいあれは哀しすぎるよ。私と夏樹は幼なじみだったから特にそう思うのかもしれないけどさ。
ほかにも菊池寛の『
……さてと、今日は何があるかな。
棚を見ると、今はやりの円本が並んでいる。お手頃なお値段の文庫本。この先の岩波書店に行けば岩波文庫もあるはずだ。
ざっとタイトルを見て、次の本棚、そしてまた次の本棚と進んでいく。
『伊豆の踊子』『金色夜叉』『半七捕物帳』……。う~ん。伊豆の踊子なんかは割と好きなんだけど、もう持ってるんだよね。
じっと眺めていると、端っこの方に田山花袋の『温泉めぐり』があった。
この人、『蒲団』を読んでから避けていたけど、これはちょっと心惹かれるタイトルだ。温泉めぐり、か。
本を抜き出して、目次を見る。
南伊豆、湯ヶ島、伊東、奥箱根、塔ノ沢、伊香保……。ははぁ。どうやら日本全国の温泉めぐりをしたエッセイらしい。
伊豆、箱根、北関東から、長野、新潟、兵庫、福島、東北、山陰、阿蘇、霧島、別府、登別、果ては満州朝鮮まで。すごい。よくもこんなに回れたもんだ。
でもこういうエッセイは、なんだか読むだけでも旅行した気分が味わえそうな予感がする。……実は、こういうのに弱いんだよね。
那須塩原もあるし、いずれ清玄寺に行ったときに温泉によるのも良さそうだ。
「うん。これにしよう」
「ふぅん。温泉めぐりか」
「え?」
独り言をつぶやいた瞬間、後ろから声がしてビックリした。
「やだ。夏樹ったら驚かさないでよね」
「さっきから見ていたんだけど、気づかすにじぃっと集中していたからさ」
それはそうだけど。ビックリしたじゃないの。
その脇にいる香織ちゃんまでクスクスと笑っている。……屈託なく笑えるようになって喜ぶべきところだろうか。
どうやら夏樹は夏樹でもう買う本を決めていたようだ。
「じゃあ、それでいいかな? ちょっと買ってくるよ」
そう言って私の手から『温泉めぐり』を抜き取って、手にしていた数冊の本と一緒にレジに向かっていった。
「ちなみに香織ちゃんは何にしたの?」
「ええっと、『史的唯物論入門』です」
「は?」
衝撃が走った。
史的ゆいぶつ論入門? そんなに難しそうな本を? 香織ちゃんが?
いやいや待て待て。それって社会主義の……。大丈夫なのかな? 最近は弾圧が厳しいみたいだけど。結社員というわけじゃないから、大丈夫か。勉強だけなら。
いやいやそうじゃない。それよりもだ。
「も、もしかして、我が家で階級闘争を……」
と言うと、途端に吹き出した。
「ぷっ。しませんよっ。だいたい闘争ってなんですか?」
「だよねー」
ツッコミを入れられるようになって、私もうれしいよ。それにどうやら内容はよくわかっていないようだ。
「旦那様も奥様も優しいし、学費も出してもらって、なんだかお父さんやお母さんや皆になんて言っていいかわからないです」
困ったように、はにかむ香織ちゃんがなんだか可愛いかった。
ただね。香織ちゃん。
平等で統制された経済は理想に見えて、いつか破綻する可能性が高いよ。後の歴史を見ればね。結局、経済特区を作ったりすることになるだろうし。
かといって資本主義が全面的にいいというわけでもない。
貧富の差が大きくなるのはその通りなんだから。その分、福祉というある意味平等な政策を講じていくことになる。
結局この世界は、平等と差別と両面の姿でできている。それは未来も変わらない。
その上で政治や経済がどうあるべきかは、これからも人類が考え続けていかなきゃいけないことだと思うんだ。
◇◇◇◇
そんな風にのんびりと歩き、途中で神田日活館で映画を見た。映画館から出てカフェで休憩をして再び本屋をめぐる。一誠堂、岩波書店、南海堂……。
そうしているうちに、あたりは暗くなってきた。3人で話し合って、そろそろお夕飯を食べて帰ることにした。
良く晴れた日で気温も上がった一日。行楽日和ともあって、夕方近くになっても街は結構な人混みだった。
お店を探して歩く私たちのそばを、2台の空きタクシーが通っていく。
昼だったら
香織ちゃんは何でも良いっていうので、牛肉屋さんで牛丼を食べることに。けれどいざ探してみると、この人だかりでどこの店も満員だった。
しばらく歩いて、結局並ぶことにした。ようやく順番が来たころには、もうすっかり暗くなっちゃったけど仕方ないね。
狭い店内を3人で並んで座る。
どんぶりの上に、しょう油ベースのお出汁で煮込まれた牛肉と玉ねぎの具が載っかり、その上からお出汁が掛けられている。オレンジ色の裸電球の下で、湯気がうっすらと立っていて、いかにも美味しそう。
七味をパラッとかけて、さっそく一口いただいた。
ちょっと濃いめの味付け。お肉はちょっと筋っぽいけれど、味付けはまさに牛丼のものだ。お出汁とお米、そこに牛の旨みが口の中で一体となる。
……ううぅ。半熟卵をかけたい。生卵ならあるようだけれど、どうしようかな。
隣の香織ちゃんは、初めての牛丼のおいしさに箸が止まらないようだ。そういえば、自宅でもまだ作ってはいなかったっけ。
……そうか。お琴よりも料理と裁縫を教えるのが先じゃないか。牛丼の作り方もその時に教えることにしよう。
「ああ、そういえば香織ちゃん」
話しかけたときだった。にわかに通りが騒がしくなった。
夏樹が顔を上げた。他のお客さんも中腰で何事かと表を見ている。
「大事件だ! 三菱銀行が襲撃された!
――え?
「なんだと!」「どういうことだ!」
たちまち騒然となる店内。そこへ号外の声が聞こえてきた。「おい! 皇軍の士官が首相官邸に襲撃だって!」
すぐに出て行く人たち。店のおやじさんが厳しい表情でそれを見ているが止める気配はない。
店内には私たちと、あと2人ほどのお客さんだけになってしまっている。
夏樹を見ると、座ったままで静かに私を見ていた。
……うん。わかってる。こういう時はまず落ちついて、状況確認と安全の確保だよね。
私は黙ってうなづき返し、隣でオドオドしている香織ちゃんに、
「落ち着きなさい。大丈夫だから」
と声を掛ける。
お店の外の
楽しかった日曜日だったんだけど、あっという間に事件に巻き込まれてしまった気分だ。
もっと早くに引き上げれば良かったと思いつつ、お支払いを終えてお店を出ると、厳戒態勢になったのだろうか、あちこちの通りに陸軍の軍人が動き回っていた。
夏樹が買った号外には、
「首相官邸、警視庁、内府邸等を
ピストル 手りう弾を以て
陸海軍制服の軍人等
――
と見出しが
それを見て夏樹がぽつりとつぶやいた。「五・一五事件だ」
帰り着く時間こそ遅くはなってしまったが、ともあれ私たちは無事に家に帰ることができた。……
思いがけず、初めてああいう騒動に遭遇した香織ちゃんは、帰りの電車の中でもどこか怖がっているようすだった。無理もない。
夏樹と相談して、その日は私は香織ちゃんと一緒に居間で寝ることにした。
どうやら疲れていたようで、香織ちゃんは布団に入るとすっと眠りに落ちていった。どうやら私たちの心配は
香織ちゃんが眠りについたの確認して、私も上を向く。暗い天井をじっと見つめていると、蛙の声や、時折聞こえる犬の吠え声などが、妙にはっきりと聞こえてくるような気がした。
五・一五事件か……。
確か軍人が首相官邸を襲撃して、「話せばわかる」と言った犬養毅首相を、問答無用とばかりに銃で撃ったんだよね。
昨年の選挙で政権が交代して、首相になったばかりだというのに。
昨今では政友会と憲政会の2大政党が激しく対立し、互いに相手を密告しているかのように、次々に
2年前のロンドン海軍軍縮会議で海軍保有の補助艦が制限されることとなったけれど、これが天皇陛下の軍事
それに加えて、折からの恐慌で失業者の増大、凶作の農村。その一方で政治家たちの腐敗。
この先、この国はどうなっていくのか。この先の未来を思うと、どうしても怖いという思いが湧いて出てくる。
寝返りを打って横を向いた。目の前には、香織ちゃんの穏やかな寝顔がある。
この子には幸せになって欲しいと思うけれど……。
ほんの
書斎に行った夏樹は、もう寝ているかな。
その時、夜のしじまを突然の電話の音が切り裂いた。
ガバッと起き出した時、私より先に書斎から飛び出した夏樹が廊下を走っていった。
「もしもし――。ああ、先輩――。ええ。そうですか。お亡くなりに……。――――はい。――――はい。わかりました。――はい」
真っ暗な
寝ている香織ちゃんを起こさないように、私は蒲団から抜け出した。そっと廊下に出て、そのまま夏樹の声がする方に歩いて行く。
受話器を手にした夏樹が、私の方をチラリと見る。そのまま電話機に向き直った。台所の照明に夏樹の横顔が照らし出され、濃い影ができている。
それからしばらくして電話が終わった。けれど夏樹はそのままの姿勢で少しうつむいていた。
ようやくこっちに振り向いたその表情には、隠しきれない疲れが浮かんでいる。……しかし、その目には決意の色が浮かんでいた。
「春香。話がある――」
内容はまだわからない。でも私は、貴方の妻。どんな決断だって、必ず貴方に付いていく。どんなときも二人で生きていく。それが夫婦ってものなんだよ。
真剣な眼差しの夏樹に、私は黙ってうなずいた。
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