第11話 昭和6年、小さい女中さんが来た。

 あれから1ヶ月ほどが経ち、小学生くらいの女の子を連れた僧侶がやってきた。


「ごめんください。……清玄寺せいげんじ恵海えかいと申します」


 初めてお会いする恵海さんは、50代半ばぐらいの男性だった。

 綺麗に頭を丸められているせいか、やや年齢より若く見えるけどね。……いや、若く見えるのは、溌剌はつらつとしたどこか少年のような眼差しのせいもあるだろう。


 もう寒い時期なのでコートを着ているけれど、裾からはかま雪駄せったが見える。中は旅装用の法衣っていうのかな? そういうのを着ているんだろう。

 後ろの女の子は厚手の半纏はんてんを着ているけれど、初めての東京で、見知らぬ家に来たせいだろう。おどおどとした様子で私を見ていた。


「遠いところをわざわざ……。私が春香です」

「お初にお目にかかります。ようやく御仏使さまにお目通りがかないました」

「いやいや。恵海さん。その御仏使さまは止めてくださいって。……それより寒かったでしょう。お二人とも中へどうぞ」

「はい。失礼します」


 女の子の様子を見てみると、きちんとき物を揃えて上がってきたので、それなりのしつけは行き届いているのだろう。

 恵海さんはコートを脱いで脇に抱え、興味深そうに家の中を見ている。そのまま廊下を通って居間に案内した。


 中は火鉢ひばちをつけて暖かくしてある。そのまま二人を残して、私はお茶をお出しするために、すぐにお台所に向かった。

 お茶の道具と水を入れた鉄瓶てつびんを持って、居間にとって返し、火鉢の五徳の上に鉄瓶を置いた。

 お湯がくまでは時間がかかるけれど、お客さんを放っておくわけにもいかないから仕方がない。


「冷たくてすみませんけど」

と言いながら、水でしぼったおしぼりを渡す。「いえいえ。ありがとうございます」

 2人が手をいている間に、お煎餅せんべいを盛った菓子器を出した。

「はい。どうぞ」

「ありがとうございます」



 二人に対面するように座ると、早速、恵海さんがかしこまって、

「先日のお願いをお聞き届けいただき、まことにありがとうございます」

と頭を下げた。


 あわてて、「恵海さん。頭を下げないでください。手紙を読んで私も夏樹も心を痛めていましたし、うまいこと対処できたと、かえってこちらがお礼をいいたいくらいですよ」

 そう言って微笑むと、頭を上げた恵海さんは「やあ、これは」と言って笑顔になる。


 田舎のお坊さんらしく、好々爺こうこうやとした雰囲気でなかなか好感が持てる。それと同時に安心もした。こういう人が住職をしているのなら、お寺は大丈夫だろう。


「それでそちらの娘さんが?」

「はい。……さ、ご挨拶をなさい」

 恵海さんにうながされ、その女の子は、

「大島香織かおりです。11歳になります。一生懸命に働きますので、よろしくお願いします」

と言って、土下座をするように深く頭を下げた。


 事前の話として聞いているのは、300円の前借りをして、うちの女中として5年間働くことになっているということ。

 親元を離れ、こんなに若い子が遠く東京まで来たのだ。不安もあるだろう。


「頭を上げて。……私が春香。今は夫の夏樹は仕事に行っていていないけれど、よろしくね」

「はい。よろしくお願いします」


 やはり知らない人の家に来たばかりだから、かなり緊張しているようだ。

 髪は手入れがしやすいように肩よりも上で切っている。それでもぼさぼさだけど、それは仕方がない。

 ちょっぴり細めの眉の下で、不安げな目が私を見ていた。


 肌もカサカサになっているようで、頬も赤いままだ。よく見ると手の指先はすでに霜焼けになっているのか、少しただれているみたい。


 痛いでしょうに……。


 押し入れから薬箱を引っ張り出して、

「こっちにいらっしゃい」

と手招きをすると、恵海さんの顔を伺いながら、おそるおそるやって来た。


 箱のふたを開けて、中からトフメル軟膏なんこうの銀色の缶を取り出した。

 香織ちゃんの右手を私の手で挟みこんで、ぎゅっと温める。それからトフメルを指先ですくい取って、温めた手に塗り込んでいった。

 右手が終わったら次は左手。


「はい。おしまい。……いい? 今日からしばらくは1日に2回、これをること」

 そう言ってフタを閉めたトフメルを、ぽんと香織ちゃんに手渡した。


「はい」と返事をした香織ちゃんは、おっかなびっくりという様子で缶を持って、しげしげとフタの文字を見下ろしている。


「さあ、お湯も沸いてきたから、ちょっと待ってね」

 そう言って、火鉢の脇に座り直し急須にお茶っ葉を入れた。


 手伝いをしようと、こっちにやって来そうになったので、「恵海さんの横にいなさい」というと、「はい」と返事をして言われたとおりに、元の位置に戻っていった。


 布巾ふきんを持って鉄瓶を持ち上げ、湯呑ゆの茶碗ちゃわんにお湯を入れる。鉄瓶を五徳に戻してから、お湯呑みのお湯を急須きゅうすに移した。

 そのままフタをして待つこと1分。ゆっくりと急須を3回まわして、人数分の湯呑みに何回かに分けて少しずつ注いでいき、最後の一滴までしっかりとしぼり切る。


「はい。どうぞ」

とお茶をお出しすると、恵海さんはありがたそうに畏まって受け取った。「いただきます」


 それからお茶を飲みながら、現地の様子を聞いてみた。


 清玄寺のある松守まつもり村は、那須塩原から福島県は会津に抜ける街道から程近いところにある。(※架空の村です)

 山すそにある村で、今は農家と林業の家がおよそ30軒ほどあるらしい。すべて代々、清玄寺の檀家だそうだ。

 どの家も借金を抱えているらしいが、ほとんどが寺からと、清玄寺の総代の分家で町に出た裕福な家があるらしく、そこからの借金らしい。

 ということは、幸いにも集落内でどうにかカバーできているということだろう。


 しかし今回の大飢饉ききんのせいで軒並み借金をせざるをえなくなったそうだ。さすがの清玄寺も、その件数と金額が多くて、とてもまかないきれなかったという。

 私たちに相談の手紙を出したのはこのころで、返事が届くまでの間に身売りを仲介する周旋しゅうせん業者が村に入り込んできたとのこと。


 香織ちゃんの家では曾祖父の代にこさえた借金が、すでに700円ほどあったのに、さらに300円の借金。それも小作農の立場でとなっては、香織ちゃんを身売りに出すほかなかったという。


 同じような家がほかに4軒。

 もっとも娼婦しょうふになるには条件があるらしく、その条件を回避するための手口として、初めは女給扱いで身売りにするという手口がとられるらしい。

 ともあれ、すんでの所で清玄寺が介入できたというわけで、本当に良かったと思う。


 悪質な周旋しゅうせん屋が関西の方から東北に来ているらしく、悲惨な身売りを防ごうと、村によっては役場で娘の身売り相談所を開設しているところもあるそうだ。

 しかし、まだまだ油断できないと恵海さんは言っている。


 いずれも小作農家だったそうで、そのほかに女中や女工として期間労働に出たのが5人いるらしい。

 どうやらそれほど悪質な業者ではなかったそうで、苦労はしたそうだけれど、無事に話を取りまとめることができたということだ。……本当にお疲れさまといいたい。


「他の地域ではもっと悲惨だそうです。総代のとこの分家が言ってしましたが、なんでも身売りされた娘たちを載せた下り列車が、日に何本も通過しているそうで、奥州街道も娘を乗せた車が何台も通っているとか」


「そうですか。……他の7人の行き先は確認できているのですか」

「ええ。周旋屋とも直接会って、期間労働が終わり次第、村に戻ってこられるよう手配しております」

「それならよかったですね」

「はい。その点はご安心ください。何しろ村の者は皆、うちの檀家ですからな」


 こういうことができるのも、お寺の方に余力というか、財力があるからでしょうね。でないと、どうにもならないはずだから。


 私たちが創ったお寺が無事なようで、ちょっと安心したかな。世間で報道されているほど、村の方ではひどくなさそうでよかった。


「寺で引き取った4人も、家内の美子よしこの手伝いをさせております。……手が足りなくて耕していない畑も結構ありましたので、来年には村の男衆にも手伝って貰いながら、畑を広げようかと思っております」


 それから香織ちゃんの家族のことも聞いた。

 なんでも両親ともに30半ばで、13歳の兄が1人、弟が9歳と7歳と2人いるらしい。今回の大凶作で食べるものすらなくなったそうで、不況も重なって長男を働きに出したくても働き口がなかったという。

 きっとどこも同じような状況なんだろう。


 残念なことに、なんでも恵海さんは寺に戻らなければならないらしく、すぐに帰って行くことになった。夏樹にも会いたかったらしいけど、またいずれ機会はある。


 見送りをした後は、香織ちゃんと2人になる。まずは家の中を案内しないとね。


 最初は玄関脇の四畳半のお部屋から。ここは物置にしていたけれど、すでに荷物は整理してあって今日からは香織ちゃんの部屋となる。


「ここが香織ちゃんの部屋。お布団とお机、それと小さいけれど箪笥たんす代わりに行李こうりを用意してあるから使ってちょうだい」

「はい。奥様」


 おっと、私を「奥様」呼びですか。

 ……でも他に呼び方ないよね。ま、いっか。


「冬場は寒いから、用意してある湯たんぽを使ってね」

 廊下の反対側の障子しょうじを開けて、さっきまでお茶をしていた居間に入る。


「ここが居間。お客さんは滅多にないけど、お通しするのはここ。それと食事なんかもここで取るから」

「はい」

「じゃ、廊下の方に出ましょうか」


 そういって南側の廊下に出ると、そこは縁側えんがわだ。

「さっきの香織ちゃんの部屋の隣は、夏樹の書斎になってる。そこの掃除は私がやるからいいけど、後でちょっとだけ中を見せてあげるね。……で居間の隣の六畳間が奥の間で、夜は私たちの寝室」

「はい」


 廊下の突き当たりがトイレ、そして、お風呂場、お台所となる。


「お台所には勝手口があるけれど、必ず鍵は掛けておくこと。……それとかまどの使い方は大丈夫かな?」

「家でお手伝いをしていたから大丈夫、だと思います」

「そう。で、これが氷室ひむろね。氷屋さんが毎朝、氷を持ってくるから。そしたら上の棚に入れてちょうだい」

「氷室……。はい」

「見たことない?」

「はい」

「開けてみていいわよ」


 いわば冷蔵庫だからね。村には無かったのだろう。

 香織ちゃんは興味津々しんしんの様子で、扉を開けたり閉めたりしている。「へぇ」


 その様子がいかにも年相応に見えて、ほほ笑ましい。

「見てわかるとおり、お肉や魚はここに入れて保管しておくの」

「はい」


 さて、それから話を聞いてみると、どうやらお料理はお手伝い程度しかしたことがないそうだ。もっとも基本的に私がすべてやるつもりだから、香織ちゃんにはお掃除とかの手伝いをしてもらえば、それでいいと思う。


 だって、まだ11歳だよ。

 今までにも女中さんを使ったことがないわけじゃないけど。この年の女の子に女中さんとか無理だって!

 昼間は尋常小学校に通わせるから、そんなに時間も無いでしょうしね。


 ひと通り案内をして、最後は夏樹の書斎に入る。ここはうちで唯一のフローリングの部屋だ。

 壁際には本棚を並べてあって、窓際には仕事用のデスクが置いてある。

 きっと何かを調べているのだろうけど、本やら書類やらが山積みになっていた。


 家の中の本はすべてこの部屋にと決めてあるので、中には私の本も並んでいる。部屋が狭くなるけれど、読書用のソファもちゃんと置いてある。

 時にはデスクにいる夏樹をながめながら、このソファに座って小説を読んだりするのだ。


 ちょうど窓のレースカーテン越しに、柔らかい光が射し込んできていた。

「ここはね。色々と大事なものがあるし、デスクの上とか下手に触れないから私が掃除するから」

「……はい」


 どうやら香織ちゃんは、部屋の雰囲気に飲まれているようだ。書斎なんて初めて見たんだろう。

 物珍しそうにあちこちと見回している。


 本棚の真ん中の段には、今までの旅で手に入れた物を入れ替わりで置いている。

 もちろん武器類は危険なので仕舞ってあるけど、楔形くさびがた文字を刻んだ粘土板とか、航海していたときの船の吊り下げランプとか、一つ一つに思い出があって懐かしい。


 そんななかで入れ替えをせずに、ずっと飾ってある物もある。

 特に大切なもの。

 かつてとある女性から託されて、私たちの娘として育てた碧霞へきかかたどった木の人形とか……。


 香織ちゃんは、その碧霞人形の隣に置いてあるケースを不思議そうに見ている。


 そこには紙粘土の指輪が。それは――、


「気になる?」

 するとコクンとうなずいた。「はい」


 それはそうかもしれない。碧霞人形もそうだけど、ぱっと見た目には価値のある物には見えないだろうから。


 紙粘土の2つの指輪。

 片方は私が塗った青と白のしま模様。もう片方は夏樹の塗った水色。そっちの指輪は内側に小さく文字が刻んである。


 これは、小学校4年生の七夕の時に、お互いに相手の指に合わせて作った指輪。大切な思い出の指輪なんだ。


「……ん~、やっぱ内緒」

「え?」

「でも、このなかで一番、大切な物だから触らないでね」

「はい」


 婚約した時に、夏樹のおばあちゃんの大きなルビーの指輪をもらった。そして、そのお返しとして私もお父さんの腕時計を贈ったんだけど、タイムリープしたときに両方とも消滅してしまった。

 指輪で残っていたのは、その時に指にめていた結婚指輪とこの紙粘土の指輪だけ。


 きっと重複存在とか難しい理由があるんだろうと思う。


 でも、だからこそ。この紙粘土の指輪は大切な物なの。

 私たちの原点。最初の絆の指輪なのだから。


「さてと、じゃあ、ちょっとお買い物に行きましょうか」


 お夕飯のおかずもそうだし、香織ちゃんも細々としたものが必要になるでしょう。……それに近所の人にも顔見せしておかないといけないし、色々とやることがあるのですよ。



◇◇◇◇

 その日は、夏樹が少し早めに帰ってきた。


 例の24時間の勤務態勢も、今は普段通りの体制に戻っていた。

 ただし私たちにとっては、喜べない状況もある。戦線不拡大の方針だった政府が、結局、関東軍の独走を追認しはじめたようなのだ。

 日本軍の快進撃は続いていることに世論が沸き立ち、それに目をくらまされたのかもしれない。


 ……もっとも、これも歴史の通りなんだけどね。


「旦那様、お帰りなさいませ」

 玄関で、香織ちゃんが座り込んで、ひたいを床に付けてお出迎えの挨拶をした。夏樹がギョッとして、

「いいって。そんなにしなくても。……春香と同じように、立ったままで礼をするくらいでいいから」

「はい」

 香織ちゃんが頭を上げると、その頭をポンポンと軽く叩いていた。


 その様子を見ていた私を見て、夏樹が苦笑する。私も苦笑し返した。

「食事の準備はすぐにできるから」


 夏樹は書斎にコートを置きに行き、その間に私は香織ちゃんとお台所に向かった。


 今日のお夕飯はおでんです。

 弱火にかけていた土鍋の中身は、もう充分なほど味が染みこんでいる。香織ちゃんにご飯をおひつに移してもらい、その間に熱いお鍋を居間に運ぶことにした。



 丸いちゃぶ台に、今日からは3食が並ぶことになる。

 女中さんだからといって別々に食べることはしない。うちではね。


 ただ、こうして3人分のお箸が並んでいるのを見ていると、遥かな昔に育てあげた娘の碧霞へきかや、一時期だけど一緒に過ごしたシャルル未登場人物のことが思い出され、妙にしんみりとしてしまう。


「……思い出してるんだろ?」

 不意に夏樹から声を掛けられたが、まさにその通りだった。「うん。こうしてお箸が並んでいるのを見るとね」


「確かに。――時代も、食事も、場所も違うけど、この雰囲気が懐かしいな」

「うん……。じゃ、お味噌汁をよそってくるから」

「はいよ」


 きっと夏樹も私と同じことを感じているんだろう。やっぱり子供を女中さんになんて。そんな眼で見ることはできそうもない。私たちには無理そうだ。



 準備ができたので、ちゃぶ台を3人で囲んでご飯にする。

 香織ちゃんは女中なのに一緒に良いの? って戸惑っていたけど、まあいいでしょ。これで、少しでも親と離れている寂しさが紛れると良いんだけどね。

 きっとしばらくは、寂しくて夜、お布団で泣くんじゃないかって気がするし。


 土鍋の蓋を開けると、お出汁だしが染みこんだおでんの具が仲良く並んでいた。

 ちくわ、こんにゃく、卵、大根、はんぺん、ジャガイモ。

 がんもどきとか、練り物は近くで手に入らなかったので、今日は入れていない。でも3人で食べるには充分だと思う。


「はい。どうぞ」

 かんをつけたお酒を注ぐ。お銚子ちょうしを置くとすぐに夏樹が手にとって待っているので、手元においてあったお猪口ちょこを差し出した。

 トクトクトクとお酒が注がれていく。

「乾杯」「お疲れさま」

 二人でお猪口を掲げて、すっとお酒をいただく。


 香織ちゃんはじぃっと私たちを見ていた。


「香織ちゃんはもちろん駄目よ。お茶で我慢してね」

「当たり前だって。……いや、田舎だと飲むこともあるのか?」


 考え込む夏樹に、「ないでしょ」とツッコミを入れると、それもそうだなと言いながら、お猪口のお酒を飲み干していた。


 空になった夏樹のお猪口にお代わりを注ぐ。

「香織ちゃんも遠慮しないで、どんどん食べろよ」

 夏樹がそう声をかけた。香織ちゃんは「はい」とうなずくけれど、なかなかお箸を出さない。

 初日だしね。どうしていいのかわからないのかな。


「どれどれ」

と言いながら、香織ちゃんのお椀を持って、勝手におでんをよそってお出汁をかけてあげる。


「はい。どうぞ。こっちの黄色いのは辛子粉を練ったもの。ちょっとだけ付けると美味しいけど、付けすぎると辛いから注意してね。……でこっちは七味。これもお好みで」


「ありがとうございます」と言って受け取った香織ちゃんは、さっそく大根を割って、口に入れた。

 口に入れて目を丸くしている。


 ああ、きっと食べたことなかったんだろうな。東京でも、基本的に屋台とかで食べるものらしいし。味噌ベースのお鍋ならあるんだろうけど。


「おいしい?」

「はい」

「これがおでんよ。たくさんあるから食べてね」

「はい」


 お腹がすいていたんだろう。食べられるときに食べておこうとばかりに、香織ちゃんが一生懸命に食べている。

 見ると、少し涙ぐんでいた。


 ……あ、そうか。

 もしかしたら、お母さんの風呂吹き大根を思い出したのだろうか。


 さっきから「はい」としか言わないけれど、その様子を見るとなぜか私も目頭が潤んできた。


 だって、おでんだよ。そんなに高価な具材を使っているわけじゃない。

 それなのに……。なんでそんなに必死なんだろう。


 いったい今までどんなものを食べていたのか。

 この子の家族は大丈夫なんだろうか?

 親と離れて、どんなに心細いことか。


 そんなことを思うと、急にやるせなくなってきてしまった。


「春香。……飲め」

 夏樹の声に顔を上げると、お銚子を手に構えている。私は目をこすってからお猪口を手に取った。

 私を見つめる夏樹。どこか痛ましげな微笑みになっている。


「手の届くところだけ、か……」

 つぶやくような夏樹の言葉に、私はぎゅっと胸をめつけられる。


 きっと夏樹も、清玄寺のあの手紙を読んだときは、こんな気持ちになったのだろう。

 親元から遠く離れて暮らすこの子。せめてこの家を自分の家のように思って欲しい。そう願った。


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