第4話 昭和4年、夏樹、入営
凍えるような冷気の底にいる。今日も寒そうだ。
見慣れない天井が見える。建物のどこかで複数の人があわただしく動いている気配がする。
ああ、春香がまたくっついているな。この柔らかいぬくもりに包まれていると、温かく幸せな気持ちになる。布団の中に汗のにおいがする。ああ、そうか。昨日は……。
あれ? ここはどこだっけ?
そこまで考えて、ようやく意識が覚醒してきた。
そっか。1月10日だ。
――俺は今日、歩兵第一連隊に入営する。
遅れてはいけないということで、昨日、ここの宿に泊まったんだった。
起き上がろうとすると、その途端、春香が行かないでとばかりに、ぎゅっと力を入れてきた。……動けない。
仕方なく、ただじっと隣にある寝顔を見つめる。自然と昨夜の様子が思い出された。
◇◇◇◇
「それにしても、なかなかのお祭り騒ぎだったね」
そう言いながら、浴衣に羽織を着た春香が、テーブルの舟盛りから刺し身を一切れすくい上げた。
ほかにも蒸し物、焼き物など、ここは温泉旅館ではないけれど、豪華なご馳走が並んでいる。二人の間にあるお鍋から、熱気が蒸気となって立ちのぼっている。
「確かにね」
苦笑いを浮かべながら、手にしたお
昨年11月ごろだったか、俺の手許に現役兵証書が届いた。折しも天皇陛下の即位大礼に、世の中が慶賀一色になっている時だった。
所属は歩兵第一連隊。入営日は昭和4年1月10日。
現役兵確定。それも歩兵だ。
あの時、春香は既に覚悟をしていたようで、短く「そう」とだけつぶやいたが、あの切なそうな横顔が心に残っている。無理をしているのが見え見えだったが、それはきっと俺も同じだったろう。
それから春香は今まで以上に甘えてくるようになった。でもそれが俺にはうれしかった。春香に甘えられるのが好きだから。
驚くほどのことでもないかもしれないが、酒屋の晋一郎君も同じ歩兵第一連隊だった。
この時代。現役の歩兵に選ばれるのは名誉なことだと考えられているらしく、出発する際の壮行式では、町内会総出でのお見送りを受けた。まるでお祭の主人公のような扱い。……もっともどこか手慣れたようでもあったが。
万歳の声に見送られ、俺は春香と家を出た。ああ、晋一郎君は親父さんが付き添いだった。
注いでやった燗酒に口を付け、春香はほぅっと色っぽく息を吐く。
少し胸もとが開いた浴衣姿は破壊力抜群だ。
「麻布かぁ、近いといえば近いんだろうけどね」
連隊の兵営は麻布桧町。後に防衛庁やら東京ミッドタウンとなるあたり。
俺はさりげなく、
「同じ東京内だから、休みの時は帰れるよ」
「うん。……待ってる」
そうは言ったものの、一体どれくらいの頻度で外出許可をもらえるのかはわからない。そのわからないということが、余計に寂しさをかき立てる。
ちなみに俺が兵役に就いている間だが、春香は、家から離れたところの畑を借りて農作業をする予定だ。
本当は、一人だからと家に閉じこもるのはよくないんだが、どこかに勤めると余計な問題を招き寄せかねない。具体的にいえば、ちょっかい掛けようとする悪い虫とか、悪い虫とか、悪い虫とか、悪い虫とか。
……心配しすぎだろうか。
もちろん出かけるのはOKだと言ってあるが、充分に身の回りに気をつけて欲しい。
もっとも今、不景気で、強盗の際に家人に戸締まりなどを注意する「説教強盗」なんてのも出没しているから、家にいたからといって安心はできない。
うん。やはり心配なんだよな。1人暮らしをさせるのは。
もっとも今まで戦乱の時代もあったし、大抵のことには対処できるとは思う。けれど、それはそれ、これはこれ。2人暮らしが長いとどうしても心配になる。
視線に気がついて顔を上げると、春香が苦笑していた。
「心配なのはわかるけど。まあ、どうにか1人でやってみるって。ちゃんとお
「……ああ」
「それより、夏樹もよ。上官に連れられて変なところに行ったら、タダじゃおかないからね」
「そんなことしない!」
「絶対?」「絶対にだ」
俺は春香だけでいい。お前だけがいればいい。
「ふうん。ならいいけど」
春香が二マッと笑みを浮かべる。「ま、わかってるけどね」
「……よく考えたら、
「そうそう。だから心配になるんだよね」
「俺もだ」
しばしの沈黙が下りる。
「今は平時だから、大丈夫だよね」
「大陸に行かない限りはな」
「私。たくさん手紙を書くよ」
「うん」
「だから、夏樹も手紙ちょうだいね」
「わかった」
ようやくうなずいた春香だが、どこか寂しげな微笑みを浮かべていた。そして、ささやくように。聞こえるか聞こえないかというほどの小さな声で、おねだりをした。
「さてと、じゃあ今日は2年分、愛してもらおうかな」
そう言って、ちょっと恥ずかしそうに微笑んでいる。俺も微笑みを返す。
珍しいおねだりだ。
――確かな絆はあっても、それでも人は、もっともっと確かな何かを欲しがる。
子供がいないから尚のこと、そう思うのかもしれない。
でもそれは俺も同じこと。
……いいや。最初の人生で、一度離ればなれになった俺は、春香以上にそのつながりを求めているのかもしれない。
そして、この手から離れていってしまうのが。……失ってしまうのが怖いのかもしれない。
その夜。俺は寂しさを埋めるように、いつまでもこの肌を、匂いを、ぬくもりを忘れないように、思いをぶつけるように、春香を抱いた。
◇◇◇◇
歩兵第一連隊。
三井物産の松本さんに聞いたところ、第一師団、歩兵第一旅団に位置する連隊で、かの乃木大将が連隊長をしていた部隊らしい。
今から4年前に、
そう考えてみれば、今の時期の2年を現役兵として兵役を終わらせておくのは、まだ幸運なことなのかもしれない。満期除隊は実質的な退職を意味するからだ。
もちろん、その後も40歳まで召集される可能性があるし、この先の歴史を知っている俺たちにとって、たとえ覚悟の上だとしても、とても安心などできはしない。
春香を起こして食事を済ませ、準備を調えた俺は、時間に余裕を見て宿を出た。
例年、この10日が入営日であることもあって、街の多くの人々が歓迎のために外に出ている。
よく晴れた空に、「祝入営」と大きく書かれた
それを見て、俺の少し後ろを歩く春香が、
「うわぁ。すごい。出たとき以上だ、こりゃ」
と感嘆のつぶやきを漏らした。
振り向いて、自嘲するように、
「まるで世界大会に出場するスター選手みたいだな」
と言うと、春香が小さく微笑んだ。
「わかるわかる。その雰囲気」
本当に言いたいことを隠して、わざと明るいどうでもいいような会話を続ける。
前と後ろ、わずかな距離が今日は少し遠く、どこかたよりなく感じる。やがて、道路の先に大きなお城のような兵営が見えてきた。
営門には四角い柱が立っていて、鉄柵の向こうに、三角形の屋根をした大きな建物がある。その正面中央に大きな菊の御紋が輝いていて、屋根の裾に西洋のお城のような円塔2基を左右に置き、さらに砦のようなデザインの壁が続いていた。
窓がついているから、実際は防壁の役目があるわけじゃなくて、デザインなのだろうけれど、まさに城のような外観が人々を威圧するようにそびえ立っている。
営門の前には、同じ見送りと思われる多くの人々が詰めかけていて、紋付き姿の青年もいた。
家族の見送りはここまで。
門の中へは、俺、一人で入らねばならない。
「春香……」
「うん。わかってる」
俺はもう一度、春香の手を握った。すべすべした手。いつも俺の隣に居て、繋いでいたこの手。
「――じゃ、行ってくるよ」
そっと手を離してそう言うと、春香はニッコリ笑顔を見せると、居住まいを正した。
深々と、丁寧に、俺に向かってお辞儀をする。
「行ってらっしゃいませ。貴方。……立派に勤め上げてお帰りになるのをお待ちしております」
まるで大輪の白百合のように、清楚で凛とした雰囲気。威厳と高貴さをそなえたその佇まいは、まさに軍人の妻としての姿だった。
頭を上げた春香ともう一度、見つめ合う。一つうなずいて、俺は背を向けた。
まだ戦時というわけじゃない。だからといって、気は抜かない。
春香の空気にあてられたわけじゃないが、俺も最後までやり抜くという覚悟を決めよう。
俺はまっすぐ前を向いて営門をくぐった。
中の受付で通知にあった「第2中隊」の札のあるところに並ぶ。
前後左右にいるのは、同じような紋付き姿の青年たち。こいつらが同期となるのだろう。まだ若々しく、どこか高校生にも見える。彼らも、歩兵に配属されたことが誇らしげなように見えた。
俺が気になるのかチラチラと見ているが、おしゃべりをせずに口をつぐんで、順番を待っていた。もちろん、俺も口を閉じている。
そのまま受付を終え、身体検査を受けた後で20人ほどの班に分けられた。俺の班には、幸いにして、酒屋の晋一郎君も一緒だった。
各班に、それぞれ先輩の軍人があてがわれたが、俺たちの班長は後藤伍長という人だった。20代半ばであろうか。がっしりした体格の戦車みたいな人なんだが、声がちょっと高いので違和感がある。
後藤伍長殿の先導で身体測定などを済ませ、さっそく軍服に着替えた。
初々しい兵隊の服装を、後藤伍長殿とほかに2人の先輩がチェックしてくれる。
着替えを終えた俺たちを見た後藤伍長殿が、満足げな表情で言った。
「どうだ気分は?」
たまたま近くにいた晋一郎君が、
「はいっ。引き締まります」
と応えると、バンと背中を叩かれて、
「嘘をつくな! まだうかれとるだろうが!」
と言われている。
確かに他の青年たちは、名誉ある兵隊になったこともあり、またここまで実感のないままに連れてこられているので、どこか浮ついた雰囲気といえばその通りだろう。緊張もしているけれど、まあ初日だ。それも当然だ。
けれど、こんな風に
その後、宿舎である部屋に案内される。
手前に長いライフルのような歩兵銃が銃架に立てかけられていた。その後ろから左右の壁側に寝台がずらっと10台ずつ並んでいる。
壁には棚があって俺たちの軍服一式と、私物入れの小さな
俺たちは初年兵だが、1年上の二年兵の先輩と交互に寝台が配置されているらしい。
ちょうどお昼の食事時となり、二年兵たちが帰ってきた。そこで、それぞれペアとなる戦友が紹介される。
俺の戦友は鈴木鉄一さんという非常にぶっきらぼうな人だった。いったい仕事は何をしていた人なんだろうか。
「住まいはどこだ?」
「はい。杉並であります」
「俺は浅草だ……」
それっきり黙られると、どうしていいのかわからなくなる。浅草が一体どうしたんだろうか。遠いなとか、遊びに行けるなでもいいんだが、もうちょっと何かないか。
なんとなく、この人と会話するのは疲れそうな気がする。
指示されるままに他の初年兵と長ベンチに座り、食事が始まった。
アルミニウムの食器に、赤飯とイサキの尾頭付きの昼食だが、赤飯の量が山盛りになっている。明らかに多い。
「今日はお前たちの祝いだ。残さずにたくさん食べろ!」
まだ名前はわからないが、二年兵がニヤリと笑みを浮かべながら、俺たちに言った。
こりゃあ、わざとだな。
俺は大丈夫だが、昨夜、しばらく食べられないからと、ご馳走や飲み過ぎた奴にはキツいだろう。
案の定、引きつった顔の同期が多かった。戦友の鉄一殿が俺をチラリと見たので、黙ってうなずいて箸を付ける。
結果? 完食したのは俺だけさ。二年兵からお褒めの言葉をいただいたが、なんだかな。
ここでちょっとだけ、階級について触れようと思う。
下から順番にいえば、次のようになる。
二等卒 一等卒 上等卒 伍長 軍曹 曹長 特務曹長 少尉 中尉 大尉 少佐、中佐、大佐、とまあこれ以降は、ほぼ雲の上も上で俺たちに関係ないだろう。
一般に上等卒までが兵卒、曹長か特務曹長までが下士、それ以上は士官、いわゆる将校だ。
1年目の俺たちは二等卒だが、これが1年もすれば一等卒になる。さらに優秀なやつは上等卒となるらしい。
まあせいぜい2年の兵役期間だし、上の階級になれば部下の命を預からなくてはならなくなる。それは俺には避けたいところだ。
ともあれ、こうして軍隊生活がはじまった。午後からは、中隊長殿の訓示、宣誓式、契約書への署名捺印とあったが、まあそれは語るほどのことでもない。着替えた服は荷造りをして、送り返す手続きをした。
兵営の朝は起床ラッパから始まる。
――パッパ、パッパ。パッパ、パッパ。パッパ、パッパ、パー。
入隊2日目の朝、古年兵の誰かが、ラッパのメロディに合わせ、
「起きろよ、起きろ、みな起きろー。起きないと、班長さんに怒られるー」
と歌っていたが、こういう替え歌も伝統なのだろうね。
最初のうちは敬礼や掃除、整理整頓の仕方などの生活指導。それが終わると動作などの基本教練、手旗信号などを教わりつつ、体操など身体作りが続けられた。
これはキツいけれど、いわゆるブートキャンプに当たるのだろうから仕方が無い。同期の奴らなんかはヘトヘトになりながら、どうにかこなしているという状態だった。
夜は夜で大変だ。
ある日、夜の点呼が終わり、週番下士官が帰った後のことだ。
「堀田二等卒! 前へ出ろ!」
「はいっ」
伍長殿に名前を呼ばれた晋一郎君が、一歩前に出る。
「貴様! 昼の態度はなんだ! ヨロヨロしおって!」
「はいっ」
「たるんどるんだ! キビキビ動かんか!」
「はいっ」
晋一郎君も必死だ。その彼の返事を聞いていると、こっちも緊張してしまう。
次の瞬間、矛先が俺たちにも来た。
「お前らもだぞ!」
「「はいっ」」
「地方の
「「はいっ」」
「長沢ぁ! 貴様、軍人勅諭の五箇条は覚えたか!」
「まだでありますっ」
そう答えた途端、長沢の身体がベッドに叩きつけられた。ドガァッという音にみんなが引きつる。
「貴様ぁ! いつになったら覚えるんだ!」「はいっ。もうしわ」ドンッ。「それでも軍人か!」「はいっ。ぐっ」
その後さらに何度も殴られる鈍い音を聞きながら、直立不動で立ち続ける。すこしでも気を緩めて身体が動いてしまえば、今度は俺がやられる。そんな必死な空気が漂っていた。
「いいか! こいつが覚えないのは、貴様らの責任でもある! 連帯責任だ!」
後藤伍長殿はそう言うと、端から順番に平手で思いっきりひったたき始めた。
バンッ。バンッ。バンッ。……。
重たい平手の音が少しずつ近づいてくる。時折、「うっ」とうめく奴がいた。そして、俺の番が来た。
次の瞬間、衝撃で視界が一瞬で揺れた。麻痺したように頬がしびれている。
「あ、りがとうございましたっ」
と言うと、伍長殿は手を止めて俺を見て「よし!」と言い、隣の奴の頬をひっぱたいた。叩かれた頬が、今ごろヒリヒリとしてきた。
俺以降はみんな叩かれた際に、「ありがとうございました」と言っていった。
一通り終わると、伍長殿は少し表情をゆるめ、
「いいか、3日後にもう一度、五箇条を覚えたか確認する。それまでに覚えさせておけ!」
「「はいっ」」
――この日はこれで終わったが、まったく万事がこの調子だ。
欠礼したと言われては平手、銃の扱いが雑だと言われてはぶん殴られる生活。
ほかにも
それも1ヶ月、2ヶ月と経てば少しずつ慣れてくる。しかし、慣れてくれば慣れてきたで気の緩みもあったのか、余計にビンタの回数も増えていった。
まあ、叩かれるのに慣れてしまって、痛くない叩かれ方を身につけることができたが。
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