第3話 昭和3年、夏樹、徴兵検査

【注意】食事中の人は見ないように。

―――――



 年が明けて昭和3年。6月は6日むいか。梅雨の足音がまもなく聞こえてきそうな時期だった。

 家の前の道路を掃き掃除していると、そこへ床屋に行っていた夏樹が歩いてくるのに気がついた。


 その頭を見て、思わず、

「ぷっ」

と吹き出して口に手をあてる。

 そんな私を見て、夏樹がしょうがないなぁという顔で苦笑している。――まん丸の坊主頭で。


 すると、そこへお隣の高木のおばちゃんがどこからともなく現れて、ズンズンと詰め寄ってきた。


「ちょっと春香さん! 旦那さんはお国のため、天皇陛下のために、徴兵ちょうへい検査を受けるために床屋に行ったのでしょ。何を吹き出しているのですか! 失礼です!」


 いったいどこで見ていたのかと思ったが、あわてて頭を下げて、

「すみません」

と言ったところで、夏樹がやってきた。

 私と並んで頭を下げてくれて、

「いやぁ、高木さん、すみませんね。春香が。……ただ、私はこいつのこういう所も好きなもんで。ははは」

と言うと、高木さんはうげっといった微妙な顔になった。


「いいですか。軍人となったならば家族のしつけもなっていないといけませんよ」と言いつつ、少し表情をやわらげて、

「まあ、新婚さんですから多少は大目に見ますが」

と言い、自分の家に戻っていった。


 それを見送ってから、2人で顔を見合わせて同時にプッと吹き出した。

「と、とにかくうちに入ろう」

と手を引いて玄関に入る。またどこで見られているかわからないしね。


 ガラス戸をピシャッと閉めて、すぐに笑いがこらえられなくなって、

「くくく。まったくどこから見てたんだろうね」

と笑いながら夏樹を見上げた。夏樹も笑っている。

「叱られちゃったな」

 照れくさそうに頭を撫であげて、

「どうかな?」

と言う。


「ううん。全然おかしくないよ。――すごく新鮮!」

「新鮮?」

「うん。かわいい」

 夏樹はがくっと力を抜いて、「か、かわいい、か」とつぶやいた。


 だって仕方ないじゃない。

 高校球児みたいでかわいいんだから!


 いやいや、それよりも、

「ね。ね。さわっていい?」

というと、私のテンションに少し引いたような顔をしながらうなずいた。


 手をのばして夏樹の頭にさわる。柔らかで上質な毛皮のようでいて、ほどよい長さの髪の毛が、ブラシのように私の指と手のひらをくすぐった。


「さわり心地がいいよ」

というと、目の前の夏樹が「そうかな」と言いながら微笑んでいる。いやぁ、これはいつまでも撫でていたくなる。

 夏樹が坊主頭になったのは初めてだけれど、なかなか似合うのは驚き。


 でも、そうか。いよいよ検査、そして、徴兵なんだよなぁ。


 私の心のうちが投影されているのだろうか。夏樹の微笑みが、なぜか寂しげに見える気がした。


 徴兵検査通達書つうたつしょによれば検査の日は6月13日。場所は近くの小学校だった。


 うん。今日はご馳走にしようか。

 夏樹の顔を見て、私はそう心に決めたのだった。


 13日はまだ暗いうちから起きて、夏樹は朝食後にお風呂に入った。いつもは洋装のブリーフなんだけれど、今日は新品の越中えっちゅうふんどしを用意してある。

 服装は何がいいのかわからなかったけれど、普通の着物にはかまでいいという。


 私も会場までお見送りに行くつもりだったけれど、

「心配するなって。どうせ検査だけで今日中に帰ってくるんだし」

と夏樹が私の頭をガシガシと撫で、「玄関までで充分だ」

「――うん」


 通達書の指定時刻は午前6時30分。日の出が早い時期だから、外はもう明るくなっている。まだ時間は早いけれど、余裕を持っていくと言う。

 玄関先まで出て、歩いて行く夏樹を見送った。途中で夏樹がチラリと振り向いて、じゃあなとばかりに片手を上げる。


 単なる検査よ。検査。


 そう自分に言い聞かせながら、その姿が見えなくなるまでその背中を見続けた。



◇◇◇◇

 俺は、春香の見送りを受けて家を出て、一路、指定された小学校に向かう。

 大安の今日、20歳になった壮丁そうてい。それも東京だから結構な人数の青年が集まるんじゃないかって思う。


 案の定というべきか、道を歩いていると、ちらほらと同じように検査に向かうだろう青年の姿が見える。中には両親と思われる男女が付き添っている者もいた。

 軍人になることは名誉だと考えられているからだろうとは思うが、それにしても大げさすぎるんじゃないか。

 胸の内で独りごちながらも、前を行く3人連れの後を追いかけるように歩く。


 11日に梅雨入りしたばかりだけれど、昨日まで雨の気配はなかった。今日は曇りで東南から湿気のある風が吹いてきている。

 雨の可能性が有るので俺は傘を持ってきてはいるが、持って来ていない人も多そうだ。


 小学校に到着すると、見送りに来ただろう人々が息子の名前を呼んで、「しっかりな!」と激励をしていた。

 苦笑しつつ、俺も他の青年たちの群れに交ざった。


 去年、徴兵令ちょうへいれい兵役法へいえきほうに改定されて、今年が最初の徴兵検査となる。筆記試験はなく、検査の結果、こうおつへいていに区分される。

 体格や健康状態などで判断され、おおまかに次の通りになるそうだ。


 現役兵は甲の者。

 乙は補充兵。

 丙は国民兵役といって余程のことがないかぎり召集されない。

 さらに丁は身体や精神的に問題があって兵役免除。

 戊は徴集延期だったり来年に再検査のもの。


 現役兵となれば2年の服役となるが、学生や家族が路頭に迷う可能性があれば徴兵猶予ゆうよとなる例外規定があるし、事前に青年訓練所での軍事教練きょうれんを受けていれば、現役が半年短縮される。

 ただし俺の場合、国内の学歴などはないわけだから、現役兵となった場合の半年短縮は適用されないだろう。


 集まったのは50人ほどのようだ。同じ地区の同じ年の青年たち。同級生ばかりのようで互いに談笑し合っていた。もちろん俺の知り合いはいないので軽くぼっち気分だ。


「あの……、夏樹さんでしたか?」


 不意に声を掛けられて顔を上げると、どこかで見かけた青年だった。背は俺よりは低いけれど体格が良く、まゆが太くどこか人好きのしそうな顔。服装からは、やはり検査を受けに来たようだが……。ああ、もしかして酒屋さんか?


「堀田晋一郎です。かどの酒屋の」

「ああ。いつもお世話になっています。晋一郎さんとおっしゃるのですね」

「はい。こちらこそ奥様にはいつもうちを利用していただいて」

「いえいえ」


 そんなよくある挨拶を交わした後で、晋一郎君はしみじみと言った。

「同い年の若夫婦なんだそうですね。うちの母が珍しいねと言っていました」


 珍しい、か。

 杉並に来たのは19歳の設定の時だから、珍しいといえば珍しいのだろうか。それとも同い年という方だろうか。


「あぁ、まあ、幼なじみで家族同然の付き合いをしていたんですがね。妻の父が病気で余命宣告を受けまして、せめて亡くなる前に花嫁姿を見せてやりたくて、思い切って結婚を申し込んだというわけですよ」


 晋一郎君は、俺の説明にどこか感動したようだった。

「すごい。なかなかできることじゃないですよ。……いやぁ。奥さんがうちの母に、いつもうれしそうに夏樹さんの話をするもんですからねぇ。それも当然ってわけだ」

「え? 春香が? どんな話をしているのか……」

「ははは。大したことはないですよ。何がお好きなんだけど、それに合うお酒はないかとか。前にこんなことがあって、その時夏樹さんがこんな風に言ったとか。……まあ、新婚さんらしい事ばかりで」


 ああ、まあ、なんというか。恥ずかしいな……。でもそっか。少しうれしいかも。


 その時、壮年の軍人がやってきた。

「集合しろ!」

 晋一郎君と「じゃあ、また」と軽く頭を下げて話を切り上げた。見ると、他の青年たちも同様に話を止め、軍人の方を見ていた。


 俺たちはその軍人に連れられて講堂に向かう。もう誰も口を開く者はいない。一瞬にして緊張を俺たちを包み込んでいた。


 中に入ると、壁際に机が出され、役人らしき男性や軍人がずらっと並んで座っていた。そうだな。雰囲気としては、選挙会場のような雰囲気が近いだろうか。緊張感は全然違うけれど。


 講堂の真ん中で整列すると、さっそく訓示が始まった。

「この徴兵検査は、諸君の成人式である。ご奉公の一つであり、厳正なる態度で望んでもらいたい」


 ついで服を脱ぐように指示をされ、ふんどし一丁となって整列する。初めは身長測定からのようだ。


 終わった人は隣の体重測定に。一人、また一人と無言のうちに進んでいく。


「さっさとしろぉ!」

「はい!」


 突然、2人前の青年が叱り飛ばされ、周りの人たちが一斉にビクッと身体をこわばらせた。「ここへ立て!」

 ピシッと物差しで背中を叩かれている。「もっと胸をはらんか! あごをひけぃ!」

「はい!」


 途端に俺の前の青年が少し震えだした。萎縮いしゆくしているらしいが、今、ここで励ますわけにはいかない。口を開いた途端に、今度は俺が叱られてしまう。


「よし! 次ぃ!」「は、はい!」


 内容は普通の身体測定なんだが、やっているのが軍人なので非常に迫力がある。俺の番が来た。


「ほほぉ。貴様、体格がいいな。よし、ここに立て!」

「はい!」


 すかさず腹から声を出して返事をする。身長は172㎝ほど。たしかにこの時代の平均以上ではある。体格がいいとはそのことだろう。

「うむ。次!」


 こうして体重や胸囲を測った後で視力や聴力の検査を行い、今度は10人ずつ組となって、指示されるままに足を曲げたり伸ばしたり、手をひねったり、指を屈伸させたりさせられた。

 今度は聴診器を胸に当てられる。おそらく結核などの調査だろう。風邪の診察のように口を開けて、のどの診察もあった。


 それが終わったところで、再び軍人の号令が下る。

「よし! それではふんどしを取れ!」「はい!」


 号令直下、ふんどしを脱いでピシッと姿勢を正す。外気に触れた下半身が涼しくなるが、裸のままで今度は軍医らしき人物の前に整列する。

 順番が来ると無造作にグイッとひねられた。

「ぐっ」

 痛みに声が漏れるのを我慢すると、

「よし次!」


 この言葉で、前の人がやっていたのと同じように、軍医に背中を向けて四つんいになる。お尻の検査だ。人間ドックの直腸ちょくちょう検診のように、何かをぐいっと突き込まれ、すぐに抜かれる。


「よし!」

と言われ、

「はい!」

と返事をして立ち上がり、すべての検査は終わった。


 最後に一人ずつ、一番偉そうな軍人の前に行き、そこで簡単な質問がなされ、その後で検査結果が告げられていった。

 とうとう俺の番がやってくる。鼓動こどうが早くなる。40半ばと思われる軍人は、静かな目で俺を見た。


「君は夫婦2人のようだな。身よりはいないのか」

 思ったより穏やかな声で質問をされる。

「はい。家族は妻だけであります」

「そうか。仕事は?」

「三井物産に勤めております」

「ふむ三井か……。よろしい。夏樹。甲種合格」

「はい! 甲種合格。ありがとうございます!」


 反射的に返事をしてから気がついた。


 甲種合格。……現役兵だ。


 もちろん抽籤ちゅうせん次第では補充兵に組み込まれるけれど、現役の可能性が高いと見るべきか。これは春香に報告するのが気がかりだ。


 何しろ現役兵となった場合は、来年から2年の兵役となる。

 無事に除隊したとしても、その後も5年4ヶ月の予備役、さらに10年の後備兵役の期間が待っている。

 予備役も後備兵役もいわば待機状態だが、有事の際の補充兵になる可能性は高いというべきだろう。もちろん、現役じゃなくても補充兵になるし、いずれにしろ40歳までは徴兵される可能性があるから、変わらないといえば変わらないが。


 三井物産と答えたときに大きくうなずいていたが、一体なにが決め手になったのだろうか。


「一同、正座! これより連隊区司令官殿の訓示である! 拝聴せよ!」

 おっと考え事をしている間に、全員終わったようだ。

 先ほど結果を宣告していた軍人が訓示を垂れる。


「およそ完全なる独立国は、その存立を確保し、かつ意義あらしめるために、国の権益を――」


 静かな講堂にその声だけが響き渡った。怒鳴るような声ではないけれど、力がこもった声で、実に軍人さんらしい。


 兵役の尊厳について述べているが、この先の歴史を知っている俺にとっては複雑な気分だった。

 たしかに日本という国のために戦うという視点は尊いだろうと思う。天皇陛下のために戦うことも、俺には中世を過ごしてきた経験もあるし、わからないではない。


 ただ、そのために、一体どれだけの人々が犠牲になるというのか。死なずに済むだろう命も多いはずだ。

 ここにいる青年たちも、戦争が始まって召集されたなら、過酷な戦地におもむかなければならない。


 しかし、そんな胸の内を開陳かいちんすることはできない。複雑な気分のままで、訓示は終わろうとしていた。


「――壮丁そうてい諸君には、たとえ昨今の平時にあってもなお、かかる神聖かつ崇高なる意義に基づき、国民の使命を遺憾いかんなくたされんことを望むものである。以上」



◇◇◇◇

 最後に一礼をして解散となり青年たちが外に出て行く。


 外に出るといくつかのグループに分かれて、それぞれがどこかに向かうようだ。

 ……まあ、今日の検査が成人式代わりというのならば、今からみんなで打ち上げにでも行くのだろう。


 晋一郎君も友人たちと一緒のようだ。俺を見て、おそらく俺のことを友だちに紹介したのだろう、周りの青年たちもこっちを見た。

 あいまいな笑みを浮かべて軽く頭を下げると、晋一郎君が駆け寄ってきた。


「あの。夏樹さんも一緒に行かないですか?」


 なんでも彼らはこのまま近くの遊郭ゆうかくに突撃をするらしい。

 女性の前ではあまり言えないけれど、なんでも検査を終えたこの勢いで、別な方も大人になろうというわけだ。いやはや何とも、若者らしいというか。


 まあ、わからないでもないけどね。


「俺はいいよ。……ただ、入営にゅうえいすることになったら、一緒の部隊になる可能性が高いと思うから、よろしく言っといて欲しい」

 そう返事をすると、晋一郎君はすでに予想していたみたいで、

「まあ、なんとなくそう言うだろうとは。奥さんがいますしね……。では!」

と右手を軽く挙げ、小さい声で「行ってきます」と告げて、友だちのところに戻っていった。


 こっちを見る彼の友人たちに、俺は笑顔で手を振る。

 彼の言うとおり、俺には春香がいる。春香以外の女性を抱くつもりはない。なにより、春香は今も俺の帰りを待っているだろう。


 彼らと別れて、一人で小学校の門を出て家路につく。

 空には雲が出てきていた。湿度も高くなってきて、雨の匂いが漂っているように思う。おそらく、今吹いている風がやんだら、途端に降り出すのではないだろうか。


 それにしても、甲種合格か。


 近所の人たちは諸手を挙げて祝ってくれるだろうけれど、きっと春香には色々と我慢させてしまう。自然と俺の気持ちも沈んでいく。

 神たる身なので死ぬことはない。それを断言できるのが幸いだろうか。


「……いつもより甘えさせてやらないとな」


 思わず口からそんなつぶやきが漏れた。

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