第2話 些細な一言

 ミーティングが終わり、部員が一人また一人と部屋を後にする。私は部室に残り、手帳を眺めていた。


 次の時間は空きコマだ。締め切りの近い課題がないため、授業までの間に絵を描いて暇つぶしをしようとスケッチブックを取り出した。


 描きかけのページを見て、思わず笑みがこぼれる。後輩の作品に影響され、物語に合ったイラストを描いていたのだ。

 大学の風景や、ふとした教員の仕草に惹かれ始めるヒロインの繊細な心理描写。我ながら、上手いと思った。短時間に書いたものとは言え、クオリティが高い。


 私が一番心に残っているシーンは、ヒロインが恋をしてもいいのかと悩む場面だった。


 それでも知恩しおんは諦めることができなかった。沈んだ瞳に光が宿る。

 (私に……振り向いてください!)

 脳裏に浮かんだものは、アプリコットフィズの意味だった。好きな人を想う切実な気持ちがにじんでいた。

 行く末に茨が待ち構えていたとしても、この恋は貫いてみせる。相良さがらから差し出された手を、みすみす離すつもりはなかった。


 初めて読んだとき、みずみずしい描写に心を打たれた。いい作品だからこそ、付き合い始めた後の恋の行方を楽しみにしていた。


「もったいないなぁ。笹野さんの文才」


 私ではない声が、後輩の作品を惜しんでいた。

 顔を上げると、部室の隅に座る人物が笑みを浮かべていた。肩にかかる髪と無精髭が、より一層近付きにくくさせる。名前は確か――


「寺本くん。あなたも笹野さんの小説を読んでいたの?」


 寺本徹也。一年のとき、同じチューターに所属していた。別々のコースに分かれたため、寺本とはサークル以外で会うことがなかった。


 寡黙な性格から、授業の発表以外は声を聞くことがなかった。女子部員の比率が高いサークル内で、寺本と話し掛ける人はあまりいない。それでも交友関係は少なくないようで、五・六人のグループでつるんでいる姿を見かけたことはある。


 寺本の声は、少年らしいあどけなさを残していた。澄んだ声で、私に向けて話し掛ける。


「一応、お気に入りに入れていたんだけどね。アカウントを消したくなる気持ちは分かるけど、せめて作品のデータは残してほしかったな。五年後、十年後の自分が完結させるかもしれなかったのに」

「確かに。データを消せば、もう一度書きたくなったときに一から書き直さないといけないものね」


 寺本と考えが一致し、私はしばらく話を続けた。後輩の作品のいいところを。

 やがて構成の問題に差し掛かる。


「だけど、消して正解だったかもしれないな。作品の半分くらい無駄がありすぎる。あれじゃあ、少しの人しか読みたがらないよ」


 私は寺本の言い方に苛立っていた。寺本はサークルに所属するものの、編集と製本作業を少しだけ手伝っていた。物書きのつらさを分からない人が辛辣な批判をしても説得力があるはずがない。


「作品を出したこともない人が、どうして笹野さんのことを否定できるの?」


 私は発言した後で後悔した。感情に任せて怒りをぶつけてしまった。

 寺本はきょとんとしていたが、真面目な顔つきに変わる。


「作品を生み出す苦労が分かっていない、か」


 怒って部室を去ると考えていた私は、寺本の次の言葉を予想していなかった。


「学祭で配る部誌に、僕の小説を載せる。そのとき、笹野さんが未完にしたものより超えていると思ったら、さっきの言葉を訂正してもらえるかい?」

「もちろんよ」


 あの作品を超すことなど起こりえるはずがない。私は自信を持って答えていた。

 寺本は意味深な笑みを浮かべると、どこか楽しそうに部室を後にした。

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