第25話 亡骸、川に流れて

 中野から引き返し、両国橋の袂へ。その行程は僅か7分で済んだ。パトカーでなければとても実現し得ない時間だ。亮二は僅かに動く首で隅田川にかかる両国橋の周辺を見回してみた。通常のパトカーの他に特型警備車、護送車、何故か放水車らしき車までもが出動し、橋周辺を埋め尽くしている。


「こりゃ、警察も本気になったみたいだな。二カ所で事件が起こったおかげだろう。多分SATもお出まししてると思うぜ」


  窓から顔を出しながら、騒音に負けない声で楽しそうに板野が叫ぶ。仲間の姿を認めて心強くなったのだろう。


「人数は関係ないよ。あいつのスピードは人間には捕らえられない。何人か頭を潰されてまた逃げられるだけだ。だから俺たちが捕まえないといけないのさ」


 溢れるほどの赤い光に照らされながら亮二は独り言のように呟いた。


 それにしても遅い。もうレンコからの連絡があってしかるべき時間だ。拓海は逃げたのか、それとも両国橋を渡って新宿へ向かってしまったのだろうか。レンコは、レンコはどうした?黒い不安がゆっくりと頭をもたげ始めた。


 亮二はレンコの赤い気配を探ってみる。いた!すぐそばだ。だがその気配はいつものけばけばしい生命力に彩られてはいない。くたびれた錆色を含んだ、赤茶色のぼんやりとしたイメージに覆われている。間違いない。何かがレンコの身に起こっているのだ。行かなければ。


「板野さん、俺をおぶってくれ。隅田川の川っぺりを北へ走るんだ!頼む!」

「いよいよか。解った」


 大急ぎで防弾チョッキを着こむと、板野はひょいと亮二の細い体を背負った。


 黒く波立つ隅田川の川面とオレンジの街路灯。かつて生田目に背負われて見た光景を板野の背中で見ながら、亮二は必死にレンコの気配を探した。川沿いに設けられた遊歩道の真ん中に赤い影が横たわっている。その影がレンコだと解った瞬間、亮二は「受肉だ!」と叫び自ら影に向って走った。


「レンコ、レンコ!」


 青白く変色した顔に問いかけるが反応がない。見ると左胸にこぶし大の穴が開いている。そのあまりに痛々しい傷口から目を逸らしながら、亮二はレンコの頬に触れた。ぞっとするほど、冷たい。


「こりゃ、心臓が盗られちまってるんじゃないのか?」


 板野がかすれた声を出で呟く。その時、レンコの目がかすかに開いた。


「ごめん。やられちゃった」


 消え入りそうな声だ。今にもその声が途絶えてしまいそうな気がする。


「レンコ!大丈夫か。拓海にやられたのか。絶対助けてやるからな」


 亮二は自分が涙声になるのを抑えることができない。また泣き虫とレンコに言われそうだと、ふと思った。


「逃げ切れなかった。でも、やってやったのよ。やつの右手を切ってやったの。逃げられちゃったけど」


 レンコが視線を泳がせた先には、折れた刀と人間の手が落ちている。


「あれは拓海の手よ。ぶった切ってやった。あの手を持って、あたしを探す要領で拓海を探して。奴の体の一部に触れていれば、きっと強く気配を感じることができるから。あたしはもう、もたない。受肉の力でも治し切れないのが解るの。今なら奴の傷は治ってない。絶対勝てる」


 咳とともに大量の血がレンコの口から噴き出て青白い顔を赤く汚した。亮二は着ていたブルゾンの袖を引きちぎると、レンコの顔をそっと拭いた。かつて自分がレンコにそうしてもらったように。


「でも、ここからはあんただけね。やっぱり…心配だわ」

「人の心配してる場合じゃないだろ。馬鹿な奴だな」

「馬鹿はあんたよ。一人じゃなんにもできないくせに」 


 少し笑ったレンコの青白い顔が次第に土気色に変わると、体から黒い粒子が噴き出し始めた。分配者の使者であるあの老人が消えるときに噴き出していたものと同じだ。受肉者の本能で解る。レンコは死ぬのだ。だが、そんなことあっていいはずがない。


 亮二はこの現実がどうしても受け入れられなかった。レンコがいない日常など無意味なのだ。自分の命と取り換えられるものなら、それでもいい。


「畜生!分配者!なんとかしろ!」


 空に向かって亮二は吠えた。怒号とも泣訴とも聞こえるその叫び声は夜の街を震わし、川面を波立たせる。だが、分配者からの返事はあたりまえのように沈黙しか無かった。


「もういいわ亮二。時間がないの。お願い、あたしを川に流して」

「何故だ。お前をこんな汚い川に流すなんて出来るわけないじゃないか!」

「死んだら、あたしは女じゃなくなる。男の体に戻っちゃう。それを亮二に見られるのは…それこそ死んでも嫌。お願いだから、今、すぐに、川に流して」


 痙攣のように瞼がまたたき、レンコが白目を剥いた。


 そうなのか。どうしても俺の前では女でいたいということなのだろうか。亮二はあくまで女の体に固執するレンコの執念を感じ、その言葉に従う決断を下した。


 そっと、壊れた人形を持ち上げるように体を持ち上げると、川岸まで進む。


「ありがとう...」


 消え入りそうな声がレンコの紫色の唇から漏れた。


「愛しているぞ、レンコ。ずっとだ」


 もう返事はない。亮二の言葉が届いているのかも最早解らない。不自然に明るいLEDの光が、まるで死化粧のようにレンコの顔をオレンジに照らしていた。白目を剥いたままの瞼を閉じてやると、そっと頬ずりする。


 ゆっくりと、黒い川にレンコの体を浮かべた。握っていた手が離れるとレンコは水の中を迷うように漂い、行くべき道を見つけたかのように川の中央へ真っすぐに進み始めた。沈むこともなく、一回転してうつ伏せの姿勢となると、黒い霧を吹きだしながらどこまでもレンコは流れてゆく。男に戻った顔を亮二に見られたくないということなのだろうか?その死に様は最後まで彼女らしかった。


 流れてゆくレンコの亡骸を呆然と眺めながら、亮二は愛とは何であるか解った気がした。


 いままで漠然として、心の中でもやもやとした形をもたなかったものが、今ようやく形を持って亮二の目の前に現れたのだ。失うことを考えられないもの、失ったら自らを破壊しかねないほど危険なもの。だが、それでも求めずにいられない。それが亮二にとっての愛だったのだろう。そしていま、亮二の愛は川を流れ亮二から離れてゆく。


「あのネエチャン。あんたに本気で惚れてたんだな。今日は出直すか?」


 遠慮がちに尋ねる板野に、亮二は振り返った。涙はもうない。


「いや、今すぐ奴を見つける。時間を置いたら奴の手が再生するかもしれない。奴が五体満足になったら俺一人ではまず勝てないだろう。もう板野さんに出来ることはないよ。残りの金は、俺が居た人間ドッグの78番ロッカーに入ってる筈だ。鍵をぶっ壊して勝手に持って行ってくれ。世話になった」


ここまで早口で言って頭を下げると、亮二は「あ、それから」と付け足した。


「どうか、いい父親になってくれ。板野さん」

 

 父親、という言葉に板野は虚を突かれたような顔になった。だが、すぐに厳しい表情を作り直すと亮二の逞しい腕を強く掴んだ。


「そうか、ありがとよ。俺はこれ以上は力にゃなれないが絶対に勝て!これだけやられて負けっての無しだぜ!」


 板野がそう言い終わる前に、亮二は既に板野の視界から消えていた。暗闇をつっ走る亮二の姿は、よどんだ都会の空気を切り裂き、一本の矢と化して白熱した。

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