第23話 ココ・パルファム

 歌舞伎の喧噪とは対照的に、同じ新宿でも都庁周辺は日が暮れれば歩いている人影まばらになる。だだっ広い道路に不必要なほど明るい街頭の光が降り注ぎ、その輝きの間をビル風が吹き抜けてゆく。


 そんな場所にぽつんとパトカーが一台、ゆらゆら揺れながら頼りなげに停まっていた。板野刑事の激しい貧乏ゆすりのせいだ。かれこれ一時間、板野は狭いパトカーの中で同じ動作を繰り返している。緊張によるものだろう。無理もない。これから超人的な力を持つ連続殺人鬼と対峙しようというのだから。


「ちょっとぉ、まだエンジンもかけていないのに車酔いしそうだから止めてよ!刑事のくせに行儀悪いわね」


 たしなめるレンコにちらりと横顔を向けた板野だが、貧乏ゆすりを全く止める気はないようだ。これでもかとばかりに左足を激しく上下させながら、今度は煙草に火をつけぐいぐいと吸い始めた。3口で1本吸い切ってしまうような勢いである。ぶわっと口から濃い煙を吐き出すと、青黒くなった顔をバックシートに座る亮二たちに向けて言った。


「行儀のいい刑事なんざそういるもんじゃないよ。下手すりゃ死んじまうかも知れないんだから、俺の好きにさせてくれ」


 板野は結局、今回の拓海の待ち伏せ作戦に一人でやってきた。警察署の幹部クラスが誰も信じてくれなかったのか、それとも金が欲しかったのかは解らない。恐らく後者であると亮二は踏んでいる。だが、むしろその方が都合がいい。そういう男は残りの一千万円欲しさに勇気を振り絞るだろうから。正義感や職務に対する忠実さだけでは、そうそう人は命を張る気になれないものだ。


「20時を過ぎたな。そろそろ拓海が無差別殺人を始める時間帯だ。警察無線で連絡が入ったら、俺たちは新宿駅から数キロメートル離れた場所で奴を迎え撃つ。奴は俺たちが新宿のど真ん中で待ち伏せていると思っているから、少しは不意をつける形になるだろう。しっかり頼むぞ、レンコ、板野さん」


 亮二が二人の目を見ると、レンコは黙ってうなずいた。板野はなんともしょっぱい顔つきをすると、


「解ったよ。上手くいったら一千万円は頼むぜ。ちょっとションベンしてくるわ」


 とパトカーを出て行った。


 窓の外では板野が街灯に向かって腰を突き出し、盛大に湯気を立てている。度胸があるのかないのか、ちょっとつかみ所のない男だ。その後姿をみてレンコが顔をしかめた。


「あんなの、頼りになるのかしらね」

「運転手の役さえやってくれればそれでいいんだ。期待はしてないよ」

「そうね。運転くらいなら」


 途中で言葉を切ると、レンコはぐいと亮二に顔を近づけた。


「ココ パルファム」


 呪文のような言葉をゆっくりと呟く。何だそれは?と亮二は目で問うた。


「ここぞという時にあたしが付けてた香水の名前よ。初めて東京に出てきた時、芸能プロダクションの面接を受けた時、好きになった人との初デートの時、あたしはこれを使ったの。みーんな失敗したけどね。でもあたしは確信してる。今度はしくじらない。死んでも拓海を殺すわ」

「死なない。俺たちは勝つんだ」


自分でもさほど信じていないことを、亮二はあえて言い切った。


「そうね。私たちは死なない。でもお願い。あたしの顔と匂いを覚えておいて。あたしも亮二のことをずっと覚えてるから」


 レンコはさらに顔を寄せると亮二に頬ずりした。触れ合った肌から少し刺激的でくどいくらい濃厚な香りが立ち昇る。これがココ・パルファムなのだろう。香水という、暴力とは最も遠い存在が発する香り。その香りが何故かこれから始まる戦いに相応しい気がした。


「逃げるっていう選択肢もあるわよ」


 どうする?というようにレンコは耳元で囁いた。


「意味がない」


 言下に亮二は否定した。


「俺たちの受肉の力は多分さして長続きしない。生田目さんが突然分配者から力を取り上げられたのをお前も見たろう。だから、受肉できる今のうちに奴を殺らなかったら、いずれ逆に見つけられて殺られるだけだ。拓海が俺のいたドラッグストアに突っ込んできたのは偶然だと思うか?違うな。あいつは俺の気配を嗅ぎつけやがったんだ。だから逃げたっていずれ絶対見つかる。先に奴を殺る以外に俺たちの生きる道はない」

「でも、うまくすれば拓海から逃げ続けることもできるかもしれない」


 レンコは食い下がった。


「亮二の受肉の力が無くなったってあたしは構わない。ずっと面倒を見てあげる。そうだ、一緒に外国に行きましょ!スペインがいい。スペインは移民を受け入れているんだって。日本でお金をかき集めてマドリードに住むの。アルムデナっていう綺麗な聖堂の側にパブがあるんだけど、あたしはそこのオーナーと友達だからきっと働かせてもらえる。お母さんが心配ならお母さんも一緒に...」

「もういいよ」


 断ち切るように亮二が言った。 


「生田目さんが何故俺にああいうことを頼んだのか、今解った。息子のように思っていた俺に自分の人生を終わらせて欲しいという気持ちも多少はあったろうが、本当は人を殺すという経験を俺にさせるために敢えて自分を殺させたんだ。ためらいなく拓海を殺せるようにな。それほど生田目さんの恨みは深い」


 唇でレンコの頬の感触を確かめながら、亮二は自分に言い聞かせるように続けた。


「俺の背中には生田目さんがいる、目の前で殺されたドラッグストアの人達もいる。そして、何も解らずに拓海に殺された他の犠牲者がいるはずだ。だから、拓海を殺さずにいられない。霊っていうのが本当に存在するなら、俺の体はその恨みできっと重くなっていると思う。身動きできないほどに。だが、体が重ければ重いほど」


 亮二は視線を細くしなびた腕に落とした。


「振り下ろす拳も重くなるんだ。だから俺は勝つ」

 

 運転席横に設置してある四角いデジタル通信機が、二人きりの時間を砕くように唐突にがなり出した。


「警察庁から中野管内及び新宿管内、傷害事案入電。方南町駅構内にて複数の通行人が血を流して倒れているとの通報。通報者は同駅利用者及び駅職員…」


きた!拓海だ。


「いつまでオシッコしてんのよ!出番が来たわよ!」


 レンコが怒鳴ると、街路灯の下でタバコをふかしていた板野がびくんと体を震わせ、パトカーに駆け寄って来た。


「方南町だ!読み通り14号線沿いだぞ。やつは中野を通って新宿に来るはずだ。中野に行ってくれ!板野さん」


 叫んだ亮二の声に重なって、通信機から先ほどとは違うオペレーターの声が飛び出した。


「警察庁から本所管内及び浅草管内、傷害事案入電。錦糸公園周辺及び錦糸町駅構内において頭部を損壊された複数の通行人が倒れているとの通報。通報者は近隣のラーメン店店員。マル被の詳細は不明…」

「錦糸町だってぇ?」


 板野が頓狂な声を出す。


「確かに14号線だが、方南町とはまるっきり方向が逆だぜ。どんな化け物か知らんが、正反対の方向で同時に通り魔ができるもんかね」


 どうなってんだ?という顔つきで板野は亮二を見つめた。


「いや。いくら奴でもそんなことができる訳がない」


 板野の扁平な顔を見詰めながら、亮二の胸はざわざわと波立った。拓海とは無関係の事故が、奴の犯行と同時に起こったのだろうか?いやそれは不自然だろう。偶然にしてはタイミングが合いすぎている。ならば奴の仲間の仕業か?これはありうる話だ。分配者サイドには少なくとも3人の受肉者がいた。それならば簒奪者サイドに仲間がいても何ら不思議ではない。


 この考えに至って、亮二は愕然とした。レンコと二人がかりでも拓海に勝てるかどうかは判らないのに、奴に仲間がいるとなれば復讐は絶望的だ。


 今回は逃げるべきか?復讐の機会はまた訪れることがあるかもしれない。次回は拓海の寝込みを襲うことだってできる可能性もある。だが、肝心の受肉の力はいつまでキープできるのだろうか。


 分配者はいつこの力を亮二たちから取り上げるか知れたものではないだろう。次回というが、次回に亮二たちの受肉の力が保たれている保証はない。つまり今、この瞬間を逃したら二度と復讐は果たせないかもしれないのだ。


 刹那の姿、生田目は受肉した自分たちのことをそう言っていた。そう、刹那だ。今この瞬間に、この姿でやれることをやる。それが俺たちの運命なのだ。次回という言葉は無い。


「レンコ!お前は14号線を通って錦糸町方面に向かえ」


 亮二は決断した。奴に仲間がいたとしても、拓海さえ潰せればいい。あとは知ったことか!


「14号線で拓海を見つけたら奴を挑発して、俺たちのパトカーまでおびき寄せるんだ。お前の足なら拓海は追いつけない。そして二人で奴を叩く。いいか?俺たちと合流するまで絶対に手を出すなよ」

「事件は二か所で起きてる。片方は拓海の仲間かもしれない。あたしの方が拓海じゃなかったときはどうする?」


 レンコはもうひとつの事件を、拓海の仲間の仕業と確信しているようだ。


「何もするな。拓海でなければ放っておけ。そしてすっとんで俺のところへ来い」

「亮二はどうするの?」

「俺は板野さんと中野に向かう。奴を見つけたらおれは受肉して戦うつもりだ。俺が奴を足止めしている間にお前は錦糸町方面から引き返せ。そして二人で奴を殺るんだ」

「解った。亮二、死なないでね」


 赤いマニキュアを施した指で亮二の頭を掴むと、レンコは強引に唇を重ねて舌を差し入れた。ぬるりと口内に潜り込んできた舌の意外な冷たさに亮二が驚いているうち、レンコは刀を背中にくくりつけると風だけを残して14号線を東へ走り去った。


「すげえな。もう見えなくなっちまった」


 呆れたように言いながら、板野がエンジンをかける。サイレンと赤い光をまき散らしながら、亮二たちを乗せたパトカーは滑り出した。

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