第4話 「れいな」
ひたすらに、走る。
車道においても、自分より早い物はもはや存在しない。のろまな鉄の箱に乗った人々は、みな驚愕の表情でパジャマ男の疾走を見送る。赤信号で足を止める必要はなかった。交差点など飛びこせばいいのだ。横断歩道の少し手前で一気に上へ脚を踏み込むと、亮二の体は軽々と空に浮かんだ。
高く、高く、信号機のはるか上を亮二の体は飛んで行く。空に登り切ったと思った時、マンションのベランダでビールを飲むガウンの男と目が会った。男は飛び出しそうなほど目を大きくして空飛ぶ大男を見詰めている。亮二はアスリートのように手足を振り回しながら着地し、そして派手に転んだ。骨折したかと思い手足を確かめるが傷ひとつない。走り始めてから僅か五分強で、亮二の体は20キロ以上を走破していた。
「やめてくれぇ。」
新しい力に夢中になっている亮二の注意を引くほど切迫した悲鳴が、突然左手の公園から挙がった。見るとみすぼらしい老人が地面に尻もちをついている。自転車が倒れ、大量の空き缶が散乱した光景が公園のスポットライトのような明かりに浮き出ていた。
その周りを何やら悪態をつきながら取り囲んでいるのは、少年と言っていい顔つきを持った連中だ。道端で犬の糞を踏み潰してしまった時に浮かべるような表情で、揃って老人を見下ろしていた。これは時々ニュースでやっている浮浪者狩りというやつではないのか。
放っておくか、とはこれっぽっちも思わなかった。経緯はどうあれ、一人の老人を集団で囲むというのは正しくはないだろう。圧倒的な優位を保った少年たちは恐らくその優越感をエスカレートさせ、老人に暴力を振るう事になる。若しくはもう暴力は始まっているかもしれない。それは紛れも無く老人にとってみると理不尽な暴力であり、かつて自分に向けられた暴力と同じ種類のものだ。
自分に受肉した分配者が一体何を求めているのかは知る由もなく、何がその禁忌に触れるかもまた知る由もないが、ここで老人を見捨てることは自分自身を否定するのと同じではないだろうかと思う。「だから助けるぞ、分配者」と、亮二は空に向かって呟いた。
「おい、何やってる」
闇から現れたパジャマ姿の大男の声に、少年たちが一斉に振り向いた。なんとも言えないばつの悪い空気がその場に流れる。少しの間を置いて、茶髪の前髪を盛大に顔へ垂らした少年がその流れを断ち切るように凄んでみせた。
「なんだコラ。お前に関係ねぇだろ。パジャマなんか着やがって、頭がおかしんじゃねーの」
言いながらぺっと吐いた唾は、亮二の胸元に白い泡の塊を作った。
恐ろしく頭の悪そうな顔つきだ。あの加藤拓海も高校生ぐらいの頃はこんな顔をしていたのではないか。そう考えると亮二の胸に不快感と怒りが湧き上がる。
「そっちにゃ関係なくても、俺には大ありなんだよ」
吐き捨てるように応えると、少年達の前に覆いかぶさるように立った。その威圧感に少年たちは気圧されたのか、揃って数歩後ずさった。無理もない。今の亮二は身長190センチを超える筋骨隆々たる偉丈夫なのだ。
少年達を無視して老人の前にしゃがむと、亮二はその顔を覗き込んでみた。老人の右目は青黒く腫れ上がり、鼻は無残に腫れ、手ひどく殴られた跡を残している。やはりそうだったのか。
「誰にやられた?」
老人が黙って挙げた指の先に立って居たのは、あの茶髪の少年だった。
尖った視線を少年に投げ掛けると、こぶし大の石が少年の手から転がり落ちた。あの石で殴ったということなのか。
「何故殴ったのか、理由を言え」
低く、怒りを含んだ声色で亮二は詰問する。
「なんでって、臭いだろうがそのジジイは。それに目の前でゴミ漁りやがって目障りだしよ。公園は公共の場だろ。皆が使う場所を汚い格好でウロウロしやがって…出て行けって言ったのに人の言うことをガン無視しやがった。浮浪者のくせによ。だから解らせてやっただけだね。俺たちは公園の“掃除”をしたんだ。いいことをしてるんだよ。何が悪い」
そうだよな、という目で茶髪の少年は仲間を見回した。だが周りの少年たちは共犯者の視線を避けるように地面を見つめている。
「それが理由ってことか。つまりこのオッサンはお前たちに何もしてない訳だ」
亮二は少年たちをぐるりと見回すと、大音声で怒鳴りつけた。
「お前らはこのオッサンが迷惑だったんじゃない。ただ自分より弱いものを叩いて楽しむのに理由付けが欲しかっただけだ。お前らにとってこれは遊びに過ぎないだろうが、意味も解らず遊びで殴られる相手の気持ちを考えた事があるのか。しかもお前らは1人の相手を4人で、石を使って襲った。人を殴るのに自分の拳も使えないようなクズだ。クズがクズ同士集まって、クズみたいなやり方で人を傷つけた。おまえらはクズって言葉も勿体ない。それ以下の地面のクソなんだよ!」
亮二の怒声に押されるように、少年たちが数歩下がった。今にも後ろを向いて逃げ出しそうな格好だ。その中で唯一人あの茶髪だけが亮二を血走った目で見据えながら踏みとどまっていた。一応このグループのリーダー格なのだろう。黙っているとメンツが潰れると思ったのか、先ほどの石を拾い直すと「けええぇ」と素っ頓狂な声を挙げて唐突に亮二に襲いかかった。
何ほどのこともない。亮二の目にはこの少年の動きが亀のように遅く見える。亮二は石を振り上げた少年の手首をはっしと掴むと、そのまま力を込めた。ポキポキと軽い、まるでクッキーを割る時のような気安い軽さで手首の骨が折れる振動が伝わった。
亮二の胸に恐ろしいまでの勝利の快感が走る。痛みで絶叫するのも構わず、折れた手首をさらにねじり上げて膝を着かせると、肩が外れたのか今度は太い音が鳴った。亮二は再び絶叫する少年の前髪を掴んで、涙と鼻水でくしゃくしゃになった顔を自分の方に向けさせた。
「痛いだろ」
少年が必死の様子で頷く。圧倒的な優越感に亮二の胸は再び快感に満たされた。
「俺は警察でも学校の先生でもないんだ。お前のやってることと一緒で、気に入らなければすぐボコるだけさ。やられる痛みってのが、少しは理解できたか?今度同じ事をしやがったら、必ず現れて反対側の腕と両足もへし折ってやる。必ずだ。どうだ?解ったか?」
コクコクと必死で頷く少年の腕を放すと、亮二は鷲掴みにした前髪を支えに少年を持ち上げて無造作に放り投げた。きれいな放物線を描いてその体は空を飛び、少し緑色がかった水柱を揚げて公園の池に落ちる。見ると、手のひらに少年の前髪が大量に残っている。ふうと吹いて闇にその不潔な毛を散らした。
亮二の強さに恐れを成したのだろう、他の少年たちは既に姿を消している。助けたはずの老人までが姿を消しているのに気がついて亮二は思わず苦い笑いを漏らした。こんなものだろう。さて、散歩の続きをするか。
高揚感に酔いしれながら青梅街道を駆けつつ、公園での出来事を思う。あの少年は体格こそ立派ではなかったが、それにしても脆弱すぎた。逆に考えれば亮二が強くなったと考えられる。でなければ人間を何メートルも放り投げることなどできはしないだろう。馬鹿力と捷さというふたつの超能力。実に単純ではあるが人間がはるか昔からひたすらに渇望してきたものを、亮二は分配者から賜ったようだ。
あの少年は死んでなどいないだろうか?多少気を使って地面でなく池に投げ込んだのだから、もう二、三箇所骨折した程度で済んでいるだろう。
亮二はまた思う。改めて考えてみれば、先ほどの自分の行動は矛盾していると。亮二は少年が理不尽な暴力を振るうことに怒って彼を叩きのめした。だが、圧倒的な強者が弱者に対して暴力を振るったという点においては、亮二が少年に行なったこともまた同じなのだ。しかも亮二は明らかにあの暴力を楽しんでいた。今も全く後悔の念など湧いてくる気配もない。これはどういうことだろう。
この肉体が亮二の心のありようを変えているのか、それとも元々残酷な獣が心に潜んでいたということなのか?まぁ、いいか。楽しかったのだから。亮二がにやりと笑ったその時、不意にあの浮浪者のような男の言葉が頭に浮かんできた。
「受肉は一日に一度きりだ。降りてきた肉体は限られた時間しかお前の体には留まれん」
そういえば奴の言っていた“限られた時間”とは、いったいどの程度なのだろうか。もし今時間切れになったら俺はどうなるんだ?半紙に墨を落としたように、胸に黒い不安が広がり始めた。
見上げれば青い路上標識は「吉祥寺」の文字を刻んでいる。思ったよりも遠くに来てしまったようだ。じわじわとスピードを緩めると、今来た道を取って返す。そろそろ病院にもどったほうがいいかもしれない。燃料切れへの恐怖からさっきまでの高揚感はもうどこかに吹っ飛び、冷たい汗が滲んできた。
帰り道で病院が視界に入って来た頃、亮二は急速に体から何かが抜けていくような感覚に襲われた。体中の毛穴から、火のように体を熱くしていたマグマが漏れ出しているのを感じる。体を覆っていたあの鎧のような筋肉は次第に張りを失い、パンクしたタイヤのようにしぼみつつあった。恐れていた時間がやってきたのだ。もう車道を走るのは危険だと判断した亮二はガードレールに手をかけ、もんどりを打って歩道に転げ込んだ。
分配者からの贈り物はどうやら暗い空に向かって昇っていったようだ。アスファルトの上に寝ころんだ状態のまま、しぼんだ哀れな体は動くことを止めてしまった。
都会の空には、ほんの僅かな星が窒息しそうな様子でまたたいているのが見える。あのどこかに分配者とやらは隠れているのだろうか?虚脱状態のままそんなことをぼんやり考えていると、足音が後頭部から響いてきた。
ヒールとおぼしきコツコツとした軽いその音は、亮二に近づくと僅かの間止まり、反対側に向かって遠ざかってゆく。当然だろう。今時、行き倒れに関わるなんて馬鹿もいいところだ。頼りない星の光を見つめながらそう嘆いた時、遠ざかっていたはずの足音はまたぴたりと音を止めた。躊躇するような僅かな沈黙の後、足音は亮二に向かってずんずん近づいてくる。そして亮二のすぐ側で止まった。
色白の、派手で大きな瞳を持つ若い女が不安そうに亮二を見下ろしている。なんと声をかけていいのか解らないのだろう。女はじっと黙って亮二の傍らに立っていた。薄茶色の少し傷んだ髪を垂らしたその女からは、何故かうがい薬の強い匂いが漂っていた。この状況をどう説明しようか…亮二が考えを巡らしながら女を見つめていると、沈黙に耐えかねたのか女が先に口を開いた。
「にらめっこしたい訳じゃないわよね?」
女にしては少しざらついている声だが、素直に耳に入ってくる快よさがある。さらに女が続けた。
「酔っぱらってるの?この寒さで道路に寝てると風邪ひいちゃうわよ」
口調はきついが、どうやら、こちらの身を心配してくれているようだ。
仁王立ちしている女に向かって、亮二は言葉を選びながら丁寧に懇願した。
「あ、あのう、お手数かけて申し訳ありませんが、救急車を呼んで頂けませんか?ご迷惑かけて、本当にすみません」
「礼儀正しいね。酔っ払いのくせに」
細く形の良い鼻を少し動かして女は笑うと、革製の赤いケースに入ったスマホを取り出した。
「飲みすぎたように見えないけど、なんでこんなとこに寝てるの?しかもパジャマ一枚じゃない。一応救急車呼ぶからね」
助けが来るまで付き合ってくれるつもりなのか、スマホに耳を充てながら女はゆっくりと亮二の傍らにしゃがんだ。
「病院を抜け出して、散歩してたんです。でも俺、少し動くと体がマヒしちゃう変わった病気で。マヒする前に病院へ帰り着けなくてこうなっちゃって」
そんな病気があるものか、と自分で思いながらも亮二はミエミエの嘘をついた。女は一瞬納得いかなさげに首を傾けたが、
「へぇー、そんな変わった病気あるんだ。大変だね。」
と言いながらスマホの向こうの消防署員と話し始めている。幸いなことに、あまり細かい事は気にしないタイプのようだ。
看護師以外の女性と話すのは、本当に久しぶりだ。電話している女を見ながら。亮二はそんなことを考えていた。病院の看護師たちは亮二の興味を引くような可愛い子もいるにはいたが、この女は看護師たちとは全く異質の匂いを放っている。
茶色いダッフルコートの間から覗く赤いタイトスカートと、むき出しの白い太もも。ワイン色のじゅうたんのような生地で出来た、かかとの高いパンプス。夜の匂いというか、水商売の匂いというか、ともかく亮二のこれまでの人生で接触することのなかった人種の匂いがした。
女がしゃがんだお陰で、亮二の目の前にはスカートの先から突き出た膝がしらが並んでいる。むき出しのつるつるとしたふたつの膝がしらは白いビリヤードーボールのようになめらかだ。この魅力的なボールは亮二の胸をひどくかき乱した。助けてくれた人に対して失礼だという気持ちがあるにはあるのだが、それ以上に男としての本能が膝がしらを見つめる行為を止めさせてくれない。ずっとこの膝がしらを、そして出来ることなら膝がしらの更に奥の部分を見てみたいと正直に思った。
「寒くない?冷えちゃうかな」
電話を切ると女は、この失礼な視線にも気づかずに亮二へ声を掛けた。大丈夫です、という返事が終わらないうちに、女は自分が着ていた茶色いダッフルコートをふわりと亮二の細い体に乗せると「こんな薄着じゃ風邪ひいちゃうよ」と言いながら笑顔で亮二に笑いかけた。
よく種類の解らない香水と、うがい薬を混ぜた複雑な香り。コートとともにこのふたつの香りが体を包んだ瞬間、亮二は女に抱きしめられたような錯覚を起こし、経験したことのない快感に震えた。と同時に、以外な程の親切心を見せたこの女の足に欲情したことを、少し恥じた。
「あ、ありがとう。俺は正木亮二と言います。コート汚れてしまうし寒いから、着てください」
「大丈夫よ。こっちは健康体だもん。ああ、それからあたしは”れいな”ね」
亮二の言葉など意に介さない様子で女が自己紹介を済ませた時、救急車のけたたましいサイレンと赤い光が二人を照らした。この早すぎる邪魔者の登場に亮二は心の中で舌打ちした。もう少しだけこの女と一緒に居たい。この先女と自分がどうなるというものでもないだろうが、それでも女の優しさに束の間触れていたかった。
「どうしました?頭は打っていませんか?出血は?今日が何年何月何日か言えますか?」
どやどやと車から飛び出した無粋な救急隊員は、矢継ぎ早の質問のあと亮二を軽々と、まるで宅配便の荷物のように担架へ乗せた。質問に答えている間に担架は車内に運び込まれ、バタンという音とともに冷たい冷気がバックドアによって遮断される。外ではれいなが隊員となにやら話しているのが見えるが、ドアとサイレンに阻まれて二人の会話は全く聞こえない。隊員は三分ほどでれいなとの会話を切り上げると助手席に飛び乗り、出発を合図した。れいながこちらを見ながら手のひらをひらひらと軽く振っているのが見える。別れの挨拶のつもりだろう。
「待って!待ってください!」
先ほどまで道に倒れていた人間が発したとは思えない程の大声に、サイドブレーキを下しかけた隊員の動きが止まる。亮二は目を丸くする隊員の方へ首だけを捻じ曲げると、懸命に訴えた。
「さっきの女の人は、俺を助けてくれたんです。お礼しないといけないのに連絡先を聞いてない。せめて連絡先を教えてもらってください!」
「心配ないって」
れいなと話をしていた年配の隊員がにやりと笑って振り、あのダッフルコートを亮二の上にそっと掛けた。
「薄着だからコートは貸してあげるってさ。お店に返しに来てねって言ってたよ。あんな色っぽいネーチャンに助けてもらって得したな」
にやけた顔の隊員はそう言いながら、女にもらったであろうピンクの名刺をダッフルコートのポケットにねじこんで、再び出発を指示した。
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