第5話 復讐へ!
「本当に歩けたの?本当に?」
母が涙を拭きながらまた同じ質問を繰り返す。ティッシュを箱から引き抜くとちんと鼻をかみ、「良かった。ほんとうに良かった」と言ってまた涙を流している。この様子だとテッシュ箱はあと十分も保たないだろう。
あのことが起きた後、病院は大騒ぎとなった。どうして動けたのか、どうやって病室を出たのか、医者はそれこそ犯罪者を追いつめるような勢いで亮二に質問した。
「急に動けるようになったんです。それで散歩してみたくなって、少し外に出てみました」
「動けるようになった…散歩に…」
広瀬医者は信じられないといった様子で天井を見上げ、目をしきりに動かした。大きな鼻に不釣り合いな小振りの鼻の穴が丸見えになっている。やがてはっと気が付いたように向き直ると
「出た?君一人で病院を出られたのか!」
今初めて病院外に出たことを知ったように問い返した。
「出られました。でも外に出て少し歩いたらまた動けなくなってしまって、後はご存じの通りです」
苦しい言い訳なのは解っている。だが本当の事を言っても仕方ない。精神科にかかる手間が増えるだけである。
医者は納得いかなげに眉を寄せた。
「もし何かのきっかけで一時的に麻痺が治ったとしても、君の脚部の筋肉は歩行に耐えられないほどやせ細っている。つまり医学的に歩行は困難ということだ。誰かに連れ出されたってことはないのかね?」
道理だ。亮二の足は針金のようにやせ細り、とても歩行に耐えられそうに見えない。医師は明らかに第三者の関与を疑っている。
まずい、と亮二は思った。このままであの場に居たれいなが疑われかねない。
「本当に歩けたんです。先生の治療のおかげで奇跡が起こったと思っていたのに、認めてもらえないんですか!」
語気を強めた亮二の言葉に押されて、医者は近づけていた顔を少し離した。
亮二は”名医を信じるけなげな患者”を精一杯演じたつもりである。医者も気まずい思いを感じたのだろう。
「では、検査をしましょう。この前のベッド転落といい、君の体に何かが起こっているのは間違いないようだから」
と、詰問口調を改め、会話を切り上げた。
以来、CTやらMRIやら骨髄検査やらが続いている。
母はとにかく泣き通しだ。諦めていた息子の体に突如現れた回復の兆候がよほど嬉しかったのだろう。無理をして二日仕事を休み、朝から晩まで亮二の側に付き添っていた。
「お礼をしないとね。でもどこの方だったのかしら。連絡先が解らないのよ。あなた知らないの?」
れいなの事である。今日二箱目のティッシュ箱を開封しながら、母がこちらを見る。
「ゴメン。知らないんだ」
亮二は嘘を付いた。
母が壁にかけてあるれいなのコートを見つめる。そのポケットにはれいなが働いているであろう店の名刺が入っているのだが、母はそのことに気付いていない。その方が都合が良かった。れいなの存在を隠しておきたかったから。
理由はシンプルだ。気まずいからである。あの時間、あんな濃い化粧をして一人で歩いている女が普通の仕事をしている筈がない。
スナックやキャバクラやらの店で働く女は、源氏名というニックネームの印刷された名刺を作っているという。実際にそういった店に行った経験は無かったが、そのぐらいの知識を亮二は持っていた。れいなが残していった小さな名刺は、そういった類に違いない。
名刺を見つければ、恐らく母はれいなの所へ御礼の挨拶へ出向くだろう。水商売の、しかも好きな女を母と会わせるのはできれば避けたい。
そう、亮二は恋に落ちていたのだ。この2日間、考えていたことといえばほとんどれいなの事ばかりだ。分配者の超自然的な力で動けたこと、それは驚天動地の事実ではある。だが今の亮二にはそれと同じレベルでれいなのことが重要だった。
茶色い髪の奥に隠された切れ長の大きな瞳。形のいい小さくまとまった鼻。赤く柔らかそうな唇と、あの光沢のある膝頭。わずか10分程度一緒に居ただけなのに、その姿は目の奥にまで強烈に焼き付いている。そして何よりも、見も知らぬ男にコートを貸し与える彼女の優しさが嬉しかった。思い出すだに、彼女のひとつひとつが愛しい。
会いに行かなければ。強くそう感じた。
「受肉だ。分配者」
母が帰った日の夜、亮二はその言葉でいともあっさりと3度目の受肉を果たした。奇跡を起こす力を持っているくせに、この分配者というのはどうにも鈍い奴らしい。頭で念じただけでは受肉してくれないようなのだ。
前回、受肉の効果が切れたのは約30分程度と記憶している。今回も30分で効果が切れるなら、24時間サイクルで30分ほど動けるようになるのが分配者の与えてくれた力なのだろう。あまりにも短い奇跡の時間ではあるが、それでも無いよりはるかにマシだった。
変容した逞しい手でそっとコートのポケットに手を差し入れ、小さな名刺を取り出そうとして床に落とす。本来のものより遥かに太くなった指で細かい作業をするのは中々難しい。四苦八苦しながら床にぺたりと張り付く名刺を摘んだ。
「新宿歌舞伎町 CLUB艶 玲奈」
ピンク地の紙の上には、金色の流れるような文字が踊っている。「玲奈」の文字をそっと無骨な指でなぞってみた。あの夜に見た、ふわっとした笑顔を浮かべる玲奈の顔が浮かんだ。裏を返すと「ショートタイム一万円。ロングタイム一万二千円」とそっけない文字が印刷されている。ショート?ロング?意味が良くわからない。キャバクラというのはそういう時間制なのか?
亮二はベッドサイドの物入れを探った。母はいつもこの引き出しの三段目にカエルを模した緑色のがま口を入れているのだ。「お金が帰ってくるって意味があるのよ」母はいつも、がま口を取り出す時に少し笑いながらこの台詞を言う。
パカン、と乾いた音を立ててがま口が空くと、そこには数枚の紙幣が覗いていた。千円札4枚と小銭が少し。人によっては、はした金と言い捨てる程度の本当に僅かな金額ではあるが、これは母が必死の思いで絞り出した貴重な金だ。このはした金を稼ぐのに母がどのぐらい人に頭を下げているのか知っているだけに、玲奈の店で使うことはとても出来そうにない気がする。それに、どっちにしても足りない。
「お店に返しに来てね」
玲奈はコートについて救急隊員にこう言付けたという。これはお礼に店に来てくれという意味だろう。住所も電話番号も、恐らく本名も知らない亮二にとってこの店は玲奈と自分をつなぐ唯一の細い糸だった。しかし店に行くには最低一万円必要になる。足りない。だが母にはとても金の無心などできない。
店の裏で待つか?しかし受肉は30分程度だ。待つなどもっての他の選択だろう。
たった一万円なのだ。高校生だって数日で稼げる筈の小遣い。それが亮二には用意できなかった。
強靭な肉体を使って金を盗むか?それも頭に浮かばかなかったわけではない。だが亮二の持っている矜持のような、誇りのようなものがそれを許さなかった。盗みなどに手を染めたら、賠償金も払わず逃げている加藤拓海のような卑怯者となんら変わらないではないか。こんな状況になっていながら、妥協できない自分の性格が嫌になる。
「待てよ」
思わず声が出た。金ならばあるではないか。俺には大きな未回収の貸しがあったのだ。玲奈への想いとは正反対の色彩を持った炎が胸にちらりと燃え上がり、やがてその炎はじわじわと亮二の全身を黒く焦がし始めた。
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