第3話 夜を疾走る
「どういう拍子でこうなったんですかねぇ?」
広瀬医師が納得いかないといった様子で亮二を見つめている。あの不思議な男が訪れたと思われる日の朝、亮二はベッドから転落し意識を失った姿で看護師に発見された。
ベッドには、低いとはいえ両端に転倒防止用の柵が設けられている。少し体を動かしただけでは、まず落ちることはない。それでなくても全身麻痺の身なのである。寝ぼけてベッドから落ちる、などという可能性はほとんど考えられなかった。
だが、亮二自身は落ちた理由がなんとなく解っている。あの晩、恐らく俺は受肉したのだ。そして自分の力でベッドから這い出したに違いない、と。
「覚えてないんです。気がついたら床に寝ていたとしか言えません」
まさか、浮浪者のような男から神の啓示を受けた、などという訳にはいかない。亮二は昨夜のことを医師に隠した。
「まあ頭を打った恐れもありますからね。後でCT検査でもしておきましょう」
でもほんとになんで落ちたんだろうなぁ、などとつぶやきながら、医師は納得いかなさげに病室を去って行った。
覚えていない、と医師に言ったのはまるっきりの嘘ではない。昨夜あの男が訪れ啓示のような声が頭に響いたその後のことを、亮二は全く覚えていなかった。ただ、ひとつの確信はある。あれは夢ではなかったという確信だ。夢ならば全身麻痺の自分がベッドから落ちるなどという珍事が起こるはずがない。
亮二は男の言葉を反すうしてみた。”受肉は一日一度きり”とはどういうことか?一日に一回、動けるようになるという意味か?だとしたらその一日とはどういう単位なのだ?24時間なのか?
また、男は与えられた肉体が強いと言った。どう強いのだろう。あの啓示のように、(鋼を裂き、疾風の如く体を運ぶ)ことができるのだろうか。まるで映画で見た異能力者のようだ。なんだかバカバカしい。
もやもやとした気分のまま夜を待った。昨夜、男が現れたのは深夜零時前後だった気がする。24時間が分配者さまとやらの指定する1日の単位ならば、1日1回のルールによって零時には受肉できる計算になるはずだ。ベッドサイドテーブルのデジタル時計が零時を示した時、亮二は念じた。
(分配者様、分配者様、体が動くようにしてください……受肉してください)。
......................................................
何も起こらない。あの男も現れない。やり方がまずかったのか?
繰り返しくりかえし、亮二は念じ続けた。知る限りの神の名前、聖人の名前を挙げて祈ってみる。だが、その祈りは空しく、沈黙という闇の中へ吸い込まれてゆく。
やはり、あれは夢だったのか?夢だとしても、あんな希望を持たせるような残酷な夢を見るなんて…いや、無理やり見せられたのかもしれないではないか。ならばあれは、神ではなくて悪魔なのか。
深い落胆の後、何か正体の解らないものに向かって亮二の怒りがむくむくと膨らみ、そして爆発した。
「受肉させるって言っただろうが!この嘘つき野郎が!」
叫びが病室にこだました瞬間、その時が来た。
痛痒感。ものすごい勢いであの痛痒感が全身を這いまわりはじめた。拷問に近いそれに耐えるうち、亮二の心臓がじわりと熱を帯びる。熱はやがて炎と化し、頭、手、足と体の先端部に向かって心臓からの導火線を伸ばした。全身に廻った炎はその熱で痛痒感を焼き尽くす。そして苦痛に耐えるうめき声が病室に響き渡ると、水を掛けられたように体内の炎は突然消え去った。
あまりの衝撃に愕然としながら、額の汗をぬぐう。全く無意識に行なった行動だったが、初めてその時亮二は自分の腕が動いていることに気がついた。信じられない思いで、汗に濡れた右の腕を見つめる。
二年間の寝たきり生活で柳のように細くなった腕は、もうない。太く、隆々と硬そうな筋肉を盛り上げたそれが眼前にあった。そっと、壊れ物を扱うようなつもりで腕を伸ばしてみる。その腕は忠実に脳からの指令を受け、天井に向かってまっすぐに伸びる。
体を持ち上げてみた。腹直筋、広背筋は背骨から腰へスムーズに力を伝え、亮二の上半身を持ち上げてくれた。座位の姿勢でゆっくりと病室を見回す。腰を廻し、両足をベッドからリノリウムの床に降ろす。その両足は、以前記憶していたものよりはるかに長く、そして太い。
ひたり、と床の冷たさが足の裏を通して脳髄に染み渡った。これが冷たいということなのだ。長く別れていた「感覚」という友との再開に、亮二は立ち尽くしたまま声を上げてしばらく泣いた。
涙の発作が収まると、亮二はゆっくりと歩きはじめた。入院してから見上げていたばかりの光景が、立つことによっていま眼下に置かれている。体が、驚くほど軽い。いくらでも歩いていられそうだ。狭い病室に閉じ込められていることに我慢がならなくなった亮二は、そっと病室を出た。
深夜の病院の廊下はしんと静まり返っている。非常口を指し示す常夜灯が、無機質な廊下を緑色に照らしていた。その緑に従って、亮二はぎくしゃくとした足取りでゆっくり階段を降りた。
ぺたり、ぺたりと足に張り付く冷たい床の感触が鳥肌の立つほど心地良い。その感触を味わいながら救急外来を目指した。深夜も開放されているその出入り口からならば外に出られるからだ。何としても、今夜のうちに自分の足で外の世界を歩いてみたかった。
這いつくばりながら警備室をやり過ごすと、スリッパを拝借してどうにか病院を抜け出すことに成功した。パジャマ姿のままではあるが、そんなことを気にしては居られない。今はこの奇跡を自分の体で確かめることが重要なのだ。一歩一歩、愛おしむように地面の感触を楽しみながら外堀通りを渡った。
お茶の水駅に寄り添うようにかかる聖橋で立ち止まると、暗く深い緑に沈む神田川を眺める。額と頬を撫でる冬の風を大きく吸い込んだ。冷たい空気が肺一杯に充満する。何という快感だろう。今俺は自分の足で歩き、息をしている。嬉しさに、また涙が滲んできた。
明治大学を抜け靖国通りまで歩いた頃、亮二はただ歩くことに飽きて来た。駈けてみるか、そう思ったのは靖国神社の提灯の灯りが右手に現れた時である。スリッパを脱ぐと、裸足になった。
終電を逃したのだろうか?四十がらみのくたびれたサラリーマンが、横目でうさんくさそうに亮二を見てゆく。無理もない。パジャマ姿の怪しげな男が靖国通りの歩道で裸足になっているのだ。目に入らないほうがおかしい。だがそんなことはおかまいなく、亮二は裸足の足に力を込めた。
ぐいっと右足を踏み出し、その右足を軸にして左足を踏み出す。右、左、右、左。その単調な動きを頭で意識せずに繰り返せるようになった頃、亮二はあり得ない早さで駆けている自分を発見した。
激しい風が顔にぶつかり、風を切る音が耳を鳴らす。一歩踏み出すごとに足の指がアスファルトの地面を抉っているのが解る。景色は矢のように眼前を過ぎ去り、すっ飛びながら頭の後ろへ消えてゆく。歩く人々はまるで案山子のように動かない。人並に動けるどころか、予想をはるかに越えたスピードである。
自分の脚力にあっけにとられながら、亮二は慌てて車道に飛び出した。狭い歩道では通行人と衝突しそうだ。一体全体、自分は何キロで駆けているのだろう。確かめるために、派手なスポーツカーに併走し、スピードメーターを覗き込んだ。
光岡の車だろうか。龍の鼻面のようなフォルムをまとった赤い車体をオールバックの男が運転している。男は車と同じスピードで走る人影を認めるとあんぐりと口を開け、咥えていたタバコを落とした。亮二はにやりと男に笑いかけると男に手を振り、さらに脚に力を込めてスポーツカーを追い抜く。盗み見た赤い車のメーターは100キロを指し示していた。
「アッハハハハ」
すさまじい風の音の中で、誰かが笑っている。
やがて亮二は、その素っ頓狂な声の主が自分であることに気付いた。抑えようと思っても、腹の底から笑いの洪水が発作のように湧き出してくる。俺は狂うかもな。人間は嬉しすぎて狂うということもあるのかもしれない。もう一つの冷めた頭の部分で、ふとそんなことを思った。
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