第2話  垢まみれの訪問者

病院の消灯時間は早い。


 21時ともなれば、柔らかな音楽とともに病室は闇に包まれる。亮二は目をつむり、習慣となっている妄想を始めることにした。何しろ一日中寝ている身の上なのだ。夜が来たからといって都合よく眠気がやって来るはずがない。現実との境目が眠りによって融けあうまで、妄想は毎晩続けられていた。


 頭の中の亮二は健康体だ。都内の大学で英文学を学び、沢山の友人に囲まれている。写真愛好部に所属し、毎月一回、地方の名所旧跡へ部の仲間と撮影旅行に出かけている。


 恋人は、あの浅田万由美だ。彼女は同じ部の部員だが、付き合っていることは他の部員に秘密にしてある。彼女は部の中心的存在で、皆に愛されているのだ。付き合っていることがバレたら、男子部員全員の嫉妬の的とされかねない。


「少し歩こっか?」


 草津白根山へ部の合宿で出かけた亮二は、飲み会を抜けだして万由美を夜の散歩に誘う。「うん」と軽くうなずいた麻由美は、他の部員に気付かれないように忍び足でそっと亮二に付いてくる。妄想なのだ。断られる心配などない。


 宿の外へ無事脱出すると、二人は手を繋いで暗い山道を歩き出す。ひんやりとした澄んだ山の空気の中で、万由美の手だけが妙に温かく感じられる。


 「万由美……」

「なに?亮ちゃん?」


 持ち上げられた紅い唇。その唇に亮二はそっと唇を重ねようとした。


 だが、妄想はここで残酷に途切れてしまう。万由美とのデートに及ぶと、柔らかな甘い映像は無機質な白い病室に必ず引き戻される。いつも、いつもだ。

 暗闇の中で目を大きく開くと、あの亀裂が走る天井に向かって大声で怒りを爆発させた。


「畜生!なんでだ。どうしてなんだよ!」


 深夜の病室に響き渡った声は、かすかな反響を残して壁に吸い込まれてゆく。後にはキーンという軽い耳鳴りの音が、部屋の暗がりにうずくまっているだけだった。


 妄想できないのは、考えてみれば当たり前の話だ。奥手だった亮二は、不幸にもキスの経験さえなかったのである。経験のないものを、具体的に想像できるはずもない。


 人生で一番楽しい時期であるはずの十代の終わり。本来ならば恋愛とか友情とか、そんな大事そうなものを学ぶはずであった十代の終わりは、理不尽な暴力によりがらんどうだ。


 万由美にはあれ以来、全く会っていない。もとより薄い縁だ。付き合ってもいない男のこの姿を彼女に見せても、何にもならないだろう。


 友たちは去った。ただ一年中陰鬱に寝ているだけの男と語らったところで、面白味などあるはずがない。共に思い出を作ることが友情というなら、ベッドに縛り付けられた人間などに友情を育むことなどできはしない。そのことが解っていても。取り残されることが無性に悲しい。


 つんと鼻の奥が痛くなった。少しせき込む。どうやら俺は泣いているようだ。涙をふくことさえできやしないが。


 感傷とともに万由美や大学の友人たちに思いを巡らしている最中、不意にあの加藤拓海の顔が浮かんで来た。


 奴はいま何をしているのか?


 賠償金も払わず姿を消した男なのだ。だらしない生活を送っていることは想像がつく。恐らく。親からこっそり送ってもらっている金で遊び暮らしているのだろう。居酒屋の安メニューを喰い、酒を飲み、そして安い女とセックスする。そんな自堕落な生活を送っているに違いない。


 それでも、亮二から見れば夢のような暮らしだ。自分から総てを奪った男が亮二の経験できない快楽を享受する。そんな不公平が許されるのだろうか。なんという不公平なのか。なぜ神はこんな不公平を許すのか。


「不公平かね?」


 耐え難い臭気とともに、その声は唐突に耳元へ流れ混んだ。

 不意を突かれた亮二は、気配もなく響いた声の方を振り向こうとした。が、形容しがたい不安感がその動きを押し留める。


  (おかしい)


 亮二は声を出さずに呟いた。実際、明らかにおかしいのだ。

 体の自由を奪われて以来、彼の聴覚は健常者より遥かに鋭くなっている。部屋に誰かが入って来たなら、ドアの音で解るはずだ。


 また、この病室は集中治療室と呼ばれる個室だから、他の患者は居ない。だからこの男が新しい入院患者である可能性はない。


 ならばこの声の主はどこから来たのか。夏場の浮浪者のような臭気を放っていることから見ても、まともな人間であるはずがないだろう。


 彼は弱かった。自分で食事で摂ることも、排泄することさえもできないほどか弱いのだ。声の主が害意を持っていたのなら、抵抗する術などない。だからこその恐怖心を持って、声の方へそろそろと首を捻じ曲げた。


 視線の先に“汚物”が佇んでいる。その男の顔はまさに”汚物”と呼ぶしかない程不潔だった。


 年齢は70歳過ぎ位だろうか。ベッドの脇にしゃがんだ姿勢のまま、くぼんだ眼窩の底からこちらをじっと見つめている。その白目は卵の黄身の様な色合いで浅黄色に濁り、黒目は白い膜に両眼とも覆われていた。


  何重にも深く皺が刻まれた目尻には、その溝に沿うように目ヤニと垢が溜まっている。頬から顎にかけてのひび割れてたるんだ皮膚は、乾燥してしなびた茄子のようだ。白髪混じりの髪と髭は垢と油で固まって針のように尖り、顔全体を覆っていた。

 (なんて汚い奴だ)


 あまりの男の汚さに、亮二は恐怖を感じる前に呆れてしまった。

 男は、そのいでたちも汚い。

 安っぽいダウンジャケットを着てはいるが、かつてワインレッドだっただろう色は得体の知れないシミでこげ茶色に変色している。特に襟元は首の油を吸って黒くくすみ、実に長い間に渡って男がこの服を着続けていることを証明している。


 さらに不快なのはそのズボンだ。茶色いズボンは股間から太ももにかけて黒いシミが広がり、排泄物の匂いを漂わせている。やはり、これはまともな男ではない。

 

「不公平かね?と聞いているんだ。返事くらいしたらどうかね?」


 水気のないひび割れだらけの白い唇を面倒臭そうに動かしながら、男は再び呟いた。口を動かした瞬間、体から漂う臭気とはまた違った凄まじい口臭が鼻孔を穿ち、亮二の顔を歪めさせた。


「だ、誰だあんた。なんの用でここに…」


 亮二は恐怖を押さえ、なんとか声を絞り出した。


「何の用って、お前が私を必要としたからさ」

「俺はあんたなんて呼んでないぞ」

「確かに声に出しては呼ばれていないがな」    


 男は口の端を僅かに歪め、皺だらけの頬にさらに皺を重ねた。どうやら笑っているつもりらしい。不潔で醜い顔が、その笑顔らしきものでさらに醜さを増したようだった。

 

  助けを呼ぼうか、頭に浮かんだその考えを即座に打ち消す。備え付けのマイク越しに助けを呼んでも、看護師らが病室に駆け付けるまで数分はかかるだろう。その間に激高した男が襲い掛かって来たらどうするか。ごくあっさりと、この男にくびり殺されるはずだ。


 命まで取られないとしても、怪我もせず無事でいる自分の姿がどうしても想像できない。


 怒らせてはいけない。丁重にお引き取り頂くのだ。亮二はこれ以上ないほど静かに、そして優しげな声で男を諭した。


 「悪いけど、おれはあんたのことを知らないんだ。呼んだ覚えもない。帰ってくれないかな?」


 男は返事をしない。そして暫く亮二の顔を見つめた。果たしてこの白い膜がかかった黒目には俺が見えているのか?恐怖心を抱きながらもそんなことを考え始めた時、男がまた口を開いた。


「見えている、お前の姿も魂もな」


 ごくり、と亮二は喉を鳴らした。なぜこいつは俺の頭の中が読めるのだろう?


 「読めるさ」


 男はまたしても亮二の心の声を受け取って応える。


「私は”分配者”の代理なのだからな。お前ごときの心が読めないでどうする?今日はお前に有り難い話を持ってきてやったのだ」


 物憂げな口調のまま、男はぼそぼそとしゃべり始めた。


「お前は身が萎えて以来、常に神の助けを求めてきた。そして助けが届かないと知ると神を呪い始めた。そんな実に無礼かつ勝手なお前に、”分配者”は興味を持ったのだ。選ばれた、などと思い上がるなよ。ほんの気まぐれだ。子供が幾億もの海岸の砂粒から、小さな貝殻を見つけてポケットに入れたのと一緒と思えばいい。ともかく、分配者は私に命令した。お前をこの懊悩の地獄より救い出し、不公平を正し、開放せよと。そうだ。私はお前を開放しに来たのだ」


 言いながら立ち上がった男は、亮二の顔をじっと覗き込んだ。耐え難い悪臭がまとわりつく。黙っていると何かされそうな不安感で、亮二は再び口を開いた。


「ぶ、分配者ってなんだ?あんたの言うことが良くわかんないよ」

「そうさな。分配者は分配者だ。」


 男は少し考えるように首を傾げた。

 ともかく、だ…と少しの間を置いて、男は言った。


「その分配者はお前を救うことに決めた。喜べ」


 喜べと言われても、と思う。分配者だの救うだの、この男の言うことは常軌を逸している。恐らく、どこやらから侵入してきた精神異常者に違いない。だが腑に落ちない点もある。(不公平)と天に吐き出した心の声を、こいつは最初から読み取っていたではないか。他に亮二が考えたことも次々と読み当てて見せている。単なる異常者がこんな芸当をできるだろうか。


「私は頭がおかしいわけではないぞ。いい加減人の話をまともに聞け」


 亮二は息が止まりそうなほど驚いた。やはり男は心を読んでくるようだ。こんな偶然が何回もあるなんて考えられない。亮二はあれこれ考えるのを止め、男の話を聞くことにした。もう、どうでもいいではないか。襲われたところで絶望的な人生から途中下車するだけだ。狂人のたわごとであったとしても、とことん付き合ってやろう。


「それで、どう分配者サマは俺を救ってくれるんだ」

「お前を動けるようにしてくれる」

「ほ、ほんとか」


 思わず声が大きくなる。嘘であろうが本当であろうが、それは亮二が何よりも切望している事だった。朝から、晩までだ。


「本当だ。分配者はおまえに”受肉”するのだ。受肉によっておまえの体には分配者の肉体が宿る。その肉体をどう使おうが、あとはお前の勝手ということだ」

「じゅにく?」

「受肉だ。分配者から与えられた肉体を受けるから受肉だ。こんな言葉さえも知らんのか?」


 男が呆れたように首を振った。


「じゃあ、じゃあその受肉で俺は元の体に戻れるのか?」

「それは無理だな」


 凍るような声で、無慈悲な答えがかさかさの唇から吐き出された。


「受肉は一日に一度きりだ。降りてきた肉体は限られた時間しかお前の体には留まれん。だがな、その肉体は強いぞ。お前が受けた苦しみの分だけ、お前の不公平を公平に正す分だけ、強いのだ」

「限られた時間って、どのくらいの時間なんだ?強いってどう強い?お、教えてくれ」

「それは自分で試せ。もう受肉は終わっているぞ」


 言い捨てると、男はドアに向かって歩き始めた。帰るつもりらしい。不思議なことに、さっきまで病室に充満していた悪臭がきれいさっぱり無くなっている。


 その時、冷たい針で刺されたような痛みが亮二の指に走った。その痛みは剣山で全身を叩くかのように一気に広がり、激しい痛痒感を体の隅々まで充満させつつある。長い正座から開放された時のような、あの感覚だ。感覚?感覚だって?なんと、役立たずの体がいま痛みを感じているではないか!おれの体は生き返りつつあるのか。


 亮二は唖然とした。


「待て!」


 慌てて男を呼び止める。最早疑う余地はない。この男は本物の神の使いに違いない。いや、分配者の使いか。とにかく何の神様でもいいから引き止めて詳しく話を聞かなければ。


「分配者って、あんたの言う分配者の正体はなんなんだ?」


 男の足がぴたりとドアの前で足を止まった。僅かな沈黙の後、男は振り向きもせず呟いた。


「分配者の正体か?」


 肩がかすかに上下している。わずかな動揺のようなものがその動きに感じられた。男が感情らしきものを見せるのはこれが初めてだ。


「あれは、お前が知っている宗教の創造神とは違う。キリストとか、ブッダとかいう人間的なものでもない。全く次元が異なる”何か”だ。そもそも、分配者という言葉さえもあれを表すのに適切であるかどうかわからん。言葉というものには表現する力に限界があるからな」。


 出来の悪い生徒を諭すように解説をするその声には、何故かその分配者への憎悪の色のようなものがにじみ出ていた。


 男の姿はもはや、ドアの前でおぼろげな影になりつつある。砂鉄のような細かい黒い粒が男の体から立ち上り、影は荒波に揉まれる海藻のようにゆらゆら揺れている。やがてそれが一筋の線となり消え去る瞬間、これまでとまるでタイプの違う鮮明な声が亮二の頭に大音響で響いた。


「哀れなる者よ、双腕を振るえ!汝の腕は小石の如く巨石を飛ばし、紙の如く鋼を引き裂くだろう。哀れなる者よ、地を蹴れ!汝の両足は疾風の如くその身を運び、何人も汝を捉えることはかなわぬ。ただ想うがままに、ただ心のままに、野蛮なる力を振るえ!穢土に住まう総ての者は、あまねく汝の力の前に這いつくばり、ひれ伏す。叫べ!踏み砕け!汝の歪な運命を。ただ力によって、その宿命を平らに均(なら)すのだ!」

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