亮二が走る1800秒について
チョロすけ
第1話 苦悩の日々
神様は居眠りをしている。
そうでないなら、きっと両耳を塞いで、目をつむっているに違いない。
あまりにもたくさんの人間が、あまりにもたくさんの願い事をするものだから、神様は少し疲れてしまったのだ。でなければ、この身に起こっている不公平を見過ごす筈がないではないか、と亮二は最近考えてみることにした。
思いを巡らす場所は八畳たらずの四角い病室。それが今の世界の総てだ。
飽きるほど眺めてきた白い天井の塗装には、無数の細かい亀裂が走っている。その地割れのような模様を、亮二は目をつむっても鮮明に再生することができる。もちろん、好きで覚えた訳ではない。天井を見ていることぐらいしか他にすることがないから頭に焼き付いてしまったに過ぎない。
窓に視線を移してみた。中庭に面した窓からは、春の陽気に佇む患者たちの姿が見下ろせる。これも嫌というほど眺めている光景だ。
いかにも病人といった緩慢な動きで、ゆっくりと芝生を踏む者。点滴棒を支えにしながら、よろよろと進む者。日光を感じているのだろうか。車椅子に座って目を閉じている者もいる。
健康な者から見ればなんとも頼りない姿だが、それでも彼らが羨ましい。少なくとも、彼らは自らの意思で体を動かすことができるのだから。
歩く、掴む、排泄する。幼児でも備えているこの簡単な機能が、今の亮二の体には失われていた。出来ることと言えば、首から上を少し動かす事くらいだ。脊髄損傷による全身麻痺。これが今亮二を苦しめている重い枷である。
不幸が起こったのは2年前の春のことだ。
その日亮二は大学からアルバイト先のコンビニに向かうため、御茶ノ水のホームで電車を待っていた。目の前には、無数の桜の花びらを浮かべた神田川が流れている。水面でアメーバのようにゆっくりと形を変える花弁の塊を眺めながら、亮二はその花弁を浅田万由美の丸くて薄桃色の顔に重ねていた。
万由美はコンビニで一緒に働く専門学校生である。小柄な体に大きな瞳を持つ彼女はどこか小動物を連想させる女性で、くるくると忙しく立ち働く姿が職場の皆に愛されていた。
「あの、もしかして俺と同学年じゃない?平成六年生まれ」
亮二が万由美に初めてかけたプライベートな言葉がこれだった。会話のきっかけが欲しくて彼女の履歴書を盗み見した亮二は、年齢が万由美と同じという共通点を見出したのだ。
「やだー!なんで解ったの?」
けらけらと笑いながら亮二の二の腕を叩く彼女には、全く屈託というものが感じられない。その明るさに、亮二はいっぺんで心を奪われてしまった。
同い年という共通点もあり、あっという間に彼女と打ち解けるとすぐにデートの約束を取り付けることに成功した。「絵が好きなの」という彼女の希望に合わせ、来週には一緒に上野の美術館へ行くことになっている。
少し気が弱い亮二にとって、女性とのデートは実に久しぶりだ。しかし、彼女とならば初デートにありがちな「気まずい沈黙」は訪れない気がする。
目の前に迫ったふたりの時間にわずかな緊張を感じながらも、亮二は自然と頬が緩むのを押さえきれなかった。
どん、と背中に強い衝撃を感じたのはそんな甘い期待に浸っていた時だ。何か激しい力に押された亮二は、ホームから受け身をとる間もなく転落した。二本の線路が眼前に迫り、首のどこかの部分が”ぐきり”と嫌な音をたてたことは覚えている。それと、駅員に異常を知らせる女の金切り声も…。
次に目が覚めた時は病院のベッドの上だった。
「頚椎の骨折による脊髄損傷です」
うんざりするほど多種多様な検査を経たのち、広瀬という鼻の大きな医師が病状を説明しにやって来た。
「脊髄というのは脳からの指令を体に伝えています。これが損傷すると、損傷した箇所から下は上手く指令が伝わらず麻痺することになります。亮二くんは首を骨折しておりますから、現在のところは首から下が麻痺している状態になっている訳で
す」
「今後、亮二の体は動くようになるんでしょうか?」
目を真っ赤にしながら尋ねた母に、広瀬医師は「なんとも言えません」と大きな鼻を横に振りながら答えた。
「脊髄は脳の中枢神経と同じで、一度傷付いたら回復することがないのです。とはいえ、損傷の度合いが軽ければまた体が動くこともあります。実際私はリハビリで回復した患者さんも沢山見ています。希望を捨てないで頑張りましょう!」
力強く母を励ますと医師の言葉。その薄っぺらい演技を耳元で聞いていた亮二は、ただ漠然と天井を見つめていた。
事態が重大すぎて何も頭に入ってこない。自分が一生動けない体になってしまったなんて、現実として受け入れられない。ほんの3日前までは好きな場所に行って好きなことをしていたこの身なのだ。何故突然、ベッドという牢獄での終身刑を宣告されなければならないのか。
医師にとってみれば、亮二が全身麻痺になったことなど日常のひとコマに過ぎないだろう。勤務が終われば、この男はどこかで食事をし、酒を飲み、笑い、ベッドに入る。あるいは寝る前に、大きな鼻に汗を浮かべながら女を抱くかもしれない。その時に彼は亮二のことを思い出すことはないに違いない。
頑張りましょうなどと言っても、自分はこの男にとってそれだけの存在なのだ。そう思うと、じわじわと医師への憎しみが沸いてきた。全くもって理不尽な憎しみには違いない。それを頭では理解しているのに、亮二は憎悪の籠もった目を医師に向けることを止められなかった。
目を覚まして5日後、刑事が事情聴取にやって来た。
板野と名乗るその男は四十半ばの四角い顔を持った髪の薄い男で、大きな体を窮屈そうに安物のスーツで包んでいた。
「亮二さんをホームから蹴落とした男なんですがね、駅の監視カメラで身元が割れました。加藤拓海という18才の無職の男です。この男と面識がありますか?」
差し出す太い指に挟まれた写真には、見たこともない男の顔が張り付いている。薄い眉毛、つり上がった目、突き出た頬骨、唇は不健康そうな赤褐色だ。亮二は眉をしかめながら「知りません」と答えた。
「でしょうね。こいつは昔から何度も補導されているクズです。事件当日は随分飲んでいたらしくて、御茶ノ水から仲間と錦糸町のキャバクラへ向かう所だったそうですよ。そこでたまたま亮二くんの背中を見て……」
「蹴ったんですか?何故?」
刑事は大きな体を少し縮めて、申し訳無さそうに答えた。
「ノリだそうですよ」
「ノリ?」
「特に理由はないと。ただノリで目の前の背中を蹴りたくなったから蹴ったそうです。自分でもなんであんな事をしたのか解らないと言っていました」
刑事の言葉を聞いて、目もくらむような怒りが亮二の中に吹き上がった。
ノリだと!ノリでこの馬鹿はおれの人生を狂わせたのか!
唯一感覚が残った顔から、怒りを乗せた熱気が放たれるのが解る。殺せるものならこの手で殺してやりたい。だが今は殺す手も。敵に近づく足さえも持っていない。
「そいつは、そいつはどうなります!やったことに充分見合うくらいの罰をうけるんでしょうね!」
顔を上気させながら問う亮二に、刑事は力強く宣した。
「大丈夫。必ず加藤には罪を償わせます。ああいうクズには自分のやった事を後悔させないといけませんから」
任せておけ、というように刑事が胸を張ると、ぴちぴちの背広の肩の部分が悲鳴を上げるように盛り上がった。
それから刑事の約束が果たされたか、と言えばとてもそうは思えない。
事件の重大さから少年院ではなく刑務所へ送られた加藤ではあった。だがこの男はぎりぎり20才未満であり、なおかつ反省しているという理由から彼は僅か1年の刑期で出所しおおせたのだ。
裁判の際に反省の印として提示された賠償金5千万円は、未だ1円たりとも支払われていない。「何十年かかっても払っていきます」と涙で語ったという姿は、まるっきりの嘘っぱちだった訳だ。今は行方も判らないという。
その親はと言えば、「息子のしたことは私達とは関係ない」の一言で謝罪にも来ていない。息子に劣らぬクズっぷりだが、それもそのはず。加藤の父親は加藤組という土建屋の社長だったそうだ。土建屋の看板を掲げているが、実質はヤクザに違いないと板野刑事は教えてくれた。
弁護士は保護者責任を問うために加藤の父に対する裁判の準備をしているようだが、果たして裁判に勝っても賠償金がこちらの懐に入ってくるかは極めて疑わしい。
被害者は苦しみ続け、加害者は罪の精算に背を向けて何ら変わらない日々の暮らしを送る。なんという不公平だろうか。もし神と称されるような何かが存在しているとすれば、この不公平を何故見過ごすのか。
そして今、亮二はともかく母が心配だ。
確かに犯罪被害者等給付金とやらのお陰で、入院費と生活費はかろうじて賄えている。しかし、母の負担は経済的にも肉体的にも限りなく重い。
亮二が3歳の時に胃がんで父を亡くした母は、区役所の公務員として一人で家計を支えきた。だがこの事件により母は区役所を辞めざるを得なくなった。着替えも排泄もできない亮二の面倒を見るためには、仕事を続けるわけにはいかなかったからだ。今は自由の効く貴金属のセールスレディをしているということだが、暮らし向きは楽ではないだろう。
毎日病院に来て何かれと用事片付けていく母は、ここ半年で目立って老けてきている。黒檀のように黒々として艶のあった髪は、あちこちに白い筋が目立つ。体も、随分痩せた。白くて長い、亮二が子供の頃から大好きだった母の指。それも茶色く節くれ、かさかさでまるで老婆のようだ。亮二はその指をみるたびに、ずしりと胸が重くなる。
だから、時々母にこう聞かずにはいられない。
「母さん」
「何?」
「俺、生きてて何か意味があるのかな?この先就職して母さんの老後を見ることもできないよ。多分、そうなる。母さんに迷惑かけるためだけに生きてる気がする」
その時の母の答えは解っている。
「大丈夫。すぐに怪我はなおるから」だ。
「良くなったら、うんとあんたに贅沢させてもらうわよ。変なこと考えてるといつまでもそのまんまよ!」
必ず母は笑ってそう付け足すはずだ。
でも母は解っているに違いない。これはただの儀式なのだと。この悲劇が延々と続くことを解っているくせに、それでも自分に希望をもたせようとする空しい儀式なのだという事を。
良くなるわけはない。もしそうならとっくの昔に良くなっているはずだ。息子のために見え透いた気遣いをする母が、亮二には哀れでならなかった。
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