決意の出立
野茨一行より一足先に杉林へと分け入った日車は一人獣道を駆けながら、鳥の囀りが何処か寂しげに響く林に、日暮れが近付いているのを感じた。
日車は口髭を撫でつつ休み休み、足元に用心しながら、決して無理をせず林を行く。すっかり老獪になっていた彼は相棒・野茨の義侠心の枯れていないことを知っていた。
自分に指示を出して別れ際に、「場合によってはお前が戻る頃、儂らはここにおらんかも知れんが」と言った時、その口調の端々に昔の血が滾っていることを肌で感じていたのだ。
「日も落ちれば、そろそろケヤキか。野茨……」
日車は独りごちりながら、鼻を鳴らして片頬に笑う。
全く不可解な感覚だった。野茨とは数十年来の付き合いだ。場合によっては今宵、半身とも言える相棒を失いかねない事態になっているのに、何故だか笑えてくる。
歳をとり、侠客から足も洗って、拾った若者や子供も悉く手放し、もう大層な出来事は起こらぬまま、この町で朽ちてゆくものと思い込んでいた。
そんな自分たちを壮烈な死に駆り立てるものは、やはり何処かきな臭い
「後者であって欲しいものだ」と、日車は駆けながら思う。時期を問わず寒風吹き抜けるこの灰色の町に新しい風を運んでくるのが、己らとそう変わらない老人であって欲しくはなかった。
もしそれが、いちこなら。もしそれが、わびすけなら。
五年前に己らを置いて、後ろを片時も顧みもせず、二人揃って町から消えたあの二人なら。
老骨は、喜んでこの身を死地へ投げようぞ。
なぁ、野茨。お前もどうせ、同じだろう?
そんなことを思うと、くつくつと腹の底から笑いが込み上げて堪らない。
ミスミ・コミュニティの拠点「
……が。
「てめぇら一体、どこに目ぇ付けてやがったァ〜〜〜〜ッ!」
リンの怒号が、目的地たる木の下から聞こえる。
全く、若い癖に迫力のかけらもない声だ、と内心呆れながらも、日車は彼らに駆け寄りつつ大声で呼ばわった。
「おういッ、リン、どうしたッ!」
林の枝葉が震えて小鳥が飛び去り、その場にいた若者数人の肩がビクリと震える。声量の差は「年の功」とは言えない。
「じ、爺ちゃん……」
内弁慶なリンは、日車の姿を見とめると子猫のように肩を竦めた。
他にいるのは、カーディガン男・ソラに、妖艶な美女・オハラ、ポンチョの小男・リュウ、それに小太りの野球帽・シンの四人。
日車はすぐに気付いた。足りない、二人……いや、三人。
「ランはどうした、チョウもおらんな。それに……」
「い、いやァ爺ちゃん、それが、その……」
「いちこは、どうしたァッ!」
「ヒェッ……」
リン始め、五人の若者は最早お約束とばかりに小さく悲鳴をあげて、腰を抜かしすっ転んだ。
♦︎
「フム、なるほどのう」
日車はリンに案内されて、昨日の乱闘によって負傷したイレズミ連中が担ぎ込まれている部屋に来て、事の次第を聞かされていた。
要するに、リンたちが彼らの手当てに勤しんでいる中、交代を伝えに行ったチョウと、救い出した色ボケ小僧の相手をしていたラン、そしてもう一人、色ボケ小僧の伴らしき大柄な男と別室で話していたらしいいちこが、救い出した二人も伴って「一斉に消えた」と言うのだ。
「私とシンは、直前までいちこと、あのポッチャリ坊や……大賀クンと一緒に鍋つついてたのよ。それでチョウが来て、あの子、真面目だからさ。なんか気まずい空気になって、『交代だ』って言うからちゃっちゃと出てったのよ。その後すぐよ。いなくなくったのは」
イマイチ要領を得ないが、オハラは困惑しきりながらも日車に懸命に状況を説明した。
それを片耳に聞きながら、日車は倒れ込みながらもジロリと自分を睨みつけるイレズミ連中を睥睨していた。
殆ど全員、見知った顔である。菊田に竜胆、その子分たち。名うての侠客である自分は彼らにとって大先輩にあたるが、特定の組織に属さず無頼を貫き流浪の日々を送ってきた日車にとって、彼らは何度となく敵対してきた謂わば仇敵でもあった。
「久しいなぁ、竜胆」
日車は不敵に笑いながら、この場で最も立場が上の菊田を完全に無視して、竜胆に声をかけた。
「こんな奇っ怪な若造集団とも関わりがあったのか、ジジイ。落ちぶれたモンだな」
と、竜胆は憎々しげに答える。
いちこの渾身の前蹴りを受けて半死半生の傷を負った筈なのに、頑健な彼は既にこの場で一番の魂魄を放って日車を睨み付けていた。
「カッカッカッ……何とでも言え。大方お前ら、林でいちこの捜索でもしている最中に、わびすけ辺りに身包み剥がされたんじゃろう。そこで本懐の彼奴と出くわすとは運がない……そりゃあ負けるわい。あれが、素っ裸でどうにかなる相手か。どうしようもない阿呆め」
「うるせぇ……! 仮にも元は侠客だったジジイが、イレズミをこれ以上辱める気か。ここまでの醜態を晒して、もう親父に合わせる顔もないのに……」
「ほぉ……ならばいっそ」
日車はニタリと笑いながら、竜胆のすぐ側にしゃがみ込み、事も無げに言った。
「その姿のままケヤキ通りまで戻って、
戦慄したのは竜胆でも、その背後に控える曙光会の面々でもなく、ミスミ・コミュニティの五人だった。
この老人、涼しい顔でとんでもないことを言う……
「是非もない」
竜胆は、頬をヒクつかせてこの上ない憤怒を露わにしつつ、決然と言った。
「応ッ、よう言うた!」
パン、と日車は手を打って破顔し、立ち上がった。
「儂がお前らを、ケヤキ通りまで連れて行ってやる」
「な、何ッ……!?」
「なんじゃ、『是非もない』と言うたじゃろ。男に二言はない。まして、侠客ならな。それとも今のは『ジジイの空耳』とでも誤魔化されるかの。近頃のイレズミは、そこそこトシ食っても口先が達者なモンじゃなぁ」
そう言うと日車は、頬を歪めて鼻で嗤った。
竜胆は憤然として顔を上げ、恐ろしい声で怒鳴り散らした。
「馬鹿にするなッ! 応とも、貴様が約束を違えずケヤキ通りまで俺たちを運べば、すぐにでも親父の前で全員腹を斬るッ! 貴様らジジイの弛んだ腹ではもうできやせん鮮やかな割腹を、その目に焼き付けてやるわッ!」
「カッカッカッカッカッカッ……」
まさに思う壺。日車は腹を抱え心底愉しげに笑いながら、リンに顔を向けた。
「……よし、聞いたかリン」
「へ?」
「『へ?』じゃない。コイツらの腹切り見物のために、大所帯でケヤキ通りへ行くことになった。一人じゃ骨が折れるから、二人ほど貸せ」
「い、いや爺さん、そりゃあ……」
「リン、いちこを逃したことを野茨に知らせるぞ」
「いっ……!?」
リンは顔面蒼白となり、後ずさった。
そう、ここに来たのが日車一人だったから、まだ良かったのだ。野茨がいればどうなっていたか。彼のいちこへの親心は常軌を逸している。下手をすれば殺されかねない。
「それだけは……!」
「なら大人しく誰ぞ……」
「私が行くわ」
「お、俺も行く」
日車、リンが顔を揃えて振り返った。進み出たのは、オハラとシン。共に唇を噛んで内心の恐れを押し殺しているのが、ありありと見える。
「いちこと、大賀クンと……一緒に鍋
オハラが拳を握り締め震える声で言い、シンはこくこくと頷いている。日車は微笑んだ。
「よし……では」
「ま、待ってくれ」
そこへ、尚もリンが口を挟む。日車は流石にウンザリして、無言のままリンを思い切り睨みつけた。だがリンはいつものように怯えず、日車は意表を突かれ目を丸くした。
「俺も行く……行かせてくれ」
「何……?」
「ずっと引っかかってんだ……一昨日、アンタらからあいつを預かってすぐ、言われたことが」
日車は丸くした目を細めて、真っ直ぐリンと向き合って訊ねた。
「……何と言われた」
「『実際世の中平和じゃないのに、そこから目を背けてこんなとこでジメジメと突っ込んだり突っ込まれたりして、何が平和に暮らすための知恵』だ……と」
深刻そうに言うリンの言葉に、日車は思わず吹き出しそうになるのを必死で堪えた。
いちこらしい、と思った。真っ直ぐで、無遠慮。そして、全く容赦のない正論。恐らく一悶着もあったろう。
だがそれで、こうして一人の同輩の心をしっかりと動かしている。流石だ、とも思った。
「あいつがランやチョウを連れて、何をやるのか見極めたい……それに出来ることなら……オハラも、シンも、勿論先に出てった二人も、俺がちゃんと守りたい」
リンは俯きながら、暫くつらつらと語っていたが、最後にはグッと視線を上げて、真正面から日車の目を見据えて言った。
「アンタ達に、教わった剣で」
「お前……」
日車は思わず、腹の底から熱い何かが込み上げてくる想いがした。リンのボサボサの長髪を思い切り撫でくり回してやりたくなり、微笑みが漏れ出た。
「よしッ……しっかり付いてこい」
リンは、無言で頷いた。
そして、隠れ家に残ることになったソラとリュウに視線を合わせ、互いに頷きあった。
必ずここへ、みんな無事に連れて帰る。
ミスミ・コミュニティリーダー・リンは、そう固く誓った。
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