忍び寄る影
二老人によって半ば強引に預けられた「林の民」の集団、ミスミ・コミュニティの隠れ家にある一室にて目覚めたいちこは、何処から引っ張り込んで来たのか知らない大きな布を何枚も重ねて接ぎ合わせただけの粗末なベッドから、滅茶苦茶に跳ねた赤髪をぐしゃぐしゃと掻きむしりながら気怠げに身を起こした。
鬱蒼と茂る杉林のさらに下の穴倉に朝焼けなど差し込んでくるわけもなく、寝覚めの悪いいちこは昨夜の衝突もあって至極不機嫌であった。
木の外で一夜を明かそうとしていたのを、作業着の女・チョウから「危ないから中にいて。あなたに何かあったら、私たちが爺ちゃんたちに殺されちゃうでしょ」と冷淡に言われ、渋々戻ってしまったのがまた屈辱だった。
「おい、いちこさん、起きたか」
不意に部屋の仕切りとしているボロ布……もといカーテンが開かれ、カーディガンの男・ソラが顔を出して訊ねた。いちこは寝起きの血走ったキツネ目でその顔を睨んだ。
「ノックぐらいしなさいよ」
「おぉ、怖っ、こっわ! やめてくれよ、その目っ」
「うるさいわね、女が寝てる部屋に無遠慮に入って来て……」
「リ、リンに言われたんだよぉ。大体、男とか女とか、ここじゃ関係ないぜ。何せ俺たちゃ……」
「そんな話、聞きたくないっつってんでしょ」
「わ、悪かったよ……とにかく、起きたんなら早くこっち来いよ。
「朝飯って、どうせまたあのリスやら虫やらごった煮した地獄鍋でしょ。いらないわよ」
「
「えっ」
ランとは、昨夜リンを締め上げた際にビンタをくらい激しく睨まれてから、一度も顔を合わせていない。
すっかり嫌われてしまったと思っていたが、朝食を作ってくれるとは……
単純ないちこは、急に反省する気になった。確かに昨日は、暴走が過ぎた。嫌われても仕方がない。それなのに、こうも自分に良くしてくれる。嫌でも謝らねば筋が通らない。
「分かった、すぐ行くわ」
「えっ」
「ありがとうね、起こしてくれて。それに……」
「お、おう……?」
「昨日はごめんなさい」
ソラは呆気に取られながらも、一転して澄んだ瞳で自分の目を真っ直ぐ見つめ礼と謝罪を口にするいちこの潔さに、何とも言えない好感を覚えた。
「……いいってことよ!」
爽やかに笑って、そう言った。ソラもまた、単純な男だった。
♦︎
ランをはじめコミュニティの面々はいちこの謝罪をすんなり受け入れ、賑やかに朝食を共にしていた。その中には昨晩いちこを冷淡に突き放した作業着の女・チョウの姿もあったが、彼女はランと共にいちこの両脇に腰掛け、明るく笑って会話を交わしていた。
「あんたら全員、元は都の住人だって聞いたけど」
「えぇ、そうよ」
「何でこんなとこで、こんなことしてんの?」
「失敬ねぇ。反省したんじゃなかったの?」
「そうだそうだっ、ホントに気が変わったんなら、俺たちの仲間になれよ!」
「それは絶対イヤ」
「がーっはっはっは! まぁ、気長に待つぜ!」
「いちこさんなら、いつでも大歓迎よっ」
いちこは彼らのしつこい勧誘を無視して、右隣で気恥ずかしげに顔を伏せるランに話しかけた。
「ラン、あんた、料理上手いわね」
「えっ?」
ランは驚いて、座っていても頭一つ分高い所にあるいちこの顔を見上げた。
「ほ、ほんとですか?」
「ホントホント! 生き返った気分よ。ありがとうねっ」
いちこは満面の笑みを浮かべ、キツネ目は消えてしまいそうなほど細くなった。誰が見ても分かるその屈託のない太陽のような笑顔と真っ直ぐな礼の言葉に、ランは元々赤らんでいた頬をリンゴのように染め、俯いた。
「そんな……えへへ、嬉しいです」
そんな二人のやり取りを、朝食を共にする面々はニヤニヤと笑いながら見守る。
いちこがその視線に気付き、先程まで優しく細めていた目をまた恐ろしげに光らせて睨んだ。
「ヒェッ……」
「何よ?」
「だ、だからその目やめろよ! コエーんだよっ!」
「ヤラシイ目で見てんじゃないわよ」
「ちっ、ちが……優しく見守ってただけじゃねーか!」
「目がヤラシイのよ、あんたらは。日頃から木の上で盛り合ってばっかいるからよ、猿みたいに」
「うるっさいわねっ! そういう言い方するから、リンとも喧嘩になったんでしょっ!」
「アッハッハッハ! まぁ、いいじゃない別に……」
チョウが、いちことコミュニティの面々の子供っぽいいがみ合いを、カラリと笑って打ち割った。
「私たち、何もかも違うんだもの。いきなり完全に分かり合うことなんて、できっこないわ」
そう言うと自身を見るいちこの目を真っ直ぐに見返し、さらに言葉を紡いだ。
「
「ん? いや、いいのよ、こっちこそ……」
「私たちはね、都じゃ鼻つまみ者だったのよ。一人残らずね」
チョウの言葉にいちこだけでなく、先程までやかましく騒いでいた全員が耳を傾ける。そして互いに頷き合い、チョウに説明の全てを委ねた。
「似た者同士、お互いを知ってはいたけど、助けを求める先はバラバラだったわ。リュウとシンは都のチンピラ集団に入って喧嘩に明け暮れてたし、ソラはイレズミの使いっ走り。オハラは親に黙ってオッサン相手に体売って稼いでた。私は作業場で働いてたけど、あと一歩でとんでもない所へ身を落とす所だった……」
触れられたくない筈のそれぞれの過去を、チョウは淡々と語る。ミスミ・コミュニティの面々から、一様に悲しげな笑みが溢れた。
「みんな、リンとランが助けてくれたの」
チョウは呟くように、ぽつりと言った。その顔には、他の面々と同じく悲しげな微笑が浮かんでいる。
いちこは声を詰まらせた。得体の知れなかったミスミ・コミュニティの面々に、途端にか弱い人間味を感じたのだ。
「そうだったの……」
「余計なこと話してんじゃねぇよ」
漸く口を開いたいちこの言葉を遮ったのは、いちこに締め上げられからずっと奥で寝ていたリンだった。
冷たい目で
「リン、目が覚めたのね、よかっ……」
「ちょっと来い」
いつになく威圧的なリンの調子にチョウをはじめ、コミュニティの面々は皆気圧されて俯いている。チョウは黙って頷くと腰を上げ、奥の間に戻るリンの後に続いた。
いちこは動じない。素早く立ち上がると、リンの背に向かって言うべきことを言った。
「昨日はごめんなさい」
深々と頭を下げた。軽く振り向いたリンの目に、垂れ下がったいちこの赤毛が映る。
リンは、吐き捨てるように言った。
「うるせぇ」
♦︎
奥の間でチョウと二人きりになったリンは、低く淀んだ声で不満を言い募った。
「どういうつもりだ、このクソ馬鹿野郎。突然転がり込んで来といて好き放題俺らを馬鹿にして、挙句暴力を振るった奴を勝手に許して、仲良く朝メシか。ご丁寧に昔話まで聞かせちまいやがって……」
「それが何だって言うのよ。朝になったら、ランがもう許してご飯作ってたのよ。仲直りの理由なんてそれで十分」
チョウは、毅然と言い返した。
「私たちはいつだって、一番寛容な人に付いてく。そうでしょ? あんたが作ったルールじゃない、リン」
痛い所を突かれたリンは大きく舌打ちすると、そっぽを向き目を伏せた。
「もしかしたら、爺ちゃん達がいちこをここに預けた理由って、それかも知んないわよ」
「はぁ?」
「いちこに私たちの精神を植え付けちゃうのよ! そうすればもうあの子、あんな乱暴しないでしょ……」
「ハァ〜……なーに気楽なこと言ってんだお前は」
リンは心底呆れ返ったように大きなため息をつくと、伸び切った襟足をぐしゃぐしゃとかき回した。
「な、何よ……分かんないじゃない!」
「仮にそうだとして、だ」
リンのサングラスの奥の細い目がギラリと光り、チョウの目を捉えた。
「逆に俺たちが飲まれたらどうすんだ」
「え?」
チョウはリンが醸し出す、普段とは打って変わった張り詰めた空気を肌で感じ、思わず生唾を飲んだ。
リンはまた視線を落とし、落ち着かない様子でそわそわと手揉みしつつ、低い声で語り続ける。
「……例えばここにイレズミの連中が現れて、あいつが喧嘩でもおっ始めたとする。それでラン辺りがそこに飛び込みゃあ、お前らも行くだろ」
リンは小刻みに震える声と手を、祈りを捧げるように硬く握り締め、肩を怒らせ声を振り絞る。
「そうなりゃアッという間に俺たちゃまた……終末の乱暴者の仲間入りだ……! そんなこと、俺ぁ絶対に許さねぇぞっ……」
「リン」
チョウはリンを胸に抱き締め、散々掻きむしってほつれた長髪を優しい手付きで撫で付けた。
「分かったわ……あんたの考えはよく分かった。肝に銘じておくわ」
リンは暫くそうして、チョウの穏やかな鼓動の中で少し落ち着きを取り戻すと、ゆっくり顔を離した。
「……すまん。悪かった」
単なる癖か照れ隠しか、リンは折角チョウが撫で付けてくれた髪をまた掻き回した。
チョウはそんなリンの様子を慈愛の篭った目で見守ると、いたずらっぽく笑って声をかけた。
「ね、久しぶりに、私とどう?」
リンは指で頬をかき、出来る限りいつもの調子に近い表情を作って苦笑した。
「へっ……そんな気分じゃねぇや」
作りきれなかった。口の端がピクピクと痙攣している。
ここ最近頻繁に町へ訪れているという
そして突如自分たちの元へ転がり込んで来た、争いの当事者・いちこ。
このままでは自分たちも、これまで通りではいられなくなる。
隣室から、いちこを囲む仲間たちの笑い声が聞こえる。利発なリンは、彼らのように鈍感ではいられなかった。
「リン、リン! た、大変だぁっ!」
動揺しきった声の主は、マッシュルームの男・リュウ。仲間の口からこんな声を聞くのも、ここ数日前から突然増えた。
リンは立ち上がった。体が重い。望まない変化に、心のどこかで抵抗しているのだ。
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