七草の茶屋

 「サクラ通り」。

 ミスミ公園の北から西北に伸びる、極彩色の売春宿に挟まれた華やかな通りと、その先にある巨大な炭鉱の地。

 坑夫と売春婦の行き交う通りには、男の汗と女の香水の入り混じった独特のにおいが一面に充満し、鼻の効く者にとってはこの物騒極まりない灰色の町でも、最も過酷な場所とさえ言える。


 二老人・野茨と日車はそんな通りを、梅干しのように顔をしわくちゃにして歩いていた。


「苦手じゃ」

「儂もじゃ」

「来とうなかった」

「儂もじゃ……仕方なかろうが。さっさと終わらせるためじゃ」

「早う済ませて帰ろう」

「分かっとるわい」


 恥も外聞もなく弱音を吐く日車を、野茨が苛立ちながら宥める。

 二人が目指すのは、サクラ通りの中心に位置する売春宿「七草の茶屋」。そこに「サクラ通りの女王」と称される女将おかみがいる。

 名は、「御形ごぎょうみしろ」。わびすけ捜索という困難な仕事には、町中に蜘蛛の巣のように情報網を貼るこの女の協力が必要不可欠なのだ。


 暫く歩くと、二老人の目に「七草の茶屋」の看板が見えた。

 ここは場所こそサクラ通りの中心であるが、然程大きな宿ではない。寧ろ比較的こじんまりとしていて、周辺のどの宿よりも古く、開放的で張見世はりみせもない。

 二階の縁側には、○印に店の屋号から一字取って「七」、そして女将の名から一字取って取って「御」と書かれた桃色の小さな暖簾が互い違いにはためき、女王・御形の英気を風に乗せてこの通り全体に送っているかのようであった。


 一階の軒先で、もんぺ姿で箒を振るう妙齢の女が見え、日車が手を振りつつ声を掛けた。


「おうい、『セリ』!」

「……あらっ? まぁまぁ、野茨さん、日車さん! いらっしゃ〜い! 久しぶりねぇ!」


 二老人の姿を見とめたセリはぶんぶんと大きく手を振り返しつつ、柔らかくも快活な声で応じた。



 ♦︎



 玄関にて野茨と日車が脱ぎ捨てた草鞋ワラジと手元に置いた荷物を、セリはテキパキと風呂敷に包んで抱え込み、二人を先導して廊下を歩く。

 彼女は売春婦ではないが、女王・御形お気に入りの女中である。リスのように愛らしく小柄な外見に反して、何をさせても如才なくこなす器用で利発な娘として通りでも有名であった。


「ああ、いや疲れた……全く堪らんな、ここらのにおいは」

「鼻を引き千切ってしまいたくなったわい」

「ご苦労様。にしても、どうしたのよ? 男の人ってのはその歳になっても、急にくるもんなの?」

「バカモン。遊びに来たんじゃないわい」

「御形はおるか」

「ふふっ、分かってるわよ。女将さんね、案内するわ。でも、先客がいるからちょっと待ってね」

「先客?『平子ひらこ』か?」

「んーん。ノッポでデコッパチの、汚ったないカッコしたヘンテコなおじさんよ。とか言う……」

「先生……?」


 セリは疲弊しきった二老人を軽快な語り口で癒しつつ、二階奥座敷手前の客間に案内した。

 野茨はセリに出された茶を啜りながら、先客の「ナントカ先生」について思考を巡らせた。二階奥座敷まで通されるとは、余程御形の信頼を得ていると見える。

 しかし野茨の頭には、町の中で「先生」呼ばわりされるデコッパチの記憶が一切なかった。


「なぁセリ、『ナントカ先生』とはどういう……日車、何をやっとるんじゃお前は……」


 行動派の日車は誰かに聞くより、自分の体を動かすのが早い。畳に這いつくばり、奥座敷の襖に耳を当てていた。


「日車さんっ、だぁめよ、盗み聞きしちゃ!」

「やかましいお前ら……むぅ、胡散臭い話し方じゃ。食わせ者のにおいがするぞ。臭い、臭いのう……」

「何よ、『食わせ者のにおい』って。通りのにおいがまだ鼻に残ってんじゃないの? 年取るとやぁねぇ。鼻が馬鹿んなっちゃって。ねっ、野茨さ……」

「ふむぅ、そんなににおうか、怪しいのう……」

「え?」

「日車、ナントカ先生は何を話しとる?」

「誰ぞ人を探しとるようじゃ……しかし誰かまでは……」

「全く、年を取ると嫌じゃのう。耳が馬鹿になっとるんじゃないか。どれ、ここは儂が一つ……」

「ちょっと、野茨さんまで! だぁめっ! コラッ! 何よ、お爺ちゃんが二人して子供みたいに……!」

「わわっ! や、やめんかっ、何をするセリ!」


 セリが立ち上がった野茨に抱きついて止め、驚いた野茨が思わず体勢を崩してしまった。倒れこむ先には、這いつくばる日車が耳を当てる襖。


「うおっ……!?」

「わぁっ!」

「きゃあーーっ!?」


 三人は雪崩を打って襖に激突し、縺れ合いながら奥座敷に突っ込んだ。

 ……恐る恐る顔を上げた三人を、雷鳴のような女の怒声が襲った。


「うるっさいねぇっ! 来客中だよッ!」

「ひっ……ご、ごめんなさい女将さん! ほ、ほらぁっ、お爺ちゃんたちも謝ってよっ!」

「全く、お前が余計なことせなんだらこんなことには……あいたたた……」


 セリが必死の謝罪をする中、頭を掻きつつ立ち上がる二老人。その姿を見て、女将が目を丸くして声を上げた。


「んん……? 野茨! 日車! 何だ、あんたらかい! 久しぶりだねぇっ!」

「おう、そうじゃ……いちいち声がデカいのうお前は。耳がキンキンしてしょうがないわい」

「あっはっはっはっは! すまないねぇ! まさかあんたらが来るとは思わなくてさぁ!」


 パイプを片手に堂々上座に腰掛けたまま、桜をあしらった着物に身を包んだ恰幅の良い中年の女将が、豪快に笑った。

 この女こそ、サクラ通りの女王・御形ごぎょうみしろ。一介の売春婦から、その天性の気風の良さと愛嬌で次々と味方を増やして成り上がり、遂には政府の力も及ばずイレズミが跋扈するこのサクラ通りからあらゆる悪を排除し、「女王」と呼ばれるまでになった、当代随一の女傑である。


「ほぉ、『野茨』に『日車』、と? これはこれは……」


 聞き覚えのない男の声が、真後ろの高所から聞こえた。野茨は驚き振り返り、その声の主を見た。

 天井に頭が届く程の長身と、テカテカと光る広い額。身に付けているのは、紺色の半纏はんてん

 男の顔を見上げて野茨は思わず、驚嘆の声を上げた。


躑躅ツツジれんぞう……!?」

「おや、僕をご存知ですかな」

「知らない方がおかしいわよ。先生、一番の有名人でしょ。死人を除けば」

「驚いたな……とんだ大物じゃったな、『ナントカ先生』とは」

「ナントカ先生?」


 ツツジがオウム返しに聞くと、二老人は赤面し俯くセリを見た。そして日車が無遠慮に言い放つ。


「何、ここに女将の言うところの『おかしい』奴がおってな……」

「ちょ、やめてよ日車さんっ!」

「はっはっはっは、まぁ実際僕なんて、大した人間じゃあございません」


 ツツジは改めて二老人に向き直り、威儀を正し挨拶をした。


「ごほん……改めまして、お初にお目にかかります。お察しの通り僕は、不肖・躑躅ツツジれんぞうと申します。お目にかかれて光栄です。武名轟く『』、野茨先生、それに日車先生」


 そう言って、長身のツツジは小さな二老人に向かって少し腰を落としつつ、丁重に手を差し伸べた。日車、続いて野茨は握手を交わしつつ、慇懃に挨拶をするツツジの目を見据えた。

 ゴツゴツとした手の感触、底の見えない細く深い眼、自分たちに一切気取られず背後に立つ技量。噂通り、いやそれ以上の曲者と見抜いた。


「儂らの如きまでご存知とは、恐れ入りますな」

「ご謙遜を。常識ですよ。ある程度に通ずる者なら」

「いやいや、侠客なぞ気取っておったのは昔の話。今はただの、身の置き所のない哀れなジジイに過ぎませぬ」

「僕も『大物』呼ばわりされていたのは昔の話。今は一介の民間教育家に過ぎません」


 野茨とツツジは互いに手を握ったまま、互いの腹の底を探りあうように心にもない世辞を交わして手を離した。そこへ、横合いから日車が声を掛けた。


「誰ぞ人を探しておられるようじゃったが?」

「ほう、よくご存知で」

「いやぁ申し訳ない。生来の地獄耳が中々衰えんでのう」

「はっはっは……左様ですか」

「儂らの用事もまた人探し。困った時はお互い様じゃ。話してみては頂けんかのう?」


 ツツジも微笑こそ崩さなかったが、暫し訝しげに日車の表情を窺った。

 そこへ、黙って男たちのやり取りを見ていた御形が助け舟を出した。


「先生、この爺様たちは信用できるよ。少なくとも、本当に困ってる人間の弱みに付け込むような下衆な真似はしない」


 野茨は頭を掻いた。ここで自分たちが協力を拒めば、御形の顔を潰すことになる。これはもう、話は決まったようなもの。

 果たして吉と出るか凶と出るか。二老人はツツジの言葉を待った。


「いやぁそれがですね……僕のうっかりで、教え子が二人ほど迷子になってしまったもので」

「この町で? ほぉ、そりゃ心配ですな」

「えぇ、一人は心身共に中々出来た子ですから余程のことが無ければ大丈夫だとは思うんですが、如何せんもう一人がですね……なんとも……」


 野茨は、ツツジの表情と語り口に曇りのない「親心」を見た。それに、「教え子」。案外、大ごとでも無いのかも知れないと思った。


「名は何と言うんです?」

「名ですか。よくできた方は『大賀おおがけん』と言いまして、もう一人が……」


 ツツジが広い額をポリポリと掻き、弱り切ったように苦笑した。二老人は、この上なく嫌な予感に襲われた。


「『錦戸にしきどわたる』と言うんです」


 ……部屋中に沈黙が流れる。

 あらかじめ聞いていた御形は、改めて呆れ返ったようにため息をつく。セリは当然と言うか、何一つ察していない。


「ハッハッハッ、そりゃまた大ごと……大ごとも大ごと、ですな……」


 野茨は乾き切った愛想笑いをしつつ、聞いてしまったことを後悔した。

 苦虫を嚙み潰したようような表情で口髭を撫でる日車に、セリが耳打ちをした。


「ねぇ……誰? 『錦戸わたる』って。そんなに有名人なの?」

「いいや、儂も知らん」

「えぇ……どういうこと? じゃあ一体何なの? この空気……」

「『錦戸』という苗字で、お前はまず誰を思い浮かべる」

「えっ……に、錦戸総裁?」

「この先生は、その忘れ形見の後見人じゃ」

「ふ~んそうなんだ……えっ……えぇっ!?」


 セリは口を抑え、完全に「やらかした人」を見る目でツツジを見る。

 ツツジはと言うと、先程までの得体の知れない迫力はどこへやら。両手で顔を覆って俯いている。

 そこへ、御形が無慈悲にも追い打ちをかけた。


「セリでさえ気付いたわよ、事態の深刻さに……」

「あぁ~、ほんっとどうしよ……困った、困ったなぁ~……」


 うめき声に似た声で嘆くツツジを目の前に、二老人は同じ感想を持った。

 この男、賢いんだか馬鹿なんだか……

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