ミスミ・コミュニティ
「……何やってんの?」
闇に紛れて姿の見えないランが、耳元でやけに優しく囁いた。
「入口を開けてくれてるんですよ」
いちこが肌を粟立てて引きつった愛想笑いを浮かべていると、リンの足元に人一人がようやく通れるほどの光の穴が開いた。
「よっし……入れ。ここが俺たち林の民の……『ミスミ・コミュニティ』のアジトだ」
♦︎
「いちこさんに乾杯だァーーーーーッ!」
「イェーーーーイッ!」
「よっ、女傑! 待ってましたぁーーっ!」
いちこは呆然としたまま、差し向けられる粗末な盃を合わせた。
林の獣や虫がぐつぐつと煮立ち蠢く地獄鍋を囲むように敷かれた
いちこは早くも猛烈な衝動に駆られていた。逃げたい、と。
しかし、それはできない。右隣りに座るランに、しっかりと腕を組まれていたから。
そんないちこの気も知らないで、左隣に座るリンが次々と仲間たちを紹介し始めた。
「紹介しよう。こいつが『ソラ』」
「よろしくな、いちこさん!」
いちこの正面に腰掛ける、ヨレヨレの白いランニングの上に丈長の黒いカーディガンを羽織った痩せた男・ソラが、ぺったりとした長い黒髪を撫でながら、見た目に似合わぬ爽やかな声で挨拶をした。
「こいつが『オハラ』」
「はじめまして、ウフフ」
いちこの左斜め前に腰掛ける、白いワイシャツを腹の上までたくし上げて豊かな胸の前で括り、谷間をざっくりと露出させた殆ど裸に近い格好をした、アシンメトリーなボブヘアの妖艶な女・オハラが微笑を投げかけた。
他には、マッシュルームカットの髪と小さなリンゴが幾つも描かれたポンチョを着た小男・リュウ。
小太りの体に鮮やかな水色のアロハシャツを着て野球帽を被った男・シン。
後ろで括った金髪に蝶の髪飾りを刺した作業着姿の小さな女・チョウ。
それぞれがリンの紹介を受けて、いちこに思い思いの挨拶をした。
全員、いちことそう変わらない若者であった。
カーディガンの痩せ男・ソラが、リンに向かって身を乗り出して話しかけた。
「なっ、リン、いちこさんは新入りじゃないのか?」
「ばぁか、このデカ女は、かの爺ちゃんコンビに託された大事なお客サンだ。下手に手ぇ付けっと全員ぶっ殺されっぞ」
リンの言葉に、オハラ、シン、チョウが口々に不満を述べ立てた。
「え~ウッソ、サガるわぁ〜」
「何だよ……俺、デカい女超スキなのに」
「アタシも。ちょ~どストライクなのにぃ」
色々と不穏な発言が飛び出す中、いちこはそれらを全て無視してリンを鋭く睨んだ。リンはそのキツネ目に射すくめられ、縮み上がった。
「な、なんだよ?」
「その呼び方やめてくれる?」
「えっ、あっ……ごめんなさい」
「私のことは……」
「『いちこさん』、ですよね?」
「うぇ? あ、あぁ、うん」
「ウフフ……」
またしても、ランに調子を狂わされたいちこ。ランは幸せそうに笑いながらいちこの肩に頬を寄せ、いちこは思わず背筋を凍らせた。
そしてランに続くように、マッシュルーム男・リュウと、作業着の女・チョウがめいめいに話し始める。
「そうだよぉ、駄目じゃねぇかリン。見てただろうがお前もよ~」
「『礼儀がなってないわね』っ! うっふっふっふっふ……」
いちこは眼を見開いた。昨日のミスミ公園での出来事がフラッシュバックする。
「何あんたら、見てたの?」
「おう見てたぜっ、木の上から! いちこさんが飛び出して来るちょっと前ぐらいからな」
「カッコよかったわ~~~っ……まさに女傑! って感じぃ~~~っ!」
「俺たちもう全員、いちこさんのファンだよ!」
いちこは少し安堵した。先程からのランの態度は、別に何かいかがわしい感情を孕んでのものではないかも知れないと思ったからだ。ソラがニヤニヤと笑いながら、ランに話しかけた。
「そのいちこさんが急にここへ来るもんだかサァ、期待しちゃうよな、色々と。なぁラン?」
「え? う、うん……」
「期待? 何の話よ」
……いちこの問いかけに一瞬、全員が沈黙した。
ソラが気まずそうに口火を切り、オハラが苦笑いを浮かべつつ応じる。
「何ってそりゃあ……なぁ?」
「いちこさん、あたし達のこと聞いてないの? 何も?」
「どういうこと?」
「いや、その……」
林の民たちの煮え切らない受け答えに苛立ちを募らせたいちこのキツネ目が、段々と釣り上がる。ランは怯えから、絡みつけていた腕を少し解いてしまった。
「ハッキリしなさいよ。何なの?」
いちこは左隣のリンを思い切り睨みながら言った。
「あんたらがどういう集団なのかって聞いてんのよ。答えなさい」
「俺たちはその……えっと」
口籠るリンを益々激しく睨むいちこの迫力に押されて、林の民たちはすっかり竦みあがってしまった。
ランがそんな面々を見かねて、いちこのコートの袖をくいくいと引っ張った。
「いちこさん……私たちはね」
ランは向き直ったいちこのキツネ目を上目遣いに見ながら、目一杯の勇気を振り絞って言った。
「フリーセックスコミュニティなの……」
「んなっ……!?」
いちこは余りの衝撃に口をパクパクさせて、二の句を継げなかった。
林の民たちは何やらここぞとばかりに、いちこに向かって次々と謎の釈明を始めた。
「おっ、俺たち、全員両刀使いなんだ!」
「誤解しないでっ、みんな良いやつなのよ!」
「私たちはただ、お互いのことを良く知ってるのよ!」
「俺なんか、全員の穴という穴に突っ込んだことがあって……」
「そうそう、細っこい体してスッゴイのよ! リュウのチン……」
いちこは次々と耳に飛び込む下品な情報に頭が沸騰し、遂に限界を迎えた。
「うるさーーーーーーーーい!! 黙れッ!!! 」
「ヒェッ……」
鍋をひっくり返しながら立ち上がり、腹の底から唸るように上げた耳をつんざくようないちこの怒号に全員がひっくり返り、ガタガタと震え始める。
「あっ、あんたらっ……不潔よっ! 気色悪い……何が平和……お互いを知ってるとか、聞きたくもないわ、そんな話……!」
いちこはわなわなと震えながら、真っ赤に上気した顔と血走った目で全員を威圧した。
しかし、すっかり消沈した林の民たちが俯き沈黙する中、リンが足を震わせながらもどうにか立ち上がり、いちこを睨みつけた。
「お、おいっ」
「何よ……なんか文句ある?」
「おう、あるともっ……来たばっかしのお前に、そんなことを言われる筋合いはねぇっ!」
リンは懸命に怯えを押し殺しつつしっかりといちこの目を見て、震えた声で抗弁を始めた。
「お、俺たちはな……あの爺さんたちに借りがあるから、仕方なくお前を預かってやったんだよっ!」
「そんなこと、別に頼んでないわよ。今すぐ出て行ったって……」
「う、うるせぇっ! それじゃあ済まねぇ……お前は今、聞き捨てならねぇことを言ったぞ!」
「はぁ?」
「いいか……フリーセックスはな……別に汚らしいモンじゃねぇっ、決してな」
リンのしどろもどろな抗弁を止める者は一人もいない。則ちリンは、この場にいる全員の意思をしっかり代弁しているということだ。
「争いってのは大体、憎しみやら独占欲から起こるモンだ。俺たちは、そういうモンを一切捨てた! だから昨日寝た奴が次の日別の奴と寝ても、俺たちは争わねぇ……」
いちこの怪訝な表情に掻き立てられる虚しさを振り切るように、リンは話を続ける。
「おっ、お前がどう思おうが勝手だがなっ! これは俺たちが懸命に考え出した、平和に暮らすための知恵だ! さっき突然転がり込んできたお前に、とやかく言われる筋合いはねぇっ!」
「フン……訳のわかんないこと言ってんじゃないわよ。要するにあんたら、ただの乱交集団じゃない。そんなこと男も女も見境なく日がな一日やってりゃ、何と争う気力も無くなるわ! 実際世の中平和じゃないのに、そこから目を背けてこんなとこでジメジメと突っ込んだり突っ込まれたりして、何が平和に暮らすための知恵よ! 笑わせないで! バッカみたい……」
「だっ、黙れぇっ!!」
いちこは思わず、少しだけ肩をビクつかせた。リンが、遂に怒りの余り怯えを吹き飛ばし、いちこ以上に顔を真っ赤にして激しい怒号をあげたのだ。
リンはそのまま震えもせずに、静かに続けた。
「俺たちはな……俺たちは……どんな理由があろうと、人の頭を刃物でカチ割ったりはしねぇぞ」
いちこはピクリと眉を動かした。無茶苦茶なことを言っていると思い、即座に反駁を試みた。
「何言ってんの……? あんたら、最初っから見てたんでしょ。あれは仕方なく……」
「いーや、仕方なくねぇっ! あいつだってある意味、仕方なくあそこに立ってたんだろうが! どんな理由があろうと、人をあんな残酷に殺していい理由なんざねぇよ!」
その発言に一定の理を感じ、いちこは思わず口籠った。激情冷めやらぬリンは、さらにまくしたてた。
「どうせお前、散々似たようなことやってきたクチだろうが、この、この殺人鬼が……! 何が不潔だっ!? 人の返り血に塗れて生きてる奴が、偉そうに説教垂れてんじゃねぇっ!」
言い終わるや否や、リンはいちこの異常に気付いた。
持ち前のキツネ目はこれまで以上に激烈に吊り上がり、顔をこれまで以上に上気させただけでなく、その赤髪がパラパラと、燃え立つように逆立っていた。
リンは完全に逆鱗に触れてしまったことに気付いたが、もう遅い。
いちこが自身に向かって一歩、ずいっと大股に歩み寄ったと思った瞬間、万力のような力で胸倉を掴まれ、締め上げられてしまった。
怒りに燃えた羅刹を思わせる顔が真正面に迫る。息ができない。
「何だって……?」
「グガッ……や、め……グググ……」
「もう一度言ってみろ……!」
完全に我を失い、みるみる青黒く染まっていくリンの顔を目の前にして一切手を緩めないいちこには、背後から聞こえる必死の制止の声も聞こえなかった。
「いちこさんッ!」
次の瞬間、髪を引っ張られて強引に振り向かされたいちこの頬を、小さな手が張った。パン、と乾いた音が響き、いちこは辛うじて正気を取り戻した。
目の前にいたのは、真っ赤になった目に涙を溜めていちこを睨む、ラン。
「やめて……これ以上酷いことするなら、出てって……!」
何も言えず佇むいちこの腕から力が抜け、リンがドサリと地面に落ちた。
蹲りゲホゲホと咳き込むリンの周りに林の民たちが集まり、いちこの大きな背を、怯えの籠った目で睨んでいた。
♦︎
いちこは一人穴を抜け、大きな体を屈めて空の外へ這い出し、その木を背に夕暮れの空を睨んだ。
「何なのよここは……何なのよあいつら……! 何で、何だってこんなとこにいさせるのよっ、野茨、日車ッ……!」
ミスミ・コミュニティ。いちこにとって、最も不快で反りの合わない集団。
彼らにいちこを預けた二老人の意図は、一体全体どこにあるのか……
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