風の便り
わびすけは相変わらず、ミスミ公園を取り巻く杉林の木々を飛び回り疾走していた。
来た道から斜めに大きく逸れ、目指すは林一番の、そして灰色の町にある凡ゆる建造物を優に超える高さを誇る巨木。そこがわびすけの寝床であった。
訪れるのは五年前にケヤキ通りで「ある問題」を起こして町を離れて以来のことで、さらに伸びているかも知れないし、やたらと葉が付いて寝苦しくなっているかも知れない。
時刻は夕暮れ。夜までに寝支度を整えてしまいたいわびすけは一段とペースを上げ、
わびすけが蹴った木は大きく揺れて、葉が落ち、枝が折れ、そこに住まう鳥や虫たちが皆叩き起こされてけたたましく喚き出す。
林に喧騒を生み出しながら走っていたわびすけはしかし、行く先に自分以外の気配を感じて即座に足を止めた。
そして静かにそれに忍び寄り、樹上から様子を伺った。
「山里、しっかりしろ! もうちょっとで着くからな!」
「あぁ……すまん」
町医者の元へ向かう、イレズミの二人組だった。
わびすけに毒入りぜんざいを食わせようとして腕を落とされた山里は、いちこに名指しされて群れを飛び出た青年の背中の上で、朦朧とする意識をどうにか保っていた。
わびすけは再び勢い良く木を蹴り、二人の前に降り立った。
「うわぁっ!?」
突然鼠色の塊が目の前に落ちて来たので、青年は口から心臓が飛び出さんばかりに驚き、山里を乗せた背を下にして転びそうになったが、何とか堪えた。
「お、おまっ……おま、お前は……!」
「まァ、まァ、落ち着け。大丈夫だ」
わびすけは慌てふためく青年を両手を上げて宥めつつも、顔は相変わらずの無表情である。青年を虫の息にした張本人であるにも関わらず。
「な、何の用だ! 俺たちを殺そうってんなら……!」
「落ち着けって。何も持ってねーだろお前ら。用は今話すから、黙って聞け。聞いたらすぐ行け。後ろの奴、相当弱ってるだろ」
青年は衰弱の余り怯える様子さえ見せない山里を横目に見て、再びわびすけに向き直った。
「すぐ言え。時間がねぇんだ……!」
「分かった。まずさっき人質に取られてた子だけど、俺が掻っ攫って連れ出した」
「んなっ……!?」
「で、お前らんとこに預けて来たから」
「え、えぇっ!?」
「俺を引き摺り出したいなら、またあの子を人質にでもすりゃいいけど……」
「な、何を言って……!」
わびすけは青年から目線を外して首を傾げ、山里の目を見て言った。
「どうする?」
山里は小刻みに震えながらもわびすけの目をキッと見返して、力の限り言い切った。
「そんな汚いマネ、俺たちがするかっ……」
わびすけは、片頬でニヤリと笑った。
「だよな」
そしてゴソゴソと懐を弄り、何か薄茶色の液体が入った小さな瓶を取り出して、無造作な手つきで青年に差し出した。
「そいつに飲ませろ」
「な、なんだ、これ」
「気付け薬」
「気付け……?」
「疑うなら捨てろ。どの道お前の足じゃそいつ、町医者んとこまで持たねーぞ」
わびすけは青年に無理やり瓶を押し付けるとまた懐を弄り、曲刀とワイヤーロープを取り出して取り付け、手近な木に投げつけて引っ掛けた。
「この先はちょっとややこしいけど、もうちょい行けば教会のモニュメントが見える。そこ目指して、真っ直ぐ走れ。じゃあな」
「あっ、ああ……?」
そしてまた、呆気に取られる青年の返答を待たず、顔も見ずにスルスルとロープを巻き取って木に登ると、風のように去って行った。
「何なんだ、一体……」
「おい……それ、飲ませてくれ……」
「えっ、い、いいのか? 大丈夫か?」
「いい……あいつは、あいつらは……」
山里は俯き、重々しく言った。
「俺とは違う」
青年は悔しげに唇を噛み締める山里の横顔を見て、やり切れない思いがした。
腹を決め、わびすけから受け取った瓶の蓋を開けた。何とも言えない刺激臭が鼻を突く。
「……よしっ。飲めっ」
「あぁ……すまん」
青年は瓶の口を山里の口に当てがい、底を持ち上げる。液体が、山里の口に流れ込んだ。
途端、山里が目をカッと見開き、呻いた。
「ングッ……!?」
「ど、どうした山里ッ! 大丈……」
山里は、慌てて薬を吐かせようとした青年を首を振って制し、顔を皺くちゃにしながらも、どうにかこうにかそれを飲み込んだ。
「大丈夫かっ!? 山里……」
山里は肩でゼェゼェと息をし、やがて少し赤みを取り戻した顔を上げ、舌を出して呟いた。
「にっっっが……」
「なっ、何だよっ! びっくりさせんな馬鹿っ! ……ったく」
若者は気を取直し、山里を背負い直して前を向いた。
「……よしっ、行くぞっ! 協会のモニュメントを見て真っ直ぐ! モニュメントを見て真っ直ぐっ!」
♦︎
わびすけは、結局五年間殆ど姿を変えていなかった巨木に寝そべって町の灯りを眺めながら、物思いに耽る。
帰ってすぐに取り戻した、「ネズミ」と呼ばれ追い回される日々。変わらない自分。変わらない町。
しかしいちこまで帰って来てしまい、自分も早速らしくないことをした。
ほんのひと月ほど前の夜、自分といちこが、それぞれ純白と薄紅色のシャツに身を包み、同じベッドに隣同士で寝そべり交わした、最後の会話を思い出す。
『やっぱ俺、こういうの向いてねーわ』
『は? 何よ、こういうのって』
『今日は外で寝る』
『え、ちょっと……フン、何よ。勝手にしなさい』
その後、あの部屋には帰らなかった。
自分といちこがいると、この町は変わってしまうような気がする。
それが良いことなのか悪いことなのかは分からないが、わびすけには何となく不満だった。
わびすけはぼんやりと、ケヤキ通りの辺りに目をやる。
やっぱり、もう少しここにいようと思った。
冷たい夜風に、不本意な変容の気配を感じながら。
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