紅の少女
……時は、伝説の総裁・錦戸しげるが暗殺される三年前に遡る。
都の外れに位置する「
先を行く男は顎髭が濃く、後を行く男は口髭が濃い。
「
「なんじゃ、
「本当にこっちで合っとるんだろうな?」
「間違いないわい。昔通った道じゃ、ハッキリ覚えとる」
「本当か? 全然着かんじゃないか、全く……」
野茨と日車はある男の頼みを受け、風神峠を登っている最中だった。
一月ほど前に、彼の馴染みの「おとめ」という売春婦が悪名高き赤毛のイレズミ「
鬱蒼とした森に阻まれた獣道を、二人は歩き続ける。
先を行く野茨の背に向かって、後ろから続く日車がぼやいた。
「ボケて忘れたんじゃないのか? お前、もう大概ジジイじゃからなぁ」
「お前もジジイじゃろうが! むっ……それ見ろ日車っ、あったぞ!」
野茨が歓喜の声を上げつつ、二人の歩いて来た道とは少し逸れた所にある開けた場所を指差した。
そこに見えたのは、古びた小屋。物干し竿には、大小の女物の服が数枚はためいている。
「おぉ、奇跡じゃ……! お天道様、どうもありがとう……」
「何が奇跡じゃこのクソジジイ! お天道様でなく儂に感謝せんか!」
「あぁ、すまんすまん……ん? おい、野茨」
「なんじゃ、全く……あっ」
日車が指差したのは、よく整備された峠道。
それは二人を散々苦労させてきた鬱蒼と茂る森の脇を這うように伸び、ずっと麓の方まで続いていた。
野茨、とりあえず黙り込む。
「クソジジイはお前じゃったのう」
「う、うるさいわいっ! 案内させておいて贅沢言いおって! 着いたんじゃからええじゃろうが!」
「おうおう、その辺にしとけ。直に椿のやつとやり合うんじゃ。怒りは奴にとっておくんじゃな」
「チッ、抜かしおる……」
二人は軽口を叩き合いつつ小屋へと歩を進めていったが、物干し竿の側まで付いた所で二人同時に黙り込み、目を見開き立ち止まった。
強烈な血の臭いを感じたのだ。
「野茨……!」
「うむっ、踏み込むぞ、日車ッ!」
「応ッ!」
息を揃えて扉まで駆け寄ると日車が素早く扉を開き、同時に野茨が懐に手を差し込みつつ、鬼の形相で踏み込んだ。
「何事じゃッ! ウッ……!」
「どうした野茨! なっ……!?」
二人は、眼前の光景に言葉を失った。
小屋の中は、惨劇であった。
床一面に広がる血の海。そこに光のない目を見開いたまま横たわる、男と女。
女は衣服を激しく乱し、大きく裂けた喉笛と口から血を流している。
赤毛の男は半裸で、全身の至る所に付けられた無数の刺し傷から流血している。肩から胸にかけて彫られた刺青は、刺し傷によって激しく損壊し意匠が判然としない。
「おとめ」も「椿」も、とうに息絶えているのは一目瞭然であった。
それだけでは無かった。
血の海の中心に、全身に返り血を浴び、血塗れの短刀を右手に握り締めた少女が、呆然と突っ立っている。
少女は突然踏み込んで来た二人を、横たわる二人と変わらない光のない目で、ぼんやりと見つめていた。
二人も暫し唖然として立ち尽くし少女と見つめ合っていたが、やがて冷静さを取り戻し、野茨が日車に目で合図をした。
日車が頷くと、野茨は少女にゆっくりと歩み寄りつつ、声を掛けた。
「嬢ちゃん、大丈夫か……怪我はないか?」
「……大丈夫」
少女は意外なほどすぐに返答したが、余りに低く、無機質で、抑揚のない声であった。
野茨は少女のすぐ側まで近寄ると右手を掴み、血塗れの短刀を取ろうとした。
が、野茨は慄然とした。少女の力は余りに強く、指一本剥がすことができないのだ。
異常を察した日車が、野茨の背に声を掛けた。
「野茨っ、どうした」
「……大丈夫じゃ」
野茨は、少女の右手を抑えつつも短刀を取るのは一旦諦め、少女に目線を合わせるようにしゃがみ込み、優しく語りかけた。
「嬢ちゃん、何があった? 言ってごらん」
「……お爺ちゃん、誰?」
「儂はな……そこで倒れている女の人の友人の、そのまた友人だ」
「遊びに来たの?」
「いや……そこに倒れとる男のことで、彼女が困っとると聞いてな。助けを頼まれたんじゃ」
野茨は質問に答えない少女に怒らず、返される質問に対して率直に答え続けた。
短刀を握り締めた少女の指の力が少し緩んだように感じたが、まだそれを取ろうとはせず、少女の目を見て、努めて優しく質問を繰り返す。
「何があった? 儂で良ければ、話してくれんかの」
「……あの女の人はね」
「うん?」
「私のお母さんなの……」
「……そうか」
野茨はある程度予想していたとは言え、少なからず胸に痛みを感じた。後ろで見守る日車も同様であった。
少女は虚ろな目のまま、淡々と語り続ける。
「それで私、さっきまで出掛けてて、帰って来たら……この男の人がいたの」
「そうか……」
そこまで聞いて、野茨も日車も全てを察した。
「それでね……それで、お母さんが倒れてて……」
「うん、うん」
「私、怒って、この人のこと殺しちゃったの……」
少女が、小さく震え出した。
野茨はこれ以上言わせまいと、少女の頭を撫でつつ声を掛けた。
「そうか、そうか……辛かったな。よく話してくれた」
「それで、それで……」
「もういい、もういい……よく分かった」
野茨は少女の肩を強く握り、しっかりとその目を見て、言った。
「いいか嬢ちゃん……自分を責めるな。君はのう……正しいことをしたんじゃ。悪い奴をやっつけたんじゃ」
「悪い奴……?」
「そうとも。君のお母さんを殺した奴を、君がやっつけたんじゃから」
野茨は少女を勇気付けようと言葉を尽くしたが、少女は依然として虚ろな目を野茨の目に向けた。
余りの絶望の色に尻込む野茨に向かって、彼女はまた淡々と語り出した。
「この人、お母さんを殺してないよ」
「何……? どういうことじゃ」
「お母さん、殴られて倒れてただけだったの」
野茨は続く言葉の予想が付かず、少し日車を振り返った。日車もまた事態を掴みかねて首を振り、続きを聞くよう促した。
少女はそんな二人が見えていないかのように、淡々と語り続けた。
「お母さん、目が覚めて……倒れてるその人見てね、私がこの人のこと殺したって、分かって、叫び出して……」
少女の震えが激しくなり、淡々とした声にも震えが混じる。
「『その人は、あんたのお父さんなのよ』って言って……」
「なっ……!?」
野茨と日車は思わず息を止め、大きく目を剥いた。
「それで喉切って……死んじゃったの」
少女の震えはピタリと止んだ。しかしその肩と、右手を握る野茨の腕は震え続けていた。震えていたのは、野茨自身だった。
「なんと……」
日車が拳を握り締めて俯きつつ、ポツリと漏らした。
「お爺ちゃん」
衝撃に打ち震える野茨の目を真っ直ぐに見つめて、少女が言う。
「なんじゃ。どうしたっ?」
「お母さんが死んじゃったのは……」
虚ろな目から血濡れの頬に、一筋の涙が伝った。
「私のせいなの?」
少女の悲しみが、野茨に流れ込んだ。
年甲斐もなく、滝のような涙を流した。
無意識に少女の右手を離し、両手で懸命にその肩を摩りつつ、懸命に慰めの言葉を探した。しかし、どうしてもうまく言い表せない。
「違うとも……そんな筈がなかろう! 君は、君は何も悪くない。悪いのはなぁ、悪いのは……」
少女は、突然力を失った。
握り締めていた血塗れの短刀をポロリと落とし、野茨の胸に倒れこんだ。
野茨は慌てて少女を抱き止め、必死でその背を摩りつつ声を掛けた。日車も後ろから駆け寄る。
「嬢ちゃんっ、大丈夫か! しっかりせい! おいっ!」
日車は努めて冷静に、少女の脈を取った。
一方の野茨は気が動転し、まだ叫び続けていた。
「嬢ちゃんっ、嬢ちゃん!」
「落ち着け野茨! 気を失っとるだけじゃ!」
「嬢ちゃん……おぉ……」
野茨は、父と母の血に
自分が、もっと早く辿り着いてさえいれば!
……やがて正気を取り戻した野茨は、隣で瞑目していた日車に声をかけた。
「……日車」
「なんじゃ、野茨」
「この子、名は何と言った」
日車はその問いに、野茨の意図を掴んだ。
「『いちこ』と言ったかのう」
「いちこ……」
「まだ五つだったはずじゃ」
「年の割に、背が高いのう……」
「うむ。まだまだ大きゅうなるぞ、この子は」
よく見れば少女の真っ赤な髪は、返り血に濡れているわけではなかった。それは父に似た、燃えるような赤毛であった。
野茨はその日、二度とこの子を泣かせまいと誓い、忠実に守り続けた。
十年後、自身よりずっと強く、大きくなり、わびすけと共にケヤキ通りで「ある問題」を起こし、自らの手を離れるその日まで。
それからさらに五年、現在。いちこは帰って来た。
灰色の町の中心、ホームレスの溜まり場・ミスミ公園の片隅で、杉木を背にして眠っている。その寝顔から、野茨は目を離せずにいた。
いちこの頬に、一筋の涙が伝っていたからだ。
いちこや。
なぜ帰って来た。
わびすけと何があった。
喧嘩でもしたか。
なぜ泣いておる。
聞きたいことが、山ほどあった。
灰色の町の夜が更ける。
野茨は、十五年前にあれだけ強く打ち立てた誓いを破った己を恥じていた。
日車は、いちこが寄りかかる杉木の上でシケモクを咥え寝ずの番に立ち、素知らぬ顔で夜空に煙を浮かべていた。
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