第一章

嵐の前

先生と生徒

 夜、灰色の町、どこかの路地裏。

 路上に座り込み、何か小さな黒い塊を懐に抱いて撫でくりまわす、薄汚い初老の男が一人。


 その男の様子を見て、二人の若者が眉を顰めた。


「うわっ、黒猫ですか? よく触れますね、そんな不吉な……」


 煤だらけの白いシャツの上に焦茶色のベストを着た大柄でが、男の懐を覗き込んで無邪気に嫌悪感を示した。

 そして小太りのやや後ろにいる、ワインレッドのキャスケット帽と黄土色のニットジャケットに、申し訳程度に煤を付けた中肉中背の優男がそれに同調するように、気取った調子で腕を組んで言った。


「そうですよ。やめて下さい、先生」


 「先生」と呼ばれたその薄汚い男は二人の若者に応じるように、「よいしょ」と声を上げつつ重たそうに腰を上げた。

 立ち上がってみると先生は長身で、大柄な小太りよりもさらに頭一つ分大きい。顔も大きいが、歳のせいかやや生え際が後退しただだっ広い額が、その面積の三分の一ほどを占め、その上に縮れた短い黒髪が生えている。

 ベージュの肌着の上に紺色の半纏はんてんを羽織り、若者二人とは比べ物にならない量の煤と泥を、服のみならず全身にこれでもかと塗りたくっている。


 先生は懐に抱いた黒猫から視線を移さず、片手間のようにまず小太りに声を掛ける。


君ねぇ、そういう根拠のない迷信に囚われてると損だよ。思い切って抱き上げてみれば、こんなに可愛い生き物はいないのに。ね?」

「わっ……」


 先生は小太りの方・大賀に向かって黒猫を差し出した。黒猫はその丸い瞳で大賀の目を見ながら、にゃあ、と鳴いた。

 大賀は思わず目を細め頬を緩めて、黒猫を先生の手から受け取って自身の懐に抱き寄せる。黒猫は大賀の顔を見上げて、にゃあ、にゃあ、と二度、甘えるように鳴き、次いでゴロゴロと喉を鳴らした。


「か、可愛い……」

「だろ〜? くっふっふっ……」


 先生は予想通りの反応を見せた大賀に向かって、踏ん反り返り得意げに笑った。奇妙な笑い方である。


「それと……」


 が、その態度は優男の方を見ると突如として一変した。


「君は『損』じゃあ済まないなぁ? ……」

「なっ……?」


 心底呆れ果てたような視線と口調をもって話し掛けられた優男・わたるは余程心外だったようで、先生に対して必死に反論を試みた。


「僕は同意しただけじゃないですか!」

「ハァ〜〜〜〜ッ……」


 先生は聞こえよがしに大きなため息をついて首を振り、わたるに詰め寄りまくし立てた。


「尚更だ。そういう安易で無責任な同意がいっっっっっ……ちばん駄目だ。迷信とは偏見の一種だ。偏見には必ず犠牲者が存在する」


 そこで先生はクルリと身を翻し、一転して優しい口調で大賀に問いかけた。


「さぁ大賀君? 今回、わたるの安易で無責任極まりない同意によって犠牲になった物は何だ?」

「えっ……」


 鈍重な大賀は突然の問いかけに戸惑いながらも、自身の懐に感じる温かみと、そこから鳴るゴロゴロという音に助けられ、どうにか答えを導き出した。


「く、黒猫?」

「そう!」


 先生はニコリと笑ってスキップしながら大賀に駆け寄るとその懐から黒猫を奪い取り、にゃー、と鳴く猫に頬擦りし愛撫した。


「このキュゥ〜〜〜〜トな黒猫チャンだ……お〜よちよち……」


 そしてまた一転して、わたるの目を冷たく睨む。


「この罪深さが分かるな、わたる?」


 わたるは顔を真っ赤にして反抗した。


「いやだから、僕は同意しただけでしょう! そう言うなら、より罪が深いのは大賀です。大賀を僕より強めに叱らなきゃ、筋が通りません!」

「全く……いつになったら成長するのやら!」

「はぁ!?」


 先生は黒猫を捧げ持ってすり足で素早くわたるに詰め寄り、先ほどよりも強い怒気をこめてまくし立てる。


「いいか! こういう黒猫チャンにこそ注意を払うのが政治家の役割だと言ってるんだ! 無垢な大衆が悪気なく傷つける者を守るのが政治家! そ〜んな迷信を無批判に頭に入れてしまってるようじゃ君……無垢な大衆と思考回路が全く同じじゃないか! 耳と脳が直結してるようじゃ話にならん!

 あぁ……今までの教育は一体何だったのやら……情けない、情けない……僕に君の後を託された亡きお父上に何と詫びたら……」


 やたらと眉を下げて首を捻ったり、天を仰いでだだっ広い額をペチンと叩いて嘆息したり、いちいち大げさな身振り手振りを交えつつ執拗に自身を責め立てる先生のうざったさに、遂にわたるは我慢の限界を迎えた。


「あぁーーーーもうっ! うるさい、うるさーいっ!」


 先生は少し後ずさって黒猫を胸元に抱き寄せ、目をパチクリさせ口をあんぐりと開け、首を小さく左右に振りつつ言った。


「んまっ……何っって聞き分けのない……」

「そんな下らないことで父のことまで持ち出されては堪りません! 先を行かせて頂きますっ!」


 わたるは肩を怒らせてぷいと先生に背を向け、夜道をずんずんと歩き始めた。


「やれやれ……困ったもんだ」


 先生は黒猫をまた大賀の懐に戻しつつ、わたるの背中に苦笑を投げつつ言った。


「先生、言い過ぎですよ……むっ!? 先生、失礼っ!」

「うおぉっ!?」


 何かに勘付いた大賀は突然目を鋭くし、受け取った黒猫を放り投げて先生を突き飛ばした。

 先生は叫びつつ背中から地面にゴロリと転がり、黒猫はにゃあ〜と悲しげに泣いてそのまま暗闇へと駆け込んで消えて行った。


 その先は、わたるの歩いて行った先。


「ひいぃっ……! 先生ぇ!!」

「わたるっ!」


 情けない声を上げながら慌てて引き返して来たわたるが、黒猫を飛び越え、倒れ込んでいる先生に飛び付く。

 先生はわたるの後ろから忍び寄る黒い人影に気付くとすぐさま起き上がり、わたるを抱き寄せて自身の背後に回し、打って変わって緊迫した声色で大賀に呼び掛けた。


「大賀君っ、大丈夫かっ!」

「大丈夫です……先生、こいつら……」


 大賀は、ボロを纏い顔を包帯で覆った男のナイフを握った腕を捻り上げつつ、阿修羅のような険しい表情で周囲を睨んでいた。

 先生も目を凝らして辺りを見渡し、素っ頓狂な声をあげた。


「ほぉう……?」


 三人の立つ路地の両側に立つ灰色の家々の屋根や塀には、大賀が捻り上げている男と同じくボロを纏って顔を包帯で覆い、その手に白刃を煌めかせる男達が十人ほど立っていた。

 彼らは包帯の隙間から覗く目に殺気を充満させて先生を睨んでいる。


 先生はニヤリと不敵に笑いつつ、彼らに向かってやけに親しげに声を掛けた。


「これはこれは……『終末派しゅうまつは』のお歴々。この薄汚い浮浪者に、何か御用ですかな?」


 包帯の男の一人が、先生の問い掛けを無視して問い質す。


だな」

「ツツジ……? 人違いじゃありませんかな」

「惚けても無駄だ。とうに調べは付いている。いくら浮浪者でも、そこまでこれ見よがしに煤や泥を全身に塗りたくった奴はおらん」

「ほっ?」


 先生は自身の半纏や腕をキョロキョロと見回すとニンマリと笑い、泥だらけの額をピシャリと叩いて言った。


「か〜っ、成る程奥が深いっ! これはしたり、僕としたことが……いやぁ〜参った参った」

「先生のせいじゃないですかっ……」


 先生の背後にピタリとくっ付くわたるが、恐怖にブルブルと震えつつ恨めしげになじる。

 先生はそれを受けて軽く振り向くと、わたるの目を見て「んん、加減ってむつかしいねぇ」とあっけらかんと言ってのける。


「認めるのだな」


 追求するのは、またも先ほどの男。どうやらこの男が、この集団の代表のようだ。

 先生は再度わたるからこの男に視線を戻すと、取り囲む全員に聞こえるように堂々と名乗った。


「あぁ、認めようとも。如何にも僕が『ヤマト共和国』初代総裁政府、元大臣首座。躑躅ツツジれんぞう。

 ……改め、今や官職の一切を辞して都と町を行ったり来たりして、見所のある若者に教育を施す日々を送る一介の民間教育家、人呼んで『ツツジ先生』だ。以後、よろしくね」


 剥き出しの敵意を向ける集団を前にして、怯む様子を見せないどころか極めて楽しげに語るに対して、代表の男は包帯の隙間から怪訝な視線を送る。


「民間教育家だと……? 貴様は現政府の顧問で、町長・五台ごだいとも散々密会を重ねているだろう。調べは付いていると言ったのを忘れたか。この期に及んで見苦しい嘘を吐きおって、政府の犬め」


 吐き捨てるような男の口調に対してツツジは額をポリポリと中指で掻き、苦笑を混じえて答える。


「くっふっふ、顧問か……全く。そんなものはねぇ、今の政府の子たちがあんまり未熟なもんだから好意で色々と指導してやってる内に、勝手にそう呼ぶ者が出ただけの話だよ。

 五台町長との面会は、可愛い弟子たちに教育を施すための謂わば。別に隠しちゃいないしその必要もないのに、『密会』とはおかしいね。

 君たちももういい大人なんだから、言葉はもう少し正しく使ったらどうだね」


 代表の男はあくまで余裕の態度を崩さないツツジに苛立ちを募らせた様子で、やや声を震わせつつ言った。


「フン、口先ばかりよく回る……どの道、終末に教育など不要だ。これ以上貴様のような小賢しい軟弱者を増やさん為にもここで消してやる。総員、構えろ……」

「ひっ……!」


 男の合図で、ツツジたちを取り巻く終末派が一斉に武器を構えた。

 ツツジは背中に隠れるわたるの怯えた声を聞きつつ、尚も泰然として笑う。


「くっふっふっふ……」

「貴様……何がおかしい」

「何がおかしいって君たち。くふっ、『教育など不要』と言う割に、妙に肩肘張った話し方をするもんだから……くっふっふ、おかしい」

「せ、先生っ……や、やめて下さいよぉ……」


 怒りに身を打ち震わせるのは、代表の男だけでない。取り囲む全員の殺意が増幅していくのを敏感に感じ取ったわたるが、心底可笑しそうに笑うツツジの半纏はんてんの袖を掴んで懇願した。


「くっふっふ……いや失礼、ゴホン。悪気はないんだ」


 ツツジは片手でわたるを制しつつ、再び代表の男に真っ直ぐ顔を向け、言った。


「無教養を恥じる気持ちが、終末派にもあるんだと思ってね」

「何だと……」


 代表の男がギリギリと歯軋りをしつつ、腰にいた刀に手を掛けた。が、ツツジは挑発をやめない。


「素直になって教えを乞うなら今からでも遅くはない。先生、もしくはツツジ先生と呼びなさい。それで弟子入りは完了だ」

「せ、先生ぇ……やめ……」

「もう良い。聞き飽きたッ!」


 男が佩刀はいとうを抜き去ると、その他の面々も一斉に腰を据え身構えた。


「若造二人に恨みは無いが、禍根を残せば面倒だ……揃って死ね」

「ひいぃっ……、先生ぇ……」


 わたるの震えが一層強くなる。ツツジは、横目に大賀をチラリと見た。大賀も先生と視線を合わせて頬を緩め、コクリと頷く。


「だとさ、大賀くん」

「またおかしいですねぇ」

「あぁ……全くおかしい」


 ツツジが半纏はんてんの袖から鎖鎌をスルリと取り出すと、大賀は捻り上げていた敵の頭を、片手で鷲掴みにした。

 敵はやかしく喚き散らしつつ必死で身をよじって抵抗したが、次の瞬間、ゴキッ、と嫌な音が鳴り、敵の顔は本来あるべき方向と真逆を向いた。

 人形のように動かなくなったそれを大賀が地面へ投げ出し、周囲の敵を鋭く睨み付ける。


 敵の腰が明らかに引けたのを見透かしたツツジが、一転して冷厳な口調で呟いた。


「こっちのセリフだよな、それは」



 ♦︎



「いやらぁぁぁぁぁああッ!! ごべんなさいごべんださいやべでやべでぇぇえええええッ!!」

「結構トシだねぇ、君」


 顔の包帯を悉く引っぺがされた刺客たちの骸がゴロゴロと転がる路地裏にて、先程まで大見得を切っていた代表の男の惨めな絶叫がこだまする。


 腹這いに倒れた男の背には大賀がのしかかっており、その顔の包帯は散乱した骸と同様引っぺがされ、深くシワの刻まれた顔が露わになっていた。凡そ四十から五十程度に見える。

 路地にしゃがんでその顔を覗き込むツツジが、男の首筋に鎌を当てがいつつ、冷然と言う。


「君のような駄目な年寄りが、この町の若者から希望を奪うのさ」

「えっ、や、やめっ……つ、つ、ツツジ先生ッ! しぇんしぇ……」


 ツツジは、何の躊躇いもなく鎌を引いた。男の喉から迸った血が路地にバタバタと落ち、見苦しい絶叫も止む。ツツジはやれやれ、と一人愚痴りながら腰を叩きながら起き上がり、静かになった路地にて大きく伸びをした。


「んーーーっ……素晴らしいっ! 大賀君はほんっと、見かけによらず良く戦うよねぇ」

「いやいやそんな……えへへ……」

「謙遜謙遜! ……ハァ、それに引き換えわた……」

「先行きますよ、ツツジ先生」


 わたるは先程までの怯えぶりが嘘だったかのように早くも気取った調子を取り戻し、夜道を先へ先へと歩き出した。

 ……ツツジはその背を見て、わなわなと震える。


「はぁーーーーーっ! ほんっっっ……と困ったもんだ!」


 躑躅ツツジれんぞう。

 伝説の総裁・錦戸しげるに見出されて大臣に抜擢され辣腕を振るい、錦戸を伝説の総裁たらしめた「怜悧なる切れ者」と名高い。錦戸亡き今、都でも町でも、一番の有名人と言えば誰でも彼の名を挙げる程の大物である。


 錦戸暗殺の際に共に壇上にあった彼はその後十五年、抜け殻のようになって隠遁生活を送っていたが、ここ最近になって別人のような変貌ぶりを見せ、この灰色の町に頻繁に足を運ぶようになっていた。


 彼の狙いは何なのか。

 その登場はこの後、町の趨勢にどのような影響を与えるのか。

 人々は固唾を呑み、その動向を見守っている。

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