ケヤキ通りの別れ
ケヤキ通り。
通りに並ぶ家々は、その悉くが灰色。
これは灰色の町の別区画とも、町の中心に位置する「サザンカ通り」とも変わらない。
こじんまりとして、中心から東西南北どちらへ歩いても、ものの数分で別区画、もしくは町の外へと抜けてしまう。
しかしどこか、行き交う人々に活気がある。
日雇い労働者に売春婦、胡散臭いチンピラ、ホームレス、ボランティアか物見遊山か分からない、小綺麗な格好をした都の人々。そして、イレズミ。
様々な人々が明らかにそれと分かる格好で渾然一体となって通りを歩き、すれ違う度に互いの姿をいちいち確認しもせずに、それぞれの言葉で「ご苦労さま」と挨拶を交わす。
夕暮れの中、わびすけとたまは杉林の茂みに二人並んで身を潜め、そんな通りを眺めていた。
「良いところですねぇ」
たまは目を細めてしんみりと、囁くように言った。
わびすけは頬杖を突いて暫く沈黙し、やがて無愛想に言った。
「ボランティアだか何だか知らないけど町に来るなら、せめてここぐらいは知っといた方がいいよ」
「ふふっ……すみません。私、思い立ったらすぐ動いちゃうから……次からは気をつけます」
……「次からは」。
その言葉を口にした時、たまはわびすけの返答を予想し、不安を覚えた。
「もう町には来ない方がいい」
予想通りの言葉を、わびすけは口にした。
「……どうしてですか」
それでもたまは、なぜだか聞かずにいられなかった。
わびすけは首にかかる白髪に手ぐしを入れながら、淡々と語った。
「今日一日で散々味わったろ。そういう所だよ、ここは。
あんまこんなこと言いたくないけど、不用心に来た割にはマシに済んだ方だと思う。言っとくけどあんな程度の悪党、この町じゃ可愛いもんだよ」
たまは、わびすけはもう自分が何を言ってほしいのか全て分かった上で、淡々と真実を語っているのだと思った。
杉林での会話の中で、わびすけという人の核心に至る部分は何も聞けなかったし、聞かせてもらえなかったが、それでもたまは、わびすけの人となりをある程度分かったつもりでいた。
たまは質問を続けた。
「わびすけさんはじゃあ、どうしてここにいるんですか」
「俺はまぁ……」
わびすけは少し俯き、寂しそうに、自嘲の笑みを浮かべる。
「どう足掻いたって、ここの人間だからじゃないの」
たまは、胸が締め付けられる想いがした。一体彼は、どんな過去を背負っているのか。
聞きたい。聞きたいのに、核心に迫ることは決して教えてもらえない。
「分かんないです……」
たまは精一杯の不満を口にした。それを受けたわびすけは、あえて突き放すようにそっぽを向き、冷たく言った。
「だろうね」
沈黙。
この会話が終われば、たまはこの茂みを出て、目の前の通りに出ることになる。それが今の彼女には、堪らなく嫌だった。
何か言葉を絞り出そうと必死に頭を悩ませるが、適当な言葉が見つからない。
わびすけが遂に、そんなたまの煩悶を打ち切った。
「じゃ。俺、そろそろ行くから」
「えっ、えっ……」
わびすけは、悲痛な表情で自身の横顔を見るたまと目も合わせず立ち上がり、そのまま立ち去ろうとした。
たまは、わびすけの伸び切ったパーカーの袖に取り縋った。咄嗟の行動だった。
「何……」
「待ってください……」
「もう、やめてよ。怒るよ流石に」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
わびすけが心にもないことを言っているのは手に取るように分かる。それでも必死に引き留めるたま。
無意味なことだと知っていても、そうせずにはいられなかった。
「見つかったらまずいんだよ。詳しくは言えないけど俺、恨まれてんだ。ここのイレズミに……」
また、話したくもないことを話させてしまった。迷惑ばかりかけている。
たまは唇を噛み締めて、ようやくわびすけのパーカーの袖から手を離した。
わびすけは小さくため息を付き、懐に手を入れてごそごそと準備を始めた。
たまは、押し黙ってその様子を眺めている。何か言いたい。せめて笑顔で別れたかった。
「あっ!? あいつ……!」
たまの背後、ケヤキ通りの方から突然声が聞こえた。
振り返ると、一人の若いイレズミが茂みから立ち上がったわびすけを真っ赤な顔で睨み、わなわなと震えている。
そして周囲のイレズミ達に向かって、怒号を発した。
「ネズミだあっ! あの野郎がいたぞお前らぁーーーーッ!!」
「な、何ィっ!?」
「おい、誰か親分に……」
「その前に行くぞっ! 捕まえろォッ!!」
通りのイレズミ達は口々に言い合いながら、次々とこちらへ向かって殺到して来る。
自分のせいだ。たまは震えて、わびすけの顔を見上げた。
わびすけは連中を無表情に睨みつつ、既に懐から取り出していた曲刀の柄頭に、手慣れた動作でワイヤーロープを取り付けた。
「わびすけさん……! ごめんなさい……」
「いいよ、大丈夫」
わびすけは罪悪感に押し潰されそうなたまの謝罪に事もなげに応じつつ、手慣れた動作で手近な杉木の枝に曲刀を放り投げて引っ掛けた。
そうして退散の準備を整えると
「じゃあね。もう来ちゃ駄目だよ」
「あの、何かお礼をっ……きっといつか……」
「もう貰った」
「へっ、な、何のこと……」
今にも泣き出しそうな声で別れを惜しむたまに、わびすけは最後に振り返った。
悲しみを湛えた大きな目を少し細め、優しく微笑んでいた。
信じ難いほど、柔らかな笑顔だった。言葉を失うたまに、穏やかに言った。
「じゃあ、また持って来てよ。もうちょっと、町が静かになったらさ」
そう言うとわびすけはまた前を向き、ワイヤーロープを巻き取って杉木の枝へと飛び上がり、また猿のように木から木へと飛び移って、瞬く間に遠く消えていった。
たまは一人、茂みの中に取り残された。
そこへイレズミ達が飛び込んで来て、憎悪の篭った口調で口々に喚く。
「くっそ、あのガキ、逃げやがったか!」
「逃げ足のはえぇドブネズミが……」
その内の一人が、呆然と跪くたまに気づき、声をかけた。
「ん……? お、おい姉ちゃん! どうしたあんた、大丈夫か!?」
別のイレズミ達もそれに続いてたまに気付き、次々と声をかけて来た。
「なんだ? うおっ、本当だ! どうした姉ちゃん!」
「えらく汚れちまって……何があった?」
「まさか、あいつに襲われたのか!? 可哀想に……おい、大丈夫か、姉ちゃん!」
たまはぼんやりと、杉林の中で聞いたわびすけの言葉を思い出した。
『たまさんみたいな人には優しいんだよ、あいつらは』
「曙光会」。ケヤキ通りをナワバリとするイレズミだとわびすけは言っていた。たまは彼らに向き直り、小さく応じた。
「大丈夫、です……」
♦︎
それから、イレズミ達は二手に別れた。
一方はたまをケヤキ通りにある、都の住人を無償で宿泊させ、幌馬車の運賃を提供して送り返す宿へ送り届ける役目を負い、もう一方は逃げ去ったわびすけを追跡した。
たまは夕暮れのケヤキ通りを曙光会の護衛を受けて歩きつつ、前を歩く二人のイレズミの会話をぼんやりと聞いていた。
「
「あぁ、そうだな……」
「『青酸カリ』だったか? あいつが手に入れたあのアーモンド臭ぇ毒……」
「確かそうだ。随分意気込んでたなぁ、あの野郎」
「ネズミがここへ来たとこ見ると、しくじったな」
「クソッ、あいつ、無事ならいいんだが……」
「アーモンド臭かったから」って、そういうことか。たまは漸く悟った。
歩きながら、杉林を方を何度か見た。こっそりどこかの木から、わびすけが手でも振ってやいないかと期待した。
明日の朝にはきっと彼に言われた通り、幌馬車に乗って都へ帰る。
『もうちょっと、町が静かになったらさ』
果たして、そんな日が来るだろうか?
来て欲しいなぁ、とたまは強く思った。
散々な一日だった。
しかし今、たまの心を満たしているのは、小さな背中の温もりと、二人分の体重で踏み締めた落ち葉の音。
そしてぎこちなく交わした、幾つかの会話。
たまは切ない胸の痛みを堪えきれず、少しだけ泣いた。
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