杉林を行く

「あ、あの……」

「舌噛むよ」

「あっ……すいません」


 ミスミ公園を取り巻く杉林を、木から木へと猿のように飛び移りつつ進むわびすけ。

 そしてその脇に物のように抱えられる、先程までイレズミの人質だった「ぜんざいの女性」。


 彼女は内心、この状況に凄まじい不安を感じていた。無理もない。

 彼女からすればわびすけは、


 突然公園にフラリと現れ、

 炊き出しを提供していた自分と最前列に並んでいた「ちょっと怪しいハンチングの人」に声をかけるだけかけてまたフラリと消え、

 消えた先でまた会ったらしいハンチングの人がくれたぜんざいが「アーモンド臭い」という理由だけで腹いせに手首を斬り落とし、

 突然イレズミの群れの真ん中に飛び込んで来たかと思えば自分を捕らえていた二人の腕を藁でも斬るように何の躊躇いもなく落とし、

 そのまま悠長に鍋からぜんざいを一杯掬って残りを周りのイレズミ達に向かってひっくり返し、

 腰を抜かしている自分を乱暴に引っ掴んで、どうやったか知らないが杉木に登り、

 下で何故か怒っていた赤毛で背の高いカッコいい「いちこ」とかいう女の人に残りのイレズミを全部丸投げにして、

 そのままずっと自分を抱え、こんな出鱈目な走り方で息一つ切らさず杉林を高速移動し、何処だか分からない所へ連れて行こうとしている、

 中性的な童顔で、若白髪で、鼠色のボロを着た、わけの分からない小柄な男……


 ……でしかないのである。


 彼女が巡らせていた様々な思案は、わびすけが樹上で突然足を止めたことで中断された。


 わびすけは「ふぅ」、と一つため息をつくと、炊き出しの女性を抱えたまま片手をごそごそと自身のパーカーの懐に入れ、弄っている。

 彼女はその動作に酷く怯えていた。


 何、何をする気?


 やがて懐から出てきたわびすけの手には、二振りの曲刀が握られていた。


「ひぇっ……!?」

「ん?」

「やだっ……! ちょっ……な、何するんですかっ!? も、もう嫌っ! ちょっと、下ろして……!」


 わびすけは、自身の腕の中でジタバタともがき悲痛な叫び声を上げる彼女を、興味津々といった表情で時々横目に窺いつつ、取り出した曲刀のうち一本を口に咥え、もう一本を自身が立つ枝に振り下ろし、突き立てた。


 ダンッ、という激しい打撃音と、わびすけの体を通じて伝わった強い振動に彼女は一層怯え、声も出ない程に竦み上がってしまった。少しでも恐怖から逃れるため、目をきつく閉じた。


 暫くすると、奇妙な感覚に襲われた。

 相変わらずわびすけに抱えられているのは分かるのだが、何か重心が、激しく後ろにズレているような気がする。

 そして、わびすけの手首が胸の下辺りに思い切り食い込んで、凄く痛い。


 何をしている? 何をされている?


 ……暫くすると、奇妙な感覚は消え失せた。しかし、何か別な違和感を覚えた。


「お姉さん、足着けて」

「えっ……」


 また突然、あの抑揚のない声で話しかけられた。

 恐る恐る、薄っすらと目を開ける。すると目の前に、落ち葉と杉の根が見えた。


「あ、あれっ」

「早く立ってよ」


 そこは、地面だった。いつの間にか木から降りていた。

 彼女が慌てて足を下ろすと同時にわびすけが手を離し、まだ腰を抜かしていたらしい彼女は小さく叫びつつ、地面にうつ伏せに倒れた。

 彼女を受け止めたのは、こんもりとした落ち葉の山。固い杉の根は、辛うじて避けた。

 その杉の根を下から辿るようにして見上げると、先ほどわびすけが自分を抱え立っていた枝があった。


「わぁ……どうやって降りたんですか? これ……」


 地に足が着いたことで彼女は少しだけ安心したが、次の瞬間、そこから一筋の閃光が飛び出し、微かに揺らめきつつ落下して来るのが見えた。

 それはかなりの速度で地面に近付き、やがて正体が判明する。


「あっ……」


 それは、先ほどわびすけが懐から取り出した曲刀であった。

 落下の勢いに猛烈な回転を加え、ビュンビュンと風を切る音を立てつつ……

 彼女の眼前に迫った。


「……ぎええぇぇ〜〜〜〜〜ッッ!!」


 スパァン、と気持ちの良い音が鳴り、曲刀は彼女の鼻先で止まった。わびすけが、柄を掴んで止めたのだ。

 彼女は暫く、目の前でギラリと光る曲刀の禍々しい切っ先を、恐怖に歪んだ顔で見つめたまま固まった。

 その刃がわびすけの手によって自身から遠ざかり、やがて彼の懐に納められるまで、息を止めたまま、飛び出さんばかりに見開いた目だけで、無意識に追い続けていた。


「……ぷはっ! ハァッ、ハァッ……」

「危ないじゃん。何やってんの?」


 わびすけは曲刀の柄頭つかがしらに付いた銀色の光沢を放つを取り外し、何か複雑な丸い機械で巻き取りつつ言った。

 それを見て彼女は悟った。わびすけがこの縄で、木に刺した曲刀を引っ張ったのだと。

 自分の行動で人を殺しかけておいて、よくこんな他人事のような、図太い態度でいられるものだと思った。


 そして何より、こんな男に目的地も分からないまま散々に引っ張り回されるのに、彼女はいい加減疲れ果てた。

 地面にへたり込み、余りに理不尽な己の運命を呪う。


「もう、もうやだっ……! 何なのよっ、今日は……私が何したって言うの……?

 ホームレスのおじちゃん達に、たまには甘いもの食べさしてあげたいと思って来ただけなのにっ……

 なんでっ、なんでこんな目に遭わなきゃいけないのようっ! もう嫌っ!

 ……うぅっ、おウチ帰りたい……お母さん……おがあさぁーんっ……うっ、うっ……」


 わびすけが無表情に言う。


「早く来てくんない?」


 本当に、眉ひとつ動かさない。風に揺れる長い白髪を除いて、全身の一切が静止している。

 彼女はそんなわびすけを忌々しげに見上げ、言った。


「立てないんですよっ……! 誰かさんのせいでっ……」


 憎しみの篭った口調だった。今日一日の全ての不条理に対する不満を、何もかもわびすけにぶつけるように。


 が、わびすけは動じない。


「何、腰抜けたの」


 それだけ言って、落ち葉の中へたり込む彼女に歩み寄る。

 そして、身構える彼女の目の前に小さな背を向けてしゃがみ込んだ。


「ほい」

「えっ……」

「早く」

「……あ、ありがとうございます……」


 この人、本当によく分からない……

 そう思いながらも、彼女はおずおずとその背に手を伸ばした。

 わびすけはしっかりと彼女の体重を感じるとゆっくりと立ち上がり、歩き出した。


 沈黙の中、わびすけが落ち葉をサクサクと踏む音だけが杉林に響いていた。

 小さな背に身を預けるぜんざいの女性は、山積みの疑問に少しでも決着をつけたいと思い立ち、どうにか会話の糸口を探ろうと試みた。


「あの、わびすけさん、ですよね?」

「そうだけど」

「私、『たま』です。『菊月たま』」

「ふぅん」


 ……沈黙。

 たまは、わびすけが落ち葉を踏み締める音を聞きながら、何か二の句を継ぐのを待った。

 しかしわびすけは、小さくあくびをしただけだった。

 沈黙は続く……


「……えっと、苗字はなんて言うんですか?」

白子しらこ

「しらこ……」


 たまは、丹精込めて作り、わびすけによって余りに無遠慮に公園の地面にぶち撒けられた白玉ぜんざいを思い出した。

 さらにもう一つ、嫌なことを思い出した。

 疲れ切って却って気が大きくなっていたたまは、もう思い切って気になることを片っ端から聞いてみよう、と考えた。


「『ぜんざいがアーモンド臭かった』からって……あのハンチングの人の手首、斬ったって言ってましたよね」

「んー……? まぁ、うん」

「それ、酷くないですか?」

「別にいいよ酷くて」

「香りって、そんなに大事ですか?」

「んっ……」


 アレ、今笑いかけた? 何かおかしいことを言っただろうか? でも、押し殺したのは何故だろう?

 わびすけが、心なしか先程より若干震えた声で言った。


「面白くないよ、全然」


 たまは、わびすけに人間味を感じ始めた。


「……あの」

「何」

「どこに向かってるんですか?」

「『ケヤキ通り』」

「ケヤキ通り?」

「明日の朝、そこから幌馬車が出るんだ」

「えっ」

「たまさん、都の人でしょ」

「あっ、はい……」


 送ってくれていたのか……なぜ、何も言わなかったんだろう?

 それと、「たまさん」。聞き流しているように見えて、ちゃんと名前を覚えてくれている。


「……あ、でもお金無いんですけど……」

「あの辺は『曙光会しょこうかい』のシマだから大丈夫」

「しょこうかい? 島……?」

「イレズミだよ。イレズミのナワバリってこと」

「い、イレズミ!?」

「たまさんみたいな人には優しいんだよ、あいつらは」

「そう、なんですか? でも、人質にされたし……」

「あれはまた別」

「別?」

「別って言うか、上部団体かな」

「うーん……イレズミの仕組みって、よく分かりません」

「分かんなくていいよ、そんなの。でもケヤキ通りじゃ、怖い顔した奴がいたらとりあえず話しかけて、状況話せばいいよ」

「そ、そんなぁ! 無理無理、絶対無理ですよ!」

「大丈夫だって」


 たまは目的地への不安を強める一方、わびすけとの距離感がどんどんと縮まっていくのを感じていた。

 チラチラと、白髪の隙間から覗くわびすけの横顔を見た。


 あどけなさをどこかに残した、美しい顔だった。高い鼻と小さな口、長い睫毛に白い肌。

 丸く大きな目はとろんとして常に眠たげでありながら、どこか神秘的で、ミステリアスな陰影を孕んでいる。


「……わびすけさん、一緒に来てくれませんか? お礼は何か、都に帰れば……」

「俺、あの辺入れないから」

「えっ……ど、どうしてですか?」

「色々」

「色々ってなんですか」


 わびすけが、一つため息をついて沈黙した。たまはすぐに自身の過ちに気付いて謝ろうとしたが、遅かった。


「質問多いよ、さっきから」

「あっ、あの、ごっ、ごめんなさい……」


 たまは、意気消沈して俯いた。

 私の馬鹿……調子に乗り過ぎた。全部台無しだ。

 たまは自分を激しく責め、途端にわびすけの背に乗っているのが辛くなった。


 気まずい沈黙が続き、たまはもう、降りて歩くよう申し出ようかと思った。が。


「別にいいよ……ごめん」


 わびすけが突然、バツが悪そうに俯きながら謝った。たまは、驚いて答えられなかった。


 何か答えが来ると思っていたのか、微かに首を動かして背後のたまの顔を見ようとしてはやめ、結局、そのまま俯きもってぶつぶつと言った。


「聞かれたくないこと聞くから……質問がやなわけじゃないよ。他のことならいいし」


 わびすけの、呟きに似た心情の吐露。白髪の隙間から少しだけ飛び出た耳が、ほんのりと赤くなっていた。


 たまの頬が、自然に緩んだ。


「じゃあ……持ち物のこととか、聞いてもいいですか?」

「んー……いいよ」

「さっきの、何ですか? あの銀色の、縄みたいの」

「あれは『ワイヤーロープ』っていう……」


 杉林の中、二人分の体重で落ち葉を踏む心地よい音が一定のリズムで鳴り続ける。

 不器用な二人の他愛ない会話は所々途切れつつも、ケヤキ通りに辿り着くまで続いた。

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