ミスミ事件
昼の陽光を殆ど遮る程に茂った薄暗い杉林の中を、いちこは猛獣のような鼻息を立てつつ激走する。
まさに、猪突猛進。進路にある小枝を大きな体でピシピシとへし折り、時折枝先が頬を掠め血が滴ってもめげず、地を這う根を次々と飛び越え、時折足を取られてすっ転んでも「ふんぬ」と起き上がり、勢いを変えず突っ走る。
遠目に、蹲る男を発見した。
狙いを定めるようにキツネ目をさらに細めるとさらに速度を上げ、一気に男の下まで辿り着いた。
荒れた呼吸を肩で整えつつ、眼前の男を見下ろした。
「うぐぅ~っ……」
先ほどまで公園にいたハンチングの男は、真横に立ついちこを見上げもせず、左腕を抑え、うめき声を上げながら蹲っている。男の足元にはバケツをひっくり返したような血だまりが広がり、その中に茶碗と白玉、手首から綺麗に落とされた左手がコロリと転がっていた。
いちこは呼吸も整い切らぬまま、懐からスカーフを取り出しつつ、男に目線を合わせるように素早くしゃがみ込んだ。
「ハァ、ハァ……アンタ大丈夫? ほら、腕出しなさい。さっさと縛んないと」
「うぅっ、クソっ、う、腕を斬られた……」
「ハイハイ、見りゃ分かるよっ……ハァ……誰にやられたの?」
「うぐっ……言っても分からんだろっ」
「いーや、大方予想は付いてるよ……ふぅ……これでよしっ! 町医者んとこ行くよ!」
荒っぽく簡単な応急措置を終えたいちこは男に背を向けてしゃがみ込み、負ぶさるよう促した。
「え……?」
「早くっ!」
「あ、あぁ……すまん、女……」
いちこは、男の「女」という呼び方と、遠慮してまごつく態度に苛立った。
「もうっ、早くしなっ!」
「わっ……?」
怒鳴りながら、男が微かに伸ばしていた右腕を自身の肩越しに強く引っ張って首に回させ、そのまま立ち上がりつつ投げ出していた男の足をぐいと引っ張って、自身の腰に巻きつけさせた。
最後に、手首から先がない左腕をそっと取って首に回させ、真横にある男の目を真っ直ぐ見て、投げ捨てるように言った。
「これからは『いちこさん』と呼びな。いいね?」
男は視線を逸らしつつ、無言で頷いた。先程まで青ざめていた顔は、何故だかすっかり赤くなっていた。
こうなると、どちらが男でどちらが女か分からない。
いちこは男を背負い、来た道を引き返し始めた。息を弾ませながらも、余り男の腕に負担をかけないよう気遣いつつ、杉林を出来る限りの速度で走った。
その背にぐったりと寄りかかりつつ朦朧とする意識を辛うじて保つ男を気遣い、いちこは足を緩めず話しかけた。
「あんたの腕落としたの、あれでしょっ……鼠色のボロ着た白髪のチビでしょ」
「……あ、あぁ? そうだ、なんで分かる」
「ハァ、女の勘よ……なんでやられたのっ?」
「わ、分からん……い、いやっ、あれだ……ぜんざいの器転がってたろ?」
「ぜんざい? ……あぁ、そういやなんか落ちてたわね」
「あの野郎、あれ食いたがってて……それで、話があるとか言って、森に連れ込まれて……」
「そんな理由で腕を……?」
「……多分、な」
いちこの顔が、振り乱す赤毛を超えるほどに真っ赤に染まってゆく。
「わびすけっ……!」
そのまま怒りに任せて一気に杉林を駆け抜け、ミスミ公園へと飛び出た。
そして二人揃って、眼前の光景に驚きの声を上げた。
「なっ……!?」
「あっ……!」
先程から公園にいた三十人あまりのホームレスが端へ追いやられ、それに向かい合うようにズラリと並ぶのは二十人ほどの、黒ずくめの、人相の悪いイレズミの集団。
睨み合っていた両陣営が、はたと沈黙する。いちこは男を背負ったまま、まさに修羅場の真ん中に躍り出てしまったのだった。
「あー……なんかヤバそうね」
いちこは、とりあえず苦笑した。一方、背負われた男はイレズミの集団を見るだに、不意にそわそわと目を伏せた。
沈黙が破れ、イレズミが、ホームレスが、口々に囁き始めた。
「あっ、兄貴っ! あいつ……!」
「出やがったな……ククッ」
「いちこ……! こりゃ、ちとまずいのう……」
「やべ、やばくねぇか? これ……」
「早速大ごとだよ~!」
「ん? あの帽子……」
「あいつさっき並んでた奴じゃ?」
「おい……あいつ、
「ちっ、しくじりやがったか、あの野郎……」
いちこは状況が掴み切れずにいたが、そこで座して待たないのが、いちこの女傑たる所以であった。
「何っ!? どういう状況よ、これっ」
イレズミ達を鋭く睨みつけながら、公園中に響き渡る大声で言った。
囁き合っていた両陣営がそれに押され、一気に沈黙する。
しかし、そこはイレズミ。黒服の陣営の中から、最も年長で立場も上と見える中年男が薄ら笑いを浮かべつつ、悠々と進み出て来た。
「よう、赤毛のデカ女……待ってたぜ?」
「『いちこさん』と呼びなさい。どいつもこいつも、礼儀がなってないわね」
いちこの啖呵に、またも両陣営が少しざわめいた。が、中年男は余裕を崩さない。
「ククッ、こりゃ失敬……『い・ち・こ・さん』?」
薄く剃ったマダラの眉を目一杯上げ、幼稚なほど露骨に煽ってみせた。
その態度に勇気付けられたのか、後ろに控えるイレズミ達も口を歪めたり、肩を震わしたりして、思い思いにいちこに冷笑を浴びせ始めた。
「ケッケッケッ……度胸だけは立派だぜ」
「いちびってんじゃねぇぞデカ女!」
「いちこすぁ〜〜ん、ってか!? へっへっへっへっ……」
いちこはふぅ、と大きなため息をつくと、冷め切った目で連中を一瞥してその幼稚な煽りを一蹴しつつ、子供をあやすような口調で煽り返した。
「悪いけど私ねぇ、こいつを町医者んとこ連れてかなきゃいけないのよ。だから、あんた達の用事は後で、ね? そのままここで待ってなさいっ。いいコにしてんのよ。分かった?」
……なんとこれで、イレズミ陣営の中に怒りを表す者が出始めた。
「て、てんめぇ〜〜〜……!」
「乗るんじゃねぇ、馬鹿ども!」
流石にまだ冷静な者もいることを見抜いたいちこは、今度は鼻で笑いながらさらに煽ってみせる。
「大体、そんなアホ面並べてゾロゾロくっ付いて来られると、町医者も迷惑だろうし……」
「ンだとこのクソアマアァァァァァァア!!」
「ナメんじゃねぇぞ畜生!! ぶっ殺されてぇかゴラァッ!!」
これで先程まで冷静だった者も含めて一人残らず、次々と激昂して怒号をあげた。
いちこは勝ち誇って、中年男に向かってふふんと得意げに微笑んだ。
が、中年男はやはり冷静だった。不敵に口の端を歪め、語り出す。
「おいおいおい……いちこさんよ。あんまナメた口きいてっと、お前の代わりにこいつに遊んでもらうことんなるぜ?」
「はぁ?」
怪訝な顔のいちこを差し置いて中年男は後ろを振り向き、怒号をあげる連中を刺し殺すような目で睨み、瞬く間に鎮めてしまった。
一人のイレズミが声を震わせながら言った。
「す、すいやせん、
「ケジメは後だ……女出せ」
「……へ、へいっ!」
『菊田』の命令を受け、集団はゾロゾロと二つに別れた。
その中心から、一人に羽交い締めにされ、もう一人にナイフを突きつけられた若い女性が出て来た。
恐怖に顔を歪ませ震える彼女は、ついさっき炊き出しを提供していた女性だった。
いちこの目がまた、湧き上がる怒りに比例してつり上がる。
「あんたら……!」
「おっといちこさん、迂闊に動くなよ? さもなきゃこうだ」
「ケッケッケッケッ……」
「ひっ……!」
菊田が首を振って合図をすると、ナイフを持った男が下劣な笑い声を上げつつ、女性の首筋にナイフの先端を押し付けた。
女性は目を見開き、小さく悲鳴をあげた。いちこは怒りに打ち震えながらも動けず、兎も角、菊田を威嚇した。
「やめなさい……! その子は関係ないでしょ? 傷一つでも付けたら、ただじゃ置かないわよ……!」
「クク……どうにかしてみろ……」
今度は中年男が勝ち誇ったように下卑た笑いを浮かべつつ、いちこを挑発した。いちこは歯軋りをしつつ、手も足も出ない現状に焦りを感じていた。
その時だった。
「き、菊田さん……」
「……あん?」
イレズミ集団の中からおずおずと進み出て来た気の弱そうな青年の呼びかけに、菊田がうざったそうに振り向く。青年は菊田に、コソコソと耳打ちをし始めた。
「山里のやつが、赤毛の背に……」
「ククッ……何だと?」
「あの、山里が……」
「デケェ声で言えッ!!」
菊田は突然青年の耳元で激しく怒鳴り、その髪を千切れる程に引っ張った。
「いっ、いたッ……す、すいやせん、しかし……」
「デケェ声で言えってんだゴラァッ!!」
「は、はいっ……あの、山里のやつが、あいつの背に乗ってます……あんまり挑発しても今度はあいつが危険かと……ここは人質交換に応じて、俺らであいつを畳んじまえば……」
「……ブッ」
菊田はそこまで聞いて吹き出し、大声で笑い出した。後ろの連中もまた、今度は菊田の真似とは思えぬほど自然に、ゲラゲラと下品に笑った。
下卑た笑い声が響く中、いちこは背に負った『山里』に話しかけた。
「何、あんたイレズミなの?」
「ちが……い、いや、そうだがまだ新参で……知らなかったんだ。あんたが敵だなんて。騙す気は……すまん……」
「ふぅん、別にいいけど。悪いのはわびすけだし」
「わびすけがなんじゃって?」
「ん? 何よ、野茨」
いつの間にか、真後ろに野茨が来ていた。いちこは馬鹿笑いを続けるイレズミの中心にいる人質の女性から目線を外さず、野茨に事情を説明した。
「わびすけにね、ぜんざい欲しさに森に連れ込まれて腕叩き斬られたんだって。イレズミ相手だからって、幾ら何でも酷いでしょ。見つけたらブチのめしてやるわ、あのドブネズミ」
「はは……」
いちこの説明に対して力なく笑う山里の顔を、野茨は怪訝な顔でじっと見ていた。そして言った。
「本当か?」
「……は? 本当かって、嘘ついてどーすん……」
「お前じゃない。その男に聞いとるんじゃ」
野茨にキッと睨まれ、いちこが怯んだ。この老人が本気になった時の怖さをよく知っているからだ。
山里もただならぬ雰囲気を察してか、何も言わず項垂れている。そこへ追い討ちをかけるように野茨が言う。
「お前さん、わびすけが去った後に森へ入って行ったろう」
「えっ……」
「い、いや……」
「矛盾しとるのう。大体、奴はここらじゃ有名人じゃ。奴がこの公園に戻って来て人なぞ攫おうもんなら、皆すぐに気付くわい」
黙り込む山里に野茨は容赦せず、皆まで言い切った。
「わびすけを消そうとして、返り討ちに遭ったんじゃろう。違うか」
いちこは反応を見て、察した。山里はいちこと野茨の視線から逃れるよう必死に身をよじり、遂には目を閉じてしまった。
「あんた……」
「おいそこのジジイ! 何コソコソ話してやがる!」
イレズミの一人が怒号をあげた。野茨は動じず、ただジロリと、睨むでもなくその男の姿を見据えた。それだけで、そのイレズミは怯んでしまった。
菊田は相変わらず、余裕綽々の態度だった。話の内容を見透かしたように言う。
「ククッ、無駄だ。そんな奴人質の価値もねぇ……ネズミ一匹殺し損ねて腕落とされた挙句、女にオンブされて医者になんぞかかろうとしてやがる。そんなゴミと、この可愛い姉ちゃんを交換できると思ったら大間違いだ」
山里は俯きながら、菊田の言葉をしっかり聞いていた。悔しさ、情けなさの余り唇を噛み切って血を流し、涙まで流していた。
いちこはそれを、しっかりと横目に見ていた。
「おい、いちこさんよ。ククッ……この姉ちゃん助けたかったらな、代わりにお前がこっちへ来い。それが嫌なら、この女見捨てて斬りかかってきやがれ。選択肢はそれだけだ……!」
「オラッ! さっさと決めやがれ赤毛!」
「さっきの威勢はどうしたデカ女ァ〜〜〜ッ! ケッケッケッケッ……」
菊田の脅しとその他大勢の罵声を受けたいちこはもう一度、怯え続けて憔悴しきった人質の女性の姿と、自身の背中で悔し涙を流す山里を見据えると、敢然と進み出た。
「分かったわ……縄でも何でもかけなさい」
野茨が歯噛みし、菊田が勝利を確信して笑った。が、そこでいちこはさらに言った。
「その代わり!」
公園中に響き渡る、鈴のような声である。イレズミが、ホームレスが、いちこの姿に一層注目する。
「さっさとその子解放して。それとこいつ……私は行けないから、誰か早く、病院連れてってやんなさい。さっきの子でいいわ! 来なさい!」
そう言うと、地面に膝を突いた。山里は、泣き濡れてクシャクシャになった顔で、おずおずといちこの顔を見た。いちこは、これ以上なく悲しい目をしていた。ただただ、惨めな己を憐れんでいる。
山里はか細く、消え入りそうな泣き声で呟いた。
「すまねぇ、すまねぇ……」
先ほど菊田に笑い者にされた青年が駆け寄って来て山里に肩を貸し、その他のイレズミたちの冷笑を浴びながら、そそくさとミスミ公園を立ち去った。
その途中、青年もまた何度も泣き出しそうな目で、いちこを振り返っていた。
直後、菊田に顎で促された子分がいちこを取り囲もうとバラバラと進み出る中、野茨は、イレズミ達が陣取った辺りを囲む杉林の一角へ視線をやった。
一本、地面から不自然にピンと立った杉の枝が、微かに動いている。その下に潜むのは、日車。二老人は一か八かの勝負に出ようとしていた。
次の瞬間。
日車が潜む辺りに立つ杉木から、一筋の閃光が走った。閃光はイレズミ達の頭上に放物線状を描いて飛び、公園を横切って反対側の巨木の枝で止まった。
その直後、杉木からガサッと激しい音を立てて灰色の塊が飛び出し、イレズミ達の中央、人質の女性のすぐ側に降り立った。
そこから、腕が二本飛んだ。
「ぐぎゃあぁぁぁぁぁあ!!」
「あわぁぁぁぁぁあ!!」
彼女を捕らえていた二人のイレズミが、それぞれ右腕と左腕を飛ばされ悲壮な叫び声をあげた。地面に、ボタボタと黒血が撒き散らされる。
周囲のイレズミが仰け反りつつ、小さく悲鳴を上げる。真後ろで起きた惨劇に菊田もまた、慌てふためくばかりだった。
「ど、どうしたッ!?」
「ひえぇっ……!! な、何だこいつ……」
真っ先に事態を察し、好機と見た野茨が叫んだ。
「日車! いちこ! やるぞッ!!」
「応よ、野茨ッ!!」
野茨がイレズミ達に向かって駆け出すと同時に、茂みから日車が飛び出す。
そして跪いていたいちこも懐から二本の棍を取り出すと、それを振りかざして鮮血が吹き上がった方向へ矢のように駆け出した。
圧倒的優位にいたイレズミ達は、一瞬にして大混乱に陥った。菊田が漸く正気を取り戻し、叫んだ。
「落ち着けてめぇらッ! 人質を確保しろォッ!!」
が、遅かった。
いちこが棍を振りかざして敵中を突破した先にいたのは、斬られた腕を抑え呻く二人のイレズミだけ。床にはバケツを二杯ひっくり返したような血の海と、その中に転がる鍋と、大量の白玉。そして二本の腕。
全員が呆気にとられ、沈黙した。
そしてその頭上から、何の緊張感もない力の抜けた声がした。
「お姉さん、これ貰っていい?」
「へっ……? あっ、はい……」
呆然と枝にしがみ付く人質だった女性を尻目に、鼠色の小男が茶碗に入ったぜんざいを音を立てて啜り、口に入った白玉をもちゃもちゃと、呑気に咀嚼している。
「ん~、んまい……」
その光景を見ていたいちこが、怒りに全身を震わせ、怒鳴る。
「……わびすけぇ~~~ッッ!!!」
これを機に沈黙は切り裂かれ、公園中にどよめきが沸き起こる。
「あの野郎、あの一瞬で!?」
「てめぇこの野郎~~~ッ! 人質返しやがれッ!!」
「憎たらしいドブネズミがァ~~~ッ!!」
「わびすけだ……いつの間に……」
「あいつ、ぜんざいが欲しかっただけなんじゃねぇのか?」
「わびすけ……やはりお前か」
「流石じゃのう」
怒り狂うイレズミ、呆れるホームレス、感心する老人二人。
そして、なぜか誰よりもわびすけに敵意を向ける、いちこ。
「わびすけッ、降りて来い! この状況で何をクチャクチャ食ってんのよッ!!」
わびすけもその他大勢の喧騒には頓着せず、いちこの言葉にだけピクリと反応した。
咀嚼していた白玉をゴクリと飲み込むと、相変わらず気合の欠片もない声で応じた。
「うるせーな……さっき運ばれてった奴が渡してきたのがアーモンド臭くて、食い損ねたんだよ。腹いせに腕すっ飛ばしてやったけど」
いつの間にか合流していた二老人・野茨と日車が呟く。
「あやつ、なかなか手の込んだことしおるのう」
「最近の若造は、イレズミでも賢いんじゃのう」
そしてわびすけは女性をむんずと小脇に抱えると、再びいちこを見下ろし言い捨てた。
「じゃ、いちこ。後は任したぞ」
「はぁっ!? ま、待てッ、わびすけッ!」
わびすけはいちこの呼び止めるいちこを完全に無視して、女性を小脇に抱えたまま木の枝を身軽に飛び移り、あっという間に林の奥へと消えて行った。
「くそッ、くそッ……! わびすけぇ! いつまでも逃げ切れると思うなよぉッ!」
いちこは悔しさを目一杯滲ませた声で、最早見えなくなったわびすけの背に罵声を浴びせかけた。
菊田もまた暫くはぼんやりとその背を目で追っていたが、やがてはたと気を取り直すと、いちこをジロリと睨み付け全員に号令した。
「おいっ、てめぇら! こうなったらもう腕尽くだ! 赤毛をシメて掻っ攫うぞッ!」
「はっ……あっ、へ、へいっ!」
菊田の声で気を取り直した二十人足らずのイレズミ達は、一斉に懐からドスやらナイフやら物騒な光り物を取り出して、いちこにジリジリと詰め寄った。
いちこはわびすけを取り逃がした口惜しさを抑え込み、目だけでグルリと敵を見回してその全容を掴む。
「こんな頭数で、私をシメられると思ってんのね……心外だわ」
いちこは二本の棍を懐に仕舞い、代わりに一振りのサーベルを取り出し、構えた。
「武器を取って向かって来るなら、私も容赦はしない……かかって来いッ!!」
やり場のない怒りを叩き付けるかのような気迫にイレズミ達は一瞬気圧され、腰が引けた。そこへ再び、菊田の怒号が飛ぶ。
「女一人に何ビビってんだッ! さっさとやれお前らァッ!!」
「お、お…おォッ!!」
イレズミ達はそれぞれどこか人任せながら、まばらにいちこに向かい始めた。
いちこは全身の神経を尖らせ、視界の外にいる敵の位置をも見極める。最も近い敵は、背後。間合いに入るギリギリまで振り向かなかった。
そして一人、入った。
瞬間、横目に背後の敵を捕捉し、凄まじい勢いで半身を後ろに開くと、大上段から雷のような片手打ちを見舞った。
「うぉっ……?」
敵は持っていたドスを振り上げて受けようとしたが、逃げ腰の、ただ翳しただけの刃でいちこの怪力を防げるはずもない。
いちこのサーベルは、受けたドスごと敵の頭に叩き落とされた。稲光のような火花と共に、ガツンッ、と惨い音が鳴った。
「ひぇっ……!?」
直後、男の背後から向かっていた敵が、悲鳴をあげて飛び退いた。無理もない。
いちこの一撃を受けた男の頭は、額を抜けて鼻までひしゃげ、脳髄や目玉が飛び出し、割れた頭や耳、口、眼窩より泡の混じった鮮血や髄液が漏れ出し、首は潰れ、顎は鎖骨の間に突き刺さるように埋もれていた。
その状態で男は暫く立っており、全身をビクビクと脈打たせた後、前のめりにベシャリと倒れた。
いちこはその姿を、冷然と見下ろしていた。
「ギャアアアアアアアアアァァァァァァア!!!」
その光景を目の当たりにした敵の集団は、瞬く間に戦意を喪失。悲鳴を上げながら次々と仰け反り腰を抜かし、いちこを囲む輪は一気に遠巻きになってしまった。
「ひえぇぇぇぇえっ……!」
「ば、
「羅刹っ、羅刹だっ!」
「ば、馬鹿野郎っ! 誰が退けっつったッ!」
「き、菊田さんがやって下さいよぉ……! あんなもん、何人がかりでもどうにもならねぇ……」
菊田は怯みつつも事態の収集に努めたが、一度折れた戦意はそう簡単には立ち直らない。菊田というちっぽけな恐怖により統制されていた集団は、いちこという巨大な恐怖の登場により、あっさり崩壊した。
「何よ……誰も来ないの?」
いちこが声を発すると、敵は一斉に黙った。キツネ目をギョロリとひん剥いて集団を見回す。捕食対象を選別する猛獣の凶暴な視線が一瞬己を掠める度に、イレズミ達は小さく悲鳴を上げて後ずさる。
その視線が、止まった。先にいるのは菊田。
そしてゆっくりと、その方向に向けて歩き出す。菊田は一気に顔を引攣らせ、ブルブルと震え始める。
「えっ? えっ、おま……」
「あんた、さっきから随分とナメた口利いてくれたわねぇ……」
「おっ、おいっ、待てっ……」
いちこはサーベルを手でクルリと一回転させ、その刃先を菊田に向けた。殺意の充満したキツネ目が、ギラリと光って菊田の命を捕らえる。
菊田は全身が竦み上がり、身動き一つ取れない。
「あんたにするわ」
「ひっ……!?」
いちこはサーベルを振り上げ、菊田に向かって一直線に突進した。
「いぃぃやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああ!!!!」
菊田はこれまでの強気が嘘のような悲鳴を上げ、背中からもんどり打って倒れた。その周辺にいたイレズミ達も、あっさりと菊田を見捨てて遁走。その周囲にいた敵も、悲鳴を上げつつ次から次へと逃走していった。
いちこは、一人残された菊田を見下ろす。哀れ菊田は、白目を剥いて泡を吹き、股間に大きな染みを作って気絶していた。
余りの惨めさに殺す気にもなれず、いちこはその顔面に唾を吐き捨て、身を翻した。
ホームレスの集団は息を呑み、歩み寄って来るいちこの巨影に見入っていた。
赤髪が風に靡く。いちこは何故だか、猛烈な寂しさに襲われていた。
地面に転がった二本の腕を横目に見ながら、トボトボと歩く。気付かぬうちに、地面に散らばる白玉を一つ踏み潰していた。
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