目覚め

「はっ……」


 大賀は、グツグツと煮立つ鍋の音と、それが発する何とも芳しい肉や野菜の匂いに釣られて、眠りから覚めた。


「アラ、起きたわね、ポッチャリ坊や」

「ヒェッ……!?」


 突然耳元で囁いたのは、ミスミ・コミュニティ随一の妖艶な美女・オハラ。大賀が身を横たえる布団に潜り込み、いつの間にか一糸纏わぬ姿とされていた彼に、薄く透けた黒い着物一枚羽織った半裸の姿で、ぴっとりと寄り添っていたのだ。オハラは淫靡に微笑み、肉厚の唇で大賀の頬に接吻した。

 大賀は思わず情けない声を上げ、一目散に布団から這い出た。


「やぁん、なんで逃げるのぉっ」

「おっ、起きたかおデブちゃん。お疲れさん!」

「へっ、へっ……?」


 鍋をかき回しつつ大賀に気さくに声をかけたのは、アロハシャツを着た小太りの男・シン。

 何がなんだか掴みかね呆然とヘタリ込む大賀を差し置いて、男女は前から後ろから、口々に言い立てる。


「おデブちゃんって、あんたが言えるこっちゃないでしょ」

「ウッハッハッハ! まぁ、いいじゃねぇか。とりあえずこっち来い。腹減ってんだろ?」

「こ、ここは? 俺は一体……」


 気絶する直前の記憶も飛び、現在の状況は最早夢か現かも分からない。大賀は頭を抱える。


「ここは乱交集団の盛り場よ」

「はっ……?」

「よく寝てたわね。もうスッカリ夜よ」


 ボロ布を繕ったカーテンを開け、身をかがめつつ入ってきたのはキツネ目の大女・いちこ。何故だか、えらく不機嫌そうである。

 その燃えるような赤髪を見て、気絶する寸前の光景がフラッシュバックする。


「オイオイいちこ……いい加減その呼び方やめろよ」

「何サラッと呼び捨てにしてんのよ。大体、あんたらのが言ってたでしょ、『盛り場』ってのは」

「『乱交集団』は言ってないでしょ、『乱交集団』は……」

「……あぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」

「キャッ!?」

「うおっ……!?」


 大賀が突然大声を上げた。シンとオハラが悲鳴を上げ、いちこはハァ、と小さくため息をつき、眉を顰める。


「今度は何よ? もう……」

「わ、わ、わたるさんは!? ミイラ男は!? は、裸のイレズミ集団はッ……!? お、お、俺は一体今まで……」

「『わたる』?」

「誰それ?」


 シンとオハラは、大賀の言葉にキョトンとして目を合わせる。いちこが、呆れ返ったように赤毛をグシャグシャとかき回しながら言う。


「こいつがオンブしてた奴でしょ。ションベン垂れのイレズミじゃない方」

「あぁ、あの子は……」

「ぶ、無事!? 無事ですか……!」


 虫のように床を這っていちこに縋り付いた大賀は、目を潤ませ、哀願するように懸命に訊ねた。元々不機嫌であったいちこの苛立ちはピークに達した。

 スパァン、と気持ちのいい音が鳴り響き、大賀の巨体が吹き飛びゴロゴロと床を転がる。


「ああもうッ、うざったいねぇ男の癖に! シャキッとしなッ!」


 思い切り張られた頬を涙目で抑え、「うぐぅ……」と唸りながらうずくまる大賀の丸い背を見ながら、シンとオハラは何となく予想のついていた展開に最早驚きもせず、只々苦笑を浮かべた。



 ♦︎



 頬にをつけられた大賀はオハラに案内された部屋を覗き込んで、呆れながらもホッと胸を撫で下ろした。

 わたるは粗末なベッドの上で、ランの胸に抱きすくめられたまま毛布に包まり、相変わらずグースカと健やかな寝息を立てていた。


 大賀はいちこ、シン、オハラと共に鍋を囲みながら、心の底からの安堵の声を漏らした。


「よかった……」

「何なの? あいつ」

「え、えぇっと……兄弟子、ですね……ハハ……」


 「錦戸総裁の忘れ形見です」とは流石に色んな意味で言えなかったが、とりあえず嘘はつかなかった。いちこは「フーン」と相槌を打ちながらも、至極不機嫌そうな表情のまま腕を組む。


「ほ、本当ですよっ!」

「別に、嘘だとは思わないけど。あいつ一回起きてたからね」

「えっ……そうなんですか?」

「ウン。最初はあんたを心配して駆けつけて来てたんだけど」


 そこでいちこはチッ、と舌打ちをしてそっぽを向き、憎々しげな表情のまま黙ってしまった。オハラはバツが悪そうに苦笑し、肩を竦めた。戸惑う大賀に、シンがニタニタと薄ら笑いを浮かべながら言う。


「あいつ、あれでだ」

「は……?」

「くくっ、最初はオハラが誘いかけて、その後はラン。初めてだったんだろうなぁ、すんげぇ盛りっぷりだったぜ。今は流石に疲れ切って寝ちまってるが、可愛い顔して中々だ。ノンケじゃなきゃ俺も……」


 ……話を聞き切る前に、大賀は持っていた器をガシャン、と取り落とし、顔面蒼白となって硬直した。


「これが当たり前の反応よ。久しぶりにマトモな奴と会話ができるわ」


 いちこは大賀の肩をバシバシと叩きながら言う。が、シンはめげない。洞穴ほらあなのように虚ろになった大賀の目を覗き込みつつ、優しく語りかけた。


「まぁ、まぁ、そう落ち込むなって……人間、溜まるモンは溜まるんだよ。折角来たんだ。どうだ? この後お前も……」

「嘆かわしいッ!」

「ひゃっ……」


 大賀は、先ほどのそれを遥かに上回る大音量で、魂魄こんぱく込めて絶叫した。驚いて仰け反るシンとオハラを尻目に頭を掻きむしりながら、気も狂わんばかりの悲嘆と憤激を吐き出し続ける。


「よくもまぁこんな状況で……! 先生の行方も知れず、後を託された俺がこんなに、気を失うほどに苦労して苦労して、その間に何を……! もうあんな奴に望みはないッ! あんな奴はさっさと死ねばいいんだッ! 性病でも移されて死ねば……」

?」

「はっ……」


 大賀を取り巻く三人の中で唯一冷静に聞き耳を立てていたいちこが、耳聡く重要な語句を探り当て聞き返す。正気を取り戻した大賀は、「しまった」とばかりに、余りに分かりやすく口を抑えた。


「先生って誰? 行方が知れない? 後を託された? 兄弟子とか言ってたわね」

「いやあの、ちょっ、ちょっ……」


 顔を近づけ、キツネ目をひん剥いて追求するいちこの迫力に、これまでどんな七難八苦にも耐え抜いてきた大賀が恐れおののいて後ずさる。


「おいおい、いちこ、そうバシバシ聞いてやるなよ。こいつにも色々あんだろう」

「そうよ、ちょっと強引過ぎよ」

「そ、そうだ、俺、こんなことしてる場合じゃないんでしたっ……」

「あっ、コラッ! あんた……」

「す、すいませんっ、ホントありがとうございました! あの馬鹿はちゃんと、責任持って連れて行きますんで……」


 シンとオハラが慌てて宥めるのに便乗するように、大賀はバタバタと立ち上がり、カーテンを開けて部屋を出ようとした。が、そこに小柄な女が立ち塞がる。


「待ちなさい」

「わっ……」

「もう夜よ。森に出たってどうせ動けない」

「チョウ……」


 大賀を鋭く睨みつけ押しとどめたのは、作業着の女・チョウ。


「オハラ、そろそろ交代よ。シンも準備しといて。リンもソラも、大分くたびれちゃってるから」

「は、ハーイ!」

「ウッス、了解」


 大賀に立ち塞がり目線も外さぬまま無造作に言い放ったチョウの抑揚のない言葉に、シンとオハラはこれ幸い、とばかりにこの気まずい空間からそそくさと立ち去った。チョウは、大賀を睨みつけたまま続ける。


「今、みんな交代でね、あんたが担いでたミイラ男と、あんたを襲った裸のイレズミ集団の看病してんのよ」


 大賀はバツの悪さからか、チョウの視線に射抜かれる恐怖からか、或いは背後に立ついちこへの恐怖からか、ともかく一歩も動けない。ただダラダラと脂汗を垂れ流し、押し黙ったまま時間が過ぎる。


「あのミイラ男、菊田でしょ。サザンカ連合大幹部で、菊田組組長の。連中を率いてたのは、曙光会若頭の竜胆。他は全員、菊田組と曙光会のイレズミ……」


 そんなこと、大賀は知らない。覚えのない情報を耳にして流石に反論を試みたが、チョウはその隙を与えずさらに大賀ににじり寄り、詰る。


「あんた、一体何者? こんな厄介ごと引き連れてきて今さら何も話さずに消えられたって、もう私たち、無関係じゃいられないわよ。それにいちこが飛び出してなきゃあんた、今頃八つ裂きにされてたわよ……!」


 言葉に詰まり、ひたすらに後ずさる大賀の肩に、いつの間にか背後に立っていたいちこが手を置いた。先程とは打って変わった余りに優しい手つきに、大賀の内に恐怖は芽生えなかった。怪訝な目でいちこを見上げるチョウを、いちこはキツネ目をさらに細め、宥める。


「ありがと、チョウ。でも、ごめんね。恩を売る気はないの」

「だけど……」


 不満げなチョウを片手で制して大賀の前に立ったいちこは、また真っ直ぐにその眼を見据えて言う。


「困ってることがあるなら言いなさい」


 彼女が発するのは先程のような威圧感でなく、圧倒的な包容力。大賀はゴクリと生唾を飲み込み、少し考えた。

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