序章
灰色の町
十五年前、伝説の総裁・錦戸しげるは、都の中央広場において「
彼が「文明の非協力者」と指弾した「灰色の町」こと「
そんな町にも一応、政府の機関は存在している。灰色の町の町長の名は、「
人々の視界から消されたその町の有り様を体現するかの如く、彼はその権限を一切行使しない。ただそこに座し、目下で繰り返される暴力を、怠惰を、ありとあらゆる悪徳を無視して、ただ背中を丸め怯えているだけの男というのが、もっぱらの評判であった。
この日も町長室に、役人が青い顔をして望まぬ来客を告げに来た。
「町長、『
「そ、そうか……よし、ではここへ通したまえ」
「は、はいっ」
場を辞した役人と入れ替わるように、痩せ身に着流し姿の、初老の男が現れた。自身よりずっと大柄で厳つい子分を四人従えて、開け放たれた町長室の扉の縁に身を預けて立ち、気取った格好で大仰に言う。
「よう町長。邪魔するぜ」
「あぁ……さっさと入らんか」
脂汗を垂らし、苦虫を噛み潰したような顔で入室を促す町長に、不二はニヤリと厭らしく笑って応じる。二、三歩、ゆらゆらと扉の縁を越えると子分に顎で指図し、外から扉を閉めさせた。
瞬間、町長の目つきが変わる。マリモのような坊主頭をスリスリと摩りながら、上座にあたる高級そうな一人用のソファに丸々と太った体をドッカと預けると、刺し殺すような細い目で、先ほど不二が子分たちにしたように顎をしゃくり、下座にあたる粗末で大きなソファへ腰掛けるよう促した。
「おぉ、おぉ……怖い顔だぜ、町長さんよ」
「黙って座れ」
「はい、はい、っと。全く、客の扱いが荒いぜ」
不二は軽口を叩きつつ、飄々と下座に腰掛けた。首をひねりながら懐から取り出したタバコを咥えて火を点けると、既にキセルからもくもくと煙を上げている五台に向かって他愛もない話を投げかけた。
「なんだな。近頃一層、怯えた演技が上手くなったな。そんだけ周りの目線が気になる時期か」
「くだらん世間話はいいから要件を言え」
「ケッ……人が落ち目になったと思って愛想のねぇこった。率直な男で助かるよ。あんたと話すと、如何に俺たちの立場が弱くなったかよく分かる」
「世間話はいいと言っとるんだ」
五台の口元から、ガリガリと音が鳴った。不二はニタニタと下卑た笑みを浮かべながら、五台の威圧を受け流す。
「クックックッ、どうしたよ。えらく余裕がねぇな」
「最近どういう風の吹き回しか知らんが、『
不二は呆気に取られたように、素っ頓狂な声で応じた。
「なんだ、そんなことかぁ? そりゃ知ってるさ。あんな辛気臭ぇインテリ野郎が一歩でも町に足踏み入れりゃあ、嫌でも噂は聞こえてくる。ホームレスでも知ってらぁな。それがどうしたよ? あんな抜け殻、怖くもなんともねぇだろうが」
「……抜け殻ならな」
「あん?」
五台は一層強くキセルを吸い込むと、丸々と太った体をソファに沈めて、大きなため息と共に煙を吐き出し、重々しく語り出した。
「ツツジめ、どうも様子がおかしい。二十五年ほど前……当時まだ錦戸に推されて大臣に就いた直後だったか。一度だけここへ来たことがあった。
都の区画がどうの、法令がどうの、それをこの町にどれだけ適用できるか。そんな杓子定規なつまらん話をするだけして、儂がのらりくらりと躱す内に額に青筋立てて喚き散らして、無駄骨だと分かると捨て台詞を吐いて帰って行って、それっきりだ。
どうせ錦戸がここの現状を解らせるためにでも寄越したんだろうが……結局在任中にここへは手を付けず、錦戸があの『殲滅演説』の後に目の前で消されてからはいよいよ抜け殻になって大臣も辞め、沈黙しておったのに、だ」
不二は五台の勿体ぶった話しぶりにウンザリしたように首をさすりながら二本目のタバコを咥え、続きを促した。
「……のに、何だよ?」
五台は不二の態度も意にも介さず、独り言のように続ける。
「この間突然現れたツツジは……まるで別人だ。
薄気味の悪い微笑を浮かべて、無意味な世辞を散々に述べ立てたかと思えば、税収やら、今月に発生した犯罪の件数やら、その中身や出所なぞを根掘り葉掘り聞いてきて、適当に誤魔化そうとすると、『町長、正式な数字を出してくれなければ意味がないんですよ』などと、相変わらず微笑を浮かべたまま慇懃無礼に
儂も政治家よ。やられっぱなしではおらん。『正式な数字と仰るがツツジさん、あんたもう大臣でも何でも無かろう』と。『何の権限があってこんな調査しておるんだ』と切り返してやったが、だったら五台さん貴方こそ、何の権限があって『
不二は驚いて火を点けたタバコを取り落としかけ、目を見開いて五台に向き直った。
「何……?」
「あやつ、どこまで把握しとるか解らん……何が目的なのかも……だがこうなれば、機関はもう軽々とは動かせん」
五台はガリガリと爪を噛み、片手に持ったキセルがへし折れそうなほどに強く拳を握り締めた。
不二も頭をかきつつタバコを深く吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
「成る程……そりゃあ困ったもんだな」
「聞くところによるとあやつめ、錦戸の忘れ形見の後見人になっておるとか。未だに一切表に出てこぬ上に何の話も聞こえてこないからには大したタマじゃあ無かろうが……まさか、そんな青二才を担ごうと言うんじゃあるまいな」
「ククッ、解らんぜ。錦戸を殺ったあのイカれたガキが今や終末派の大幹部で、挙句次期指導者だとか騒がれていやがる昨今だ。物事の加減が分からん若造の頭を叩いてやる奴がいねぇどころか、散々煽り立てて風除けにしちまうのが今風のやり方よ」
「フン、冗談じゃない! あんな狂人集団を基準に世間の在り方が解って堪るかッ」
五台はそう吐き捨てると、また大きく煙を吸い込み吐いた。不二はケタケタと、心底愉快そうに笑いつつ言った。
「五台さん。結局世間話になってんじゃねぇか」
「やかましい! さっさとお前の話をしろ」
「クックックッ……そう焦んなよ。『話がある』なんて俺ぁ、一言も言ってねぇぜ」
「貴様ッ……」
「まぁまぁ、冗談だ。素直に話したって、どうせあんた聞く耳持たねぇと思ってな」
「さっさと言え!」
「まぁ待て」
五台は丸い顔を爆発せんほどに赤くして怒鳴ったが、不二はあくまでマイペースだ。今度は自分の番、とばかりに煙を大きく吸い込み吐き出すと、ゆっくりと話し始めた。
「憎ったらしい追い剥ぎのこった。分かるか? 鼠色のボロ着た白髪のクソガキだ。あの野郎がまた町に戻って来て、早速ウチの若い衆を殺しやがった」
「フー……そんなことか……」
「ケッ、そら見やがれ」
「ネズミの駆除ぐらい自力でやれ。この危うい時期に、わざわざお前が直々にここへ持って来るような話か?」
「そりゃ今知ったんだよ。それにネズミったってありゃ、ただのネズミじゃねぇ。この町に擬態した、猛毒のドブネズミよ。噛まれねぇように用心するこたぁ出来ても、取っ捕まえて殺すとなりゃ至難の業だ。だからちょいと、あんたんとこの機関に頼もうと思ったんだがな」
「今は機関を動かせん。大体奴一人でこの町の力関係を崩すことなど出来んし、そんな大それたことを企むような、オツムのある奴じゃ無かろうが」
「あぁ、分かってるよ……ただな、ネズミは一匹じゃねぇんだよ。何も鼠色してっからネズミってんじゃねぇ。もう一匹いんだ。鬱陶しい、目がチカチカするような色したデケェのが」
「何匹いようが何色だろうがネズミはネズミだ。知らん!」
「あーあー、分かった、分かったよ……よっこいせと」
不二は観念したように目を瞬かせると、気怠げに席を立った。
「面白い話も聞いたし、今日んところは帰るとするよ。またな、町長さんよ」
「フン……」
不二はそのままノロノロと扉まで歩いて手をかけそのまま帰るかと思えば、俯き、眉を顰めてキセルを咥える五台の方を軽く振り向き、言った。
「ツツジのやつがあんまり鬱陶しけりゃ、俺んとこで消してやるよ。何、『
五台は何も言わず、濁った目で不二の背中を見た。
「それにあんたの推理が正しけりゃツツジのやつ、相当悪ぃ大人のようじゃねぇか?
俺もあんたも、ここで長いこと頑張ってきたもんだ。今更常識のねぇガキを担いでここに手を付けようってんなら、俺にも考えがある。あんただって何も、ずっと黙ってやいねぇだろう? クックックッ……」
不二は五台の返答を待たず、不気味な含み笑いを残して場を辞した。
着流しの隙間から覗く刺青が、五台町長の濁った目にいつまでも焼き付いて離れなかった。
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