いちこわびすけ
大家一元
プロローグ
夜明けを拒む子
「混沌! ……世界は未だ、混沌に支配されています」
広場を埋め尽くす聴衆の騒めきが止むと、
総裁はその重い声により一層の怒気を込め演説を続ける。
「懸命に作り上げた財産は、暴力によって奪われ! 知恵もまた暴力の前に屈服し……腕力をなくした老人はまるでゴミのように! ……掃き溜めの中に捨てられてゆきます」
総裁は少し俯いて、一転して聴衆に届くや否やのか細い声で言った。
「このままこの混沌が続けば、弱者には絶望の未来しか残されていません」
並み居る聴衆は視線のみならずあらゆる神経を総裁に向け、その一言一句をも聞き逃すまいとして身構えている。
総裁はそんな有様を暫し目を細めて見渡した。一人残らず、自身の続く言葉を固唾を呑んで待っていることが分かる。そして当代随一の政治家である彼には、彼らがどんな言葉を求めているのかまで手に取るように分かるのである。
総裁は目をギラリと光らせると正面を向き胸を張り、今度は広場の向こう側まで吹き抜ける風のように伸びやかに、朗々と語ってみせる。
「しかし皆様はそんな混沌の世に生まれながらその血と汗で、我ら政府を作り、街を作り、家族と共同体を復活させ、治安も、人心も、秩序も、その悉くを取り返された!」
聴衆の目に光が灯り、少しずつ騒めきが戻る。総裁は今度は彼らに構わず、騒めきを突き抜けるような大声で高らかに言い放つ。
「……かつての世界では、努力は必ず報われ、知恵が夜に光を灯し、老後は人生の総決算でありました。それが今、ここにおられる皆様の偉大なる努力によって、取り戻されつつあるのです!!」
聴衆は歓喜にどよめいた。そして確信した。もうすぐ、恐怖と隣り合わせにあったがむしゃらな生活が、誰も予期せぬ希望と共に結実すると。
しかし、総裁は言葉を続けない。黙り込み、何故かその表情は曇っている。それに一人、また一人と気付くたびに、聴衆のどよめきは自然と収まっていった。また広場は静まり返り、その場にいる全員が総裁の言葉を待った。
「……されど」
総裁は静かに、語りかけるように続けた。
「未だ終末にしがみつき……皆様の努力の結晶たるこの街を。我ら政府を。全てを……粉砕せんとする輩がいます!」
突然強まった怒気に、思わず聴衆は震え上がる。ビリビリと空気が振動するような圧を全身から発しつつ、総裁は続けた。
「それがかの、『
最後は、絶叫せんばかりに声を張り上げた。怒りを通り越し悲哀すら篭っていた。感情は並み居る聴衆に伝染する。ここに、総裁と聴衆は一体となった。静かにどよめき始める広場に向かって、総裁は仕上げとばかりに、畳み掛けるように最後の大気炎を吐いた。
「そしてここにいない、怠惰で、寡黙で、非生産的な者どもがまた、終末派を間接的に支持しているのです! 皆さん……今暫く堪えて下さい……! もうすぐです! 光ある世のために! 終末派を! そして『
広場に、地の底から割れ出たかのようなけたたましい歓声が起こった。凄まじい轟音にしかし、耳を塞ぐ者はいない。声を上げない者もいない。誰もが喉を絞り総裁に喝采を浴びせ、自らをも鼓舞した。ここにいる一人一人の内に、我が手において人類の夜明けを作る! そんな活気と破壊力が満ち満ちていた。
総裁はニヤリと不敵な笑みを浮かべ、広場を見渡す。大衆など簡単なもの。この先何があっても彼らは自分を支持するであろう、と思った。
「ばんざーい」
そんな総裁の耳に、不穏な声が響いた。この熱狂に何も感じず、ただ淡々と周りと同じ言葉を発しているだけの、高く小さく、無機質な声だ。
「ばんざーい、ばんざーい」
異物の存在を感じ取ったのは、総裁だけではなかった。聴衆の前列辺りに、小さな隙間が出来た。気味の悪いその声を避けるかのように。その周囲を中心に、徐々に歓声が止む。無機質な声は、一層目立って周囲に届き始める。
小さな違和感はさざ波のように広がり、気付いた者の大半がその「隙間」に、違和感の原因を見始める。
「ばんざーい、ばんざーい、ばんざーい」
遂には広場にいる大半の者が、どんどん前へ前へと移動していく隙間に意識を集中し始める。総裁もまた息を呑み、その正体を見極めることのみに集中してしまっていた。
衛兵がゾロゾロと進み出て、総裁の前に、脇に、台座の下に、次々と展開する。皆激しく緊張していた。遂に、声の主が列を切り破って、その姿を現した。
「ばんざーい」
衛兵たちは暫く呆気にとられていた。その声は予想より遥かに下から聞こえてきたのだ。
子供。声の主は、顔中に包帯を巻き、薄汚れたボロを全身に纏い、左手に杖をついて歩く、見るも哀れなみすぼらしい少年であった。少年の発する悪臭に鼻を覆い、顔を歪める者がその周囲に数人いた。彼は短い右腕を力無く虚空に掲げつつ、弱々しく、無機質な声を上げている。
「ばんざーい、ばんざーい」
余りに痛々しい姿だった。情深い衛兵の一人は目頭を熱くした。しかして強かなる総裁・錦戸は、この少年に好機を見た。
「その子をこちらへ」
立派な太眉を悲しげに下げ、下の衛兵たちに向かって厳かに言った。隣に控えた背の高い大臣が、渋い顔をして耳打つ。
「総裁……『
「馬鹿者。顔病ならばあのような包帯、忽ち膿が染み出してきおるわ」
「しかし……むぅ」
大臣は頭をかき引き下がった。
「君……こちらへ」
差し伸べられた衛兵の手を、少年はおずおずと掴んだ。小さな手の甲に痣が見えた。それだけではない。よく見ると、包帯で覆い切れていない首元にもある。恐らく、全身にあるのだろう。
衛兵は、この子の受けた辛苦を想い胸を痛めた。そのまま少年を優しく抱き上げると、上に控える衛兵に受け渡した。バトンリレーのように衛兵の懐から懐へと渡されていく少年は怯えた子犬ようにその身を丸め、持っていた短い杖を抱きかかえる。
総裁は衛兵の腕の中から自分を見上げる少年の瞳に、無限の虚空のような美しさを見て思わず息を呑み、吸い込まれそうな錯覚を覚えて慌てて目を逸らした。
そして遂に、少年は総裁の腕の中に収まる。総裁は悪臭を放つ彼をしっかりと胸に抱きかかえると、騒めく聴衆に向き直って語り始めた。
「皆様! この子は……『終末の子』です。我らの努力が、未だ実っておらぬ証拠です」
聴衆や衛兵の中に恥じ入り、涙ぐみ、俯く者が出始める。総裁は粛々と続けた。
「この子が大きく育つまでに、共に希望の世を作ろうではありませんか! この子を……我らのこの手で! 『希望の子』としようではありませんか!」
総裁は子供を高々と掲げ上げた。聴衆は、それに応じるように歓声を上げた。
瞬間……少年は抱きかかえていた杖に手をかけた。
閃光が一筋、総裁の首筋に走った。空気が凍りつく。何事か? その場にいた誰も、事態を掴めずに呆然としていた。
「がっ……かっは……」
総裁が、苦しげに呻く。少年の手に握られていたのは杖でなく、抜き放たれた白刃。総裁の首から、噴水のように鮮血が迸る。それは呆然と見守る衛兵の、聴衆の顔に、次々と降りかかった。
「総裁ーーーーーーーーッ!!」
大臣の怒号を皮切りに、広場は大混乱に陥った。絶叫と怒号がこだまする。少年は総裁の腕を振りほどき、先程までの緩慢な動きからは想像も付かない疾風のような素早さで衛兵たちの剣を、足元をすり抜ける。
一人の衛兵の剣が、少年の顔の包帯を掠めた。包帯が、パラリと落ちる。衛兵たちはその顔を見ようとしたが、彼らが見たのは、水のように流れる麗しい黒髪だけ。少年は一瞬、倒れ込む総裁を横目に見た。総裁もまた、衛兵たちの懸命の呼び声に答えず、必死で少年の顔を見ようと努めた。
一瞬、目が合った。
結局少年はそのまま衛兵たちを躱し切り、聴衆の反対側から舞台を飛び降り、衛兵の追撃が虚しくなる程の速度で駆け抜け消えて行った。
「貴様らッ! 静まれッ! 総裁がお話になられているッ!」
大臣が鋭い声を上げ、周りの衛兵を制する。しかし大臣の声では、聴衆までは抑えられない。悲鳴が飛び交う中、大臣と衛兵は総裁の元へ跪いてその声に必死に耳を傾ける。
「顔を……見たっ……」
呻くように、総裁が言う。首筋の傷は大臣がその装束で必死で抑えていたが、血は容赦なく、滝のように流れ続ける。総裁は懸命に続けた。
「天使のように……美しい……」
そこまでだった。総裁は口から、ゴボッと音を立てて大量の黒血を吐くと、そのままガクリと力を無くした。
「そ、総裁……」
その場にいた全員が、絶望に打ちひしがれた。しかしそこへ、さらなる衝撃が襲う。衛兵が叫んだ。
「だ、大臣ーーーーッ!!」
大臣は答えられず、叫ぶ衛兵の指し示す方向を虚ろな目で見やった。都の中心に聳え立つ巨大な官邸が火に包まれていた。大臣は何も言わず、目を見開いたまま事切れた総裁の顔に視線を落とし、無意識に呟いた。
「終末……未だ終わらず、か」
夜には官邸の出火は消し止められ、翌日都に号外が出された。
「錦戸総裁、死す。また官邸にて控えていた大臣全十六名及び重要官僚四十一名、惨死。衛兵被害、未だ数え切れず。『終末派』より、犯行声明文届く」
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