第3話 妖精さん

今年の春は暑すぎる。


花見? そんなものは葉桜鑑賞会で終わった。

おまけに雨と風。春の嵐なんて風情のあるもんじゃない。

さんざん濡れてやっとこさ部屋に戻ると、もわっとした熱気に思わず顔をしかめる。やれやれまだ四月だぞ、なんだこの暑さは。


とはいえエアコンをつけるほどでもないか。だいいいち今期まだ掃除もしてないから、うっかり稼働させたら舞い上がった埃で確実に喉が死ぬ。

しばらくは網戸で凌ぐことにする。田舎町ゆえ防犯なぞゆるゆるだ。


缶チューハイ片手にしょうもないバラエティ番組を見終えて、さてそろそろ就寝するかとアクビをしていると、奇妙な音が聞こえてきた。


ギィーヨ、ギィーヨ、ギ……


誰だこんな夜中に楽器の練習をしてる奴は。しかもへたくそ。

いや待て、えらい近くから聴こえていないか。

思わず立ち上がって調子っぱずれなギィーヨギィーヨの音源を探す。


いた。

音の主は、壁に掛けてあった初夏用ジャケットの胸ポッケに腰かけていた。

四センチほどの、薄緑色の羽虫……いや待て。

翅は確かに生えているけど、人の顔をしていないか。

細い四本の手で洋梨形の楽器を構えて、一心不乱に弓を動かしている。ギィーヨギィーヨの音はここから聴こえてくるのだ。


ええと、こんばんは。どちらさん?


声をかけてみると、ギィーヨの音は途切れて緑の翅が舞い上がった。

しまった、脅かすつもりじゃなかったんだが。

蛍光灯の光に翅が透けて綺麗だ。ひょっとして、これが妖精さんというやつか。


緑の翅はしばらく部屋の中を飛びまわった末に、飲みかけにしてあった缶チューハイのフチに止まった。そしてあろうことか、飲み口に残っていた白桃味チューハイの雫に顔を近づけてぺろりとなめた。


あ、こら! そんなもの飲んじゃいけません。


ところが当の妖精さん(不確定)はこれがお気に召したらしい。

うめえ、もっとくれ!(意訳)という顔をしてパタパタ舞い上がる。

うう、なんてことだ。


仕方がない、妖精さんに逆らって良いことがあった話は聞かない。

なぜということはない、昔からそういうお約束なのだ。

缶を傾け、人差し指の上にひとしずく取って差し出してみると、妖精さんは素直に指に止まってチューハイを飲み始めた。


妖精さんの身体は翅と同じ薄緑、男か女か知らないが、端正な顔立ちだ。

腕は四本。上の腕二本でこちらの人差し指を捕らえ、下の腕でさっきの楽器を抱えている。バイオリンというよりはフィドルだ。

足は二本、蝶々の足に似ている。


こっそりしっかり観察している間に、妖精さんはまたもや飛び立つと、ジャケットの胸ポケットに戻って再びフィドルを弾き始めた。


さっきまでのギィーヨギィーヨとは打って変わって、随分リズミカルに、楽しげに。

うんまあ、いい感じだね。音楽は楽しくやるもんだ。

白桃チューハイうまいし。


残りのチューハイを飲み干しながら、ひょっとして妖精さん、人間と間接キスしちゃったか? とも思ったが、まあいいか。こちらもいい感じに眠くなってきたので、明かりを落として眠ることにした。

ごきげんなフィドルの音はその後もしばらく聴こえていたと思うんだが……

朝になると、妖精さんの姿もギィーヨの音も消えていた。


あの妖精さん、人間の酒なんか飲んで二日酔いにならなきゃいいけどな、と思いながら壁のジャケットを羽織って外に出ると、空は眩しいほどに晴れている。


日差しの中に出ると、ゆうべ妖精さんが腰かけていた胸ポケットあたりから、空に向けて細い虹が立ち上がった。


おいおい、一宿一飯のお礼のつもりかな? にしては大げさだよ。


道で行きかう人々が、おおいいね、とか綺麗ね、とか声をかけてくる。

おかげでこっちはいつになく愛想良い挨拶を返さなくちゃいけないじゃないか。


けど、まあいい。妖精さんのすることに逆らってはいけないのはお約束だ。


胸の虹を大切に抱えたまま、通勤の道を急ぐことにしよう。










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