250話 約束だよ
唖喰に連れ去られた翡翠を助けに来た美沙が目にしたのは、腰から下を無理矢理食い千切られ、血で全身を赤く染めていく少女の姿だった。
無理矢理噛み千切られたと分かったのは、少女の腸が半ばで途切れているためである。
「ひー……ちゃん……?」
「……」
今見ている現実を否定して欲しくて声を掛けるも、半身を失くしている翡翠は反応を返さなかった。
──噓だ……。
そんなことあっていいはずがないと、美沙は締め付けられる胸の痛みから目を逸らす。
だがどれだけ目を逸らそうとも、これは現実なのだと心に虚しさを突き付けられる。
「ゃ……だ、ぁ……」
覚束ない足取りでゆっくりと地面に横たわる翡翠に歩み寄る。
目から涙が溢れて止まらない。
司と喧嘩別れした時にも一生分の涙を流したはずなのに、なおも涙腺は泣けと促してくる。
「おねーちゃん、って……呼んでよぉ、ひーちゃん……」
「……」
翡翠の傍らに膝を着いて、少女の顔を見やる。
──翡翠の目は耐え難い苦痛を受けたことで、沼のように真っ黒で虚空を見つめており、目端や口端から涙や唾液が伝った痕があった。
──嘘だ噓だ噓だ噓だ噓だ噓だ噓だ噓だ噓だ噓だ噓だ噓だ噓だ噓だ噓だ噓だ噓噓だ噓だ噓だ噓だうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダ……。
「──イヤアアアアアアアアアアァァァァァァァァッッ!!?」
家族の死を知った時さえ出なかった悲鳴が、美沙の声帯から大きく木霊した。
どうしていつも、唖喰は自分の大事な人を奪っていくのだろうか。
両親や魔導士として共に戦って亡くなって来た人、血の繋がりを越えた絆を育んだ最愛の妹までも……。
間違いだった。
一時の感情に任せて翡翠が魔導士になることを認めるべきではなかった。
彼女がこうなったのは自分のせいだと美沙は自らを責める。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
深い後悔と底の見えない絶望……翡翠を守れなかったことへの罪悪感が込められた懺悔の言葉をブツブツと口にする。
別段、美沙も唖喰と戦って怪我をしなかったわけではない。
一度右腕を噛み千切られた時は一晩中うなされた程に痛かった。
だが、翡翠は下半身丸々だ。
痛々しいという言葉が軽く思える凄惨で悲痛さを感じ取れる有り様に、美沙の胸は心臓が張り裂けるように強く深く痛みを刻まれる。
だからこそ……。
「……許さない……ッ! 許さない……ッ! 許さない……ッ! 許さない……ッ!」
唖喰へのとめどない怒りと決して尽きることの無いどす黒い憎悪が、美沙の絶望で空になった胸中に募っていく。
そこには、こので残酷な理不尽を強要する世界への憎しみも含まれていた。
一体、自分や翡翠が何をしたというのか……。
どうして、普通の女の子のように笑って過ごして、互いを思いやる姉妹のままでいさせてくれないのだろう……。
勉強や運動も、家事や魔導士としての戦いもどれも真摯に取り組んで来たのに、恋の一つもままならない……。
どうして唖喰なんているのか……どうして魔導士になれる才能を持ってしまったのか……どうして世界はこんなにも残酷なのか……あらゆる疑問が浮かんでは消えることを繰り返す。
果てしない絶望と憎悪で自分が自分でなくなっていく感覚に、美沙は湯船に浸かるように身を委ねた。
──もう、全部どうだっていい……。
そう彼女らしからぬ決意を固めようとして……。
「ぉ……ゃ……ん」
「──え?」
不意に視界の外から掠れた声が聞こえた。
先とは違う意味で信じられないという気持ちを抱きつつ、恐る恐る声がした方へ視線を向ける。
「ぁ、か……ぶっ、げふっ……」
「ひ、ひーちゃん!?」
翡翠が全身を痙攣させながら吐血していた。
何の奇跡か、下半身を欠損させた状態であっても少女はまだ命を繋いでいたのだ。
風前の灯火とはいえ、翡翠にまだ息があると知った美沙の心には一縷の望みが出来た。
「っ、治癒術式、発動っ!!」
その望みを確かなモノとするために、美沙はすぐさま少女に治癒術式を施す。
翡翠の全身が治癒力を宿す光に包まれるが、彼女の容態はすぐに回復とはいかなかった。
魔力持ちの人間にしか作用しないという制限付きとはいえ、いくら現代医学では成し得ない四肢の欠損すら、容易に治せる驚異的な回復力を誇る治癒術式は、対象が即死でなければ心臓を潰されても回復出来る。
しかし、欠損した範囲が大きかったり生命維持に不可欠な臓器の場合、回復に時間が掛かる上に魔力もより多く消費するのである。
今の翡翠の容態を挙げるなら、下半身欠損による失血と多臓器不全という診断が下されるだろう。
当然、それだけの重傷を回復させるのには、翡翠の体に残る魔力だけでなく、美沙自身の魔力も必要になって来る。
「死なせない……絶対に、助けるのっ! ──う、ぐぐううぅぅ!!」
自身の魔力がみるみるうちに減っていく感覚に眉を顰めるが、それに比例して翡翠の下半身も元の形を取り戻し、顔色も血色良くなっていく。
肉体的には完全に回復したが、美沙は呼吸を確かめるために、少女の口元に耳を寄せる。
「──すぅ……」
「ぁ……良かっ、たぁ……」
痙攣していた体も落ち着き、血はそのままだがゆっくりと呼吸を繰り返していることから、無事に回復出来た様子であった。
なんとか間に合ったと安堵した美沙は、大きく息を吐いて胸を撫で下ろす。
「ごめんね、ひーちゃん……怖かったよね……」
「──すぅ……すぅ……」
穏やかな息遣いをする翡翠へ謝罪の言葉を口にしつつ、美沙は魔導装束の手袋が汚れることを厭わず、少女の口元の血を拭う。
建設破棄された時に放置されたであろう、ブルーシートを小さな体に被せる。
唖喰に下半身を食い千切られたせいで、翡翠の魔導装束は半壊したままで、おおよそ他人の目に触れられる状態ではない。
今度こそ彼女を連れて撤退しようと思い、美沙が周囲の安全を確認すると……。
「シャアアアア!」「ガルルルルゥァッ!」「シュルルル!」「ギャギャギャギャギャギャ!」「グルルルルル!」「キシシシシ!!」「ヴヴーッ!」「グアアアアッ!」
「──っ、噓でしょ……?」
美沙が辿って来た道に再び唖喰の群れが
ついさっき周囲の唖喰を殲滅したことで、多少は戻りやすいと思っていたのだが、翡翠の重傷を治している内に、集まって来ていたと察する。
美沙とてこのまま戦闘を回避出来るとは思っていなかったが、流石にこの数は予想していなかった。
何故なら、翡翠の治療の際に彼女だけでなく自身の魔力も注ぎ込んだため、もう美沙に残された魔力量はそれほど多くないのである。
得意技であるメタトロン・ビーズはまともに機能せず、使えても一度の発動が限界と感じた。
翡翠を治す最中に妨害されなかっただけまだマシだが、それにしても状況は最悪だった。
治したばかりの少女に戦いを続けることは不可能……美沙の魔力量も少ない……。
ここで美沙がしくじれば、翡翠を回復したことが無駄になるだけでなく、二人まとめて喰い殺されてしまう。
それだけは絶対に看過できないと、美沙は長棒を握る手に力を籠める。
敵がたった三種という点であれば、必要最小限の術式の使用で切り抜けられるかもしれない。
そう判断した彼女は、翡翠を守るために立ち上がる。
「おねー……ちゃん……」
「! ひーちゃん……」
そんな中、美沙の治療で死を免れた翡翠が意識を取り戻した。
魔力枯渇の影響で弱々しい声音だが、彼女の耳にはしっかりと聞こえたため、美沙は振り返る。
「ごめん、なさい……です……」
「っ!」
朦朧とした意識でも、翡翠は美沙が自分を助けてくれたのだと察していた。
そして姉に迷惑を掛けてしまったと思い至った謝罪に、美沙は唇をキュッと強く結ぶ。
「ひーちゃんは、何も悪くないよ……悪いのは唖喰だから……」
ここで自分の力不足を挙げても、翡翠は納得しないだろうと思った美沙は、唖喰が悪いと断ずる。
実際に翡翠があんな目に遭ったのは唖喰が原因にあるため、何ら違和感はない。
「でも、わたし……もっとちゃんとしていれば……おねーちゃんを守るって、決めたのに……心配かけてばっかりです……」
「ひーちゃん……」
危うく死に掛けたにも関わらず、翡翠が一番気にしているのは美沙を守れない己の不甲斐なさであった。
もっと強ければ、あの時油断をしなければ……そんな後悔から自分の弱さを嫌う少女に、美沙はどう答えたものか一瞬答えに窮するが、スッと翡翠の頭を撫でる。
「おねーちゃん?」
「……大丈夫だよ」
「ぇ……?」
不意に投げ掛けられた言葉に、翡翠はキョトンとする。
一方で、美沙は彼女を安心させようと笑みを浮かべていた。
「ひーちゃんは強くなろうとしてるんだから、きっと強くなれるよ。私だって、みぃちゃんだって最初から強かったわけじゃないんだもん」
「ぁ……」
「ひーちゃんは私の言うことが信じられない?」
「っ、う、ううん……おねーちゃんが、そう言ってくれて、嬉しい……です……」
大好きな姉の言葉に、翡翠は純粋に想いを口にする。
いよいよ意識が遠のいていきそうになる際、翡翠はせめてと、ある言葉を発する。
「あの、ね……」
「うん?」
「わたし、おねーちゃんに……言わなきゃ、いけないことが……あるです……後で、聞いてくれる……?」
「──うん、絶対に聞く……約束だよ」
「……うん、やくそく……です……」
そうして翡翠は、再び眠る。
その様子を見届けた美沙は、その場に立ち上がってゆっくりと口を開く。
「固有術式発動、ラミエル・ファントム」
翡翠の周囲に幻覚を発生させる魔力の霧を展開する。
唖喰から彼女の姿を消して、美沙一人しかいないように見せかけたのだ。
「大丈夫……ひーちゃんは私が守るから」
後一回しか使えない固有術式を、翡翠を守るために使った。
それは美沙にとって最大の生命線を失くすことと同義である。
「約束……したんだ。だから、私はここで死ぬわけにはいかない……」
しかし、悲観することなく自分に言い聞かせるように、美沙は独り言を呟く。
その決意に関係なく唖喰達は獲物を捕食せんと、彼女に狙いを定めだす。
後方に横たわる翡翠の無事に気を配りつつ、美沙は長棒を握り締めて構える。
「絶対に、負けてたまるかっ!!」
決死の覚悟を胸に、美沙は唖喰の群れと対峙する
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