現実は幸せに染まって

(おせいの家)


おせいが木戸口の掃除をしていると、男の子が走った来て転ぶ。


「いてっ。うう、うわーん!」


「大丈夫かい?

ここは道が悪いから走ったら危ないよ。」


泣いていた子どもは、顔を上げ、おせいの顔を見て驚く。


「うわぁっ!」


おせいは気にも留めず、子どもの傷を確かめる。


「ほら、足を見せてごらん。

ああ、よかった。血は出てないね。

でも少し赤くなっている。痛いかい?」


子どもは少し戸惑った様子で答える。


「う、うん。ちょっと痛い。」


「大丈夫。

後で水で冷やせばすぐによくなるよ。」


子どもは警戒心が和らいだ様子で、おせいに尋ねる。


「あ、ありがとう。

おばちゃんは大丈夫かい?」


「え?」


「顔…痛くないのかい?」


「ああ、大丈夫だよ。おばちゃんは痛くない。

坊やは優しい子だね。」


おせいはそっと子どもの頭を撫でる。


するとそこへ子どもの母親らしき女がやって来て、酷い剣幕で怒鳴る。


「うちの子になにするんだい!」


「私はなにも…。」


「嘘言うんじゃないよ!

うちの子を食べようったってそうはいかないよ!」


「…。」


おせいは言われていることを理解したが、無表情のまま、反論することはしなかった。


「おっかちゃん、違うよ。

おいらが転んだのを助けてくれたんだよ。」


「太郎坊は黙ってな!

ここには近づいちゃいけないって言ってるだろ?!

こんな醜い女は鬼か何かに決まってるんだ。

太郎坊は食べられてもいいのかい?」


子どもは驚きと怯えを滲ませて答える。


「え?!食べられる?!」


「そうだよ、ごらん。恐ろしい顔だろ。

さ、食べられてしまう前に早く帰るよ。」


「あんた!

今度うちの子になにかしようとしたら、タダじゃおかないからね!」


一方的に捨て台詞を吐いた母親は、子どもを引きずるように足早に去っていった。


おせいは、ただ小さくため息をつき、家に入ろうとした。


おせいが家に入りかけたところに、男が帰って来る。


「おせいさん?こんなところでどうしたんですか?」


「ああ、なんでもないよ。

おかえり。早かったね。」


「今帰りました。

今日は座敷が少なく、板場が早く上がりましたので。」


「そうかい。いつもご苦労さま。」


「いえ。

あ、これ頂き物ですが、お饅頭です。」


おせいは少しだけ嬉しそうな表情を浮かべ、答える。


「じゃあ、今お茶を入れよう。」


男はおせいより嬉しそうに、声を弾ませて言う。


「はい。

今日は天気もいいし、ここから庭の桜を眺めながらお花見とするのもいいですね。」


「桜か…。」


「桜が咲く頃なら、伊佐さんが来てもう一年になるんだね。

私が昔読んだ草双紙からつけた『伊佐吉』って名前も馴染んじまって。」


しみじみと言うおせいに、男は少しバツが悪そうにする。


「はい…すみません。あのまま一年もお世話になって。」


「謝ることなんてないよ。

お世話になってと言うけれど、伊佐さんは宿の板場で働いて、自分の分だけじゃなく私の分まで稼いでくれる。

私の方がお礼を言わなきゃね。」


「そんな、お礼だなんて!」


「本当のことだよ。

でも伊佐さんが包丁を握れるってわかった時には驚いたね。

手に筆やそろばんだことは違った跡があって、偶然包丁を握ったら見事な手つきだったものね。

でも、『前は板前かなにかだったのだろう』とわかるくらいで、他のことは今も思い出せないままだものね。

家族も心配しているだろうし、名前だって本当の名前じゃない。

早く思い出せるといいね。」


「…。」


無言になった伊佐吉に慌てた様子でおせいは言う。


「あ、違うよ。

責めてるとかそんなんじゃない。

伊佐さんさえ良ければ、いつまでだってここに居ても構わないんだからね。

ほ、ほら、お茶を入れるから。

今年の桜は綺麗だね。山が桜色に染まって見える。」


「本当に綺麗ですね。

私は昔のことは覚えていないけれど、でもおせいさんと見るこの桜が、今までで一番綺麗に見えていると思います。」


「そうだね。

私も今まで見た桜の中で、伊佐さんと見る今年が一番綺麗に見える。」


「…。」


「伊佐さん?」


「おせいさん。

私はこのまま何も思い出せなくていいと思っているんです。」


「思い出せなくていいって…。」


「自分がどこでなにをしていた人間かわからないけれど、でも今は伊佐吉として毎日が積み重なっていく。これからもこうして伊佐吉として、日々を積み重ねていければいいと思うんです。」


「でも家族がいるんじゃないのかい?

このまま一人で生きていくのは心細いだろう?」


「そのことなんですけど…。

あの、おせいさん、私と家族になってもらえませんか?」


「え?家族って…。」


伊佐吉の言った意味がすぐに飲み込めなかったおせいは、呆然と聞き返した。


「おせいさんさえ良ければ、私と夫婦になってもらいたいんです。」


「そ…そんな冗談やめておくれよ。」


「冗談なんかじゃありません!

これからおせいさんと日々を積み重ねていきたいんです。」


「なんで私なんだい。

私なんてこんなに醜くて、一緒になったらみんなに笑われるよ。

今だって良くは言われていないだろうに。」


「おせいさんは醜くなんてありません!

おせいさんは一年前に私を助けてくれた時から、身元のわからない私にずっと良くしてくれました。

どんなことにも真面目で一生懸命で、時々強がってみせるけど本当は優しくて、涙脆くて。

他の人がなんと言おうと、私にとっておせいさんは誰より綺麗です!」


伊佐吉の言葉が心深いところに刺さったおせいは、涙目で尋ねる。


「伊佐さん…。

じゃあ、来年も伊佐さんと一緒に桜を眺めることができるのかい?」


「はい!

来年も再来年もその先もずっと、おせいさんと一緒に桜を見たいです!」


「伊佐さん…嬉しいよ。

本当は、ずっと伊佐さんがここにいてくれたらいいと思ってたんだ。

嬉しい…。

こんなに嬉しいことがあるんだね。」


「おせいさん、きっと幸せになりましょう!」


「伊佐さん!」



桜の木の下で出会い、一年の時を一緒に過ごした二人は、いつしか惹かれ合い、この先も一緒に桜を眺める契りを交わした。

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