真実は時に残酷に
(おせいの家)
庭に咲いた桜の木の下で、おせいと伊佐吉が穏やかに話している。
「今年も桜が綺麗に咲いたね。」
「本当だね。
伊佐さんと出会って三度目、夫婦になってからは二度目だけれど、いつ見ても伊佐さんと見る桜は綺麗だ。」
「私もおせいさんと見る桜は本当に綺麗だと思う。
そうだ。
今日と明日はせっかく板場が休みだし、少しだけ遠出をしようか。
おせいさんは家に篭ってばっかりだし、たまにはどこかに出かけようよ。」
弾んだ声で言う伊佐吉とは対照的に、おせいは小さな声で返事をした。
「いや、いいよ。
こんな私と外を歩いたら、伊佐さんまで変な目で見られる。」
「またそんなことを言って!
いつも言ってるじゃないか。他の誰になんと言われようと、私は気にしない。
私たちは夫婦なんだし、堂々としていればいいんだ。」
「伊佐さんが気にしなくても、私が気にするんだ。私のことはともかく、伊佐さんが悪く言われるのは嫌なんだ。」
「おせいさん!」
「本当にいいんだ。どこへも行かなくても。
伊佐さんと過ごせるだけで、私は十分なんだよ。」
伊佐吉は、小さくため息をつく。
「やれやれ。
おせいさんは言い出したら頑固だからな。
じゃあ、今日と明日はおせいさんがして欲しいことをなんでもするよ。
家のことだけじゃなく、おせいさんがしたいこと、私にして欲しいこと、何でも言ってごらん。
どんなわがままでも全部聞くよ。」
笑いながら語りかける伊佐吉につられて、おせいも笑いながら答える。
「わがままって子どもじゃないんだから。」
「いいじゃないか、たまには甘えてくれても。
それとも私はそんなに頼りないかな。」
「そうは言ってないけれど…。」
《トントン》
おせいが返答に戸惑っている時、木戸口を叩く音がする。
おせいは不思議そうに木戸口に向かう。
「誰だろう。この家に人が訪ねてくるなんて。」
歩きかけたおせいを制して、伊佐吉が言う。
「あ、私が出よう。」
「いや、私が。」
「いいんだ。
今日は私がおせいさん甘やかすと決めたんだから。」
《トントン》
伊佐吉は足早に木戸口に出向く。
「はい、今開けます。どちら様…」
伊佐吉が木戸口を開けると、身なりのいい若い女と、下男らしき男が立っていた。
女は伊佐吉を見るなり、声を高らげる。
「新三郎さん!」
「え、あ、あの…」
「私です!やっと見つけました!探しましたのよ!」
「えっと…」
「ああ、そうでしたわね。今は記憶をなくしているとか。
三年も探して、やっとこちらの宿場にいるって分かって。
宿場の方では、記憶を無くして今はこちらで暮らしていると。
お一人で心細かったでしょう。こんな寂れた家に住んで。」
奥から様子を伺っていたおせいが、遠慮がちに声をかける。
「あの…」
「きゃあ!化け物!」
おせいの顔を見て声を上げた女に、伊佐吉が強く責めた。
「そんな言い方はよしてください!
私の大事な妻です!」
「妻って、この醜い女が?!
そんな、記憶を無くしている間にこんなにお辛い状況になっているなんて。」
伊佐吉は、怪訝そうに問う。
「あの、あなたは私のことを知っているんですか?」
「知っているも何も、私たち夫婦じゃありませんか!」
「夫婦?!」
あまりの驚きに伊佐吉は大きな声で問い返した。
伊佐吉の驚きように、女は少し冷静になり説明を始めた。
「そうでしたわね。記憶がないんですものね。
あなたは江戸は墨田で代々続く料亭『風月』の若旦那で、新三郎さんと言いますの。
三年前、私たちは家同士が決めた許婚として夫婦になったばっかりでした。
その頃、風月の評判を聞いた京のお公家様からぜひ一度京に招かれて、板場にも立つことのあった新三郎さんは京にお出かけになりましたの。
でも京でのお話が終わって、京を出たという使いの後、新三郎さんの行方がわからなくなってしまって。
それから風月はもちろん、私の実家からも資金を出してもらい、ずっと新三郎さんを探しておりましたのよ。
さ、皆が心配していますから、帰りましょう。」
女は一通り話終えると、伊佐吉の袖を引く。
「待ってください。
帰ると言われても私は何も…。」
「思い出せないのでしたら、いくらでもご説明しますから。
でもこんな汚いところではなく、宿に部屋を取っていますから、そちらでゆっくり、ね。」
「いや、私は…。」
「あなたのお父様、大旦那様がご病気なのよ!」
「え…病気…。」
「今までは大旦那様のおかげでお店が回っていたけれど、これからはそうはいかなくなるわ。それに大旦那様がずっと新三郎さんのことを気にかけていらっしゃるの。」
「…。」
伊佐吉は虚無な目で空を見つめていた。
「さ、お分かり頂けたでしょう。行きましょう。」
呆然とする伊佐吉を、おときは下男に目で指図し、強引に連れて帰ろうとした。
「伊佐さん。」
おせいの静かな一声に、伊佐吉は我に返る。
「!!おせいさん!」
おせいは感情の読み取れない声で尋ねる。
「行くのかい?」
「いや、私は…。」
その様子を見ていた女は金切り声を上げる。
「あなたは黙ってて!
妻とか言っていたけれど、あなたみたいな醜い人を新三郎さんが本気で好きになるわけないでしょう!
どうせ困っている新三郎さんにつけ込んで、無理やり言わせたのね!
それともお金?
人助けをして恩を売っておいて、後でお金を取ろうって言うんでしょ?!
そんな醜い顔なんだもの、きっと心の中も醜いに決まっているわ。
さっさと本性出したらどうなの!」
「おとき!止めないか!」
新三郎は咄嗟に口にしていた。
「新三郎さん!
今、私の名前を呼んで下さったわ!
思い出したのね!よかった。さあ、帰りましょう。」
「い、いや、私は帰れない。
私はおせいさんが…。」
「まだこの女のことを気にするの?!
わかったわ。この女に何か弱味を握られているのね。
お可哀想に。本当に醜い女だわ。」
「おせいさんを悪く言わないで…」
伊佐吉が諌めかけたところに、おせいが冷淡な口調で嘲笑する。
「ははっ。良かったじゃないか。
ああ、これでせいせいした。
こんなに長い間居座られたんじゃ、迷惑で仕方なかったんだ。
まったく。迎えに来るのが遅いんだよ。」
「おせいさん!」
おせいの誰も寄せ付けない空気の中、伊佐吉はおせいの名前を呼ぶのが精一杯だった。
尚もおせいは、冷たく言葉を重ねる。
「さっさと行きな、って言いたいところだけど、ただで帰るつもりかい?
三年も面倒を見てやったんだ。
それなりの礼ってもんがあるんじゃないのかい?」
「ほら!やっぱりこれが本性だったのね!
いいわ。いくら欲しいの?
言い値をお支払いするから、早くして!」
「そうだねぇ。二十両ってとこかね。
安いもんだろ?五体満足で帰してやろうってんだから。」
「本当に図々しい。
はい、ここに五両あるわ。手付と言うことで後から使いの者に残りを届けさせるから、それでいいでしょう?」
おせいは吐き捨てるように言う。
「は、五両とはしけてるね。
明日の朝までに残りを届けてくれるってんなら、今はこれでいい。
でも明日の朝までに届かなかったら、江戸は墨田の風月だっけ?そこまで取りに行かせて貰うよ。
こんな醜い顔の女が店に出入りして、客足が遠のいても知らないがね。
さあ、さっさと行きなよ。目障りだ。」
おせいのあまりの様子に、伊佐吉はやっと口を開く。
「おせいさん!」
「なんだい。
金の話がつけば、あんたはもう用無しだよ。
二度とその口で私の名前を呼ばなくどくれ!」
「そんな…。」
絞り出した伊佐吉の言葉は、おときの声にかき消される。
「新三郎さん、分かったでしょ!
これがこの醜い女の本性なの!
こんな化け物といつまでも話していたら、私たちまで醜くなってしまうわ!
早く行きましょう!」
「だが…」
「大旦那様やお店が心配ではないの?
さ、さ。」
困惑する伊佐吉を、おときと下男が強引に連れ去る。
残されたのは、おせいただ一人。
「…行った、か。
よかったじゃないか、帰る場所が見つかって。
よかっただろう…?
これで…よかったんだ…。」
風で桜吹雪が舞い散る下、おせいはただ静かに呟いた。
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