目の前の現実
(おせいの家)
ひっそりと静まり返った深夜、男が眠っているところを、おせいが看病している。
「よかった。だいぶ熱は下がったね。」
おせいは安堵したように一息をついた。
「ん…。」
男が目を覚ましそうになると、おせいは慌てて背を向けて立ち去ろうとする。
「ここは…。うっ。」
おせいは背を向けたまま、小さな声で少し急くように答えた。
「まだ寝ていた方がいい。
熱は下がったようだが、あんたは七日前の嵐の晩に桜の木の下で倒れていて、そこから七日間眠り通しだったんだ。
そこに水と薬湯が置いてあるから、飲むといい。
粥もあるから、食べられるようならお食べ。」
言い終わると、おせいは立ち去ろうとする。
「あの…」
「しばらくは動けないだろうから、家に手紙を出すなら、届けてもらうように人に頼んでくる。後で紙と筆を持ってくるから。」
「待ってください。」
足早に立ち去ろうとするおせいを、男は慌てて呼び止める。
「まだ何か?」
「あなたが私を助けてくれたのでしょう?
寝ている間ずっと誰かに看病されていたのは覚えているんです。
顔を見てきちんとお礼を言いたいから、こちらを向いてもらえないだろうか?」
「お礼なんていい。
それに、私の顔を見たらせっかく良くなりかけたのにまた具合が悪くなる。」
「顔を見て具合が悪くなるなんて。」
「本当になるんだ。私は醜いから。」
「そんな。
あなたがどんな顔をしているか分からないが、こんなに良くしてくれた人を醜いなんて思ったりしません。」
「…後悔しても知らないよ。」
おせいはため息をつきつつ、ゆっくりと振り返った。
「ああ、よかった。こちらを向いてもらえて。
助けてもらい、本当にありがとうございます。」
「私の顔を見て驚かないのかい?このアザを醜いと思うだろう?」
「さっきも言ったけれど、こんなに良くして貰った人を醜いなんて思ったりしません。」
「変わったお人だね。私の顔を見て驚かない人は初めてだ。
助けた時の身なりがよかったから、どこかの商人かと思ったが、もしかしてお医者かなにかかい?」
男は少し呆然とした言葉でつぶやく。
「医者…?商人…?」
「どうしてそんな不思議そうな顔をするんだい?自分のことだろう?
ああ、なにか話したくない理由でも?」
「いや、そうではないんだが…。」
「どうしたんだい?」
「私は…いったい誰なんだ…?」
「え?自分のことがわからないのかい?
名前は?」
「名前…わからない。
私は、私は、私はいったい誰なんだ?!」
声を荒らげる男におせいはゆっりと語りかける。
「落ち着いて。
そんなに急に大きな声を出したら、身体に良くない。
自分のことが、名前も、わからないんだね?
なにか覚えていることはあるかい?」
「本当にわからない。
名前も、どこの人間でなにをしていたかもわからない。
あなたは私を助けてくれたが、知り合いというわけではないのでしょう?」
「ああ。
私は七日前の晩に、ここから近くの桜の木の下であんたが倒れていたのを見つけて連れて来たんだ。
ここは宿場町から少し離れたところにあって、近くに街道に繋がる道がある。
七日前の嵐は雨が酷かったから、峠で足を取られて滑り落ちてしまったのだと思うけれど。
もしかしたら宿場のどこかに泊まっていたのかもしれないね。
私は宿場に出入りできないから、少し時がかかるかもしれないが、あんたらしき人がどこかの店の台帳にないか調べてみるよ。」
「なにからなにまでお世話になって…。
すぐにでもお礼をしたいのだが、何もできなくてすみません。
動けるようになったらすぐに出て行って、必ずお礼を。」
「出て行くったって、自分が誰かもわからなければ行く宛もないだろう。
自分のことを思い出すか、身元がわかるまではここにいたらいいよ。」
「でもこれ以上ご迷惑をおかけするわけには。」
「迷惑なんてことはないさ。
ここには私の他には誰もいないし、誰かが訪ねて来ることもない。」
「ご家族はいないんですか?」
男の素朴な疑問に、おせいは少し寂しげな声で語る。
「いないよ。ずっと一人だ。
小さい頃には母親がいたが、生まれついてのこの顔だから、その母親にも気味悪がられ、疎まれていた。
私が七つか八つの頃、母親に男ができて、その男に私を捨てろと言われるまま、母親は私を捨ててさっさとこの家を出て行った。
それからこの家に近寄ろうって物好きもいないからね。」
「すみません。」
「別に謝ることじゃないさ。
私の顔がこんななのはあんたのせいじゃないし、一人にも慣れっこだよ。
あ、でもあんたのことを宿場に聞いてやることは出来ると思う。
私は宿場の店から仕立てや直しの仕事をもらうことがある。
といってもこの顔で宿場に出入りしたら客が逃げると言われ、宿場の中までは入れないが、いつも町外れで荷の受け渡しをする下働きの男がいる。
その人にあんたのことを聞いてもらうよ。」
「ありがとうございます。
では少しの間こちらでお世話になってもよろしいでしょうか?」
「ああ、早く思い出せるといいね。
いや、きっとすぐに思い出せるよ。」
こうして、おせいと男の同居生活が始まろうとしていた。
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