第9話
話し声が聞こえて目を覚ますと、私の体には布団がかかっていた。それだけではない。ベッドの端に腰掛けて倒れていたはずだったのに、いつの間にか私は枕を後頭部に置いた正しい姿勢で寝入っていた。シワにならないよう、スカートまで脱いで。上半身を起こして机に手を伸ばし、丁寧にたたまれていたスカートに手を伸ばす。
身だしなみを整えてカーテンの隙間からちらと外のようすを確認すると、そこにはアカネちゃんがいた。なにやら気分が悪そうに額を押さえ、金髪の友達に肘のあたりを支えられながら隣のベッドに入っていく。ファスナーを下げる音。きっと、私と同じようにベッドで睡眠をとるつもりなんだ。心臓がやたらと大きな音を立て始めた。アカネちゃんが近くにいる。私は膝の震えを抑え、ベッドに腰掛けて隣の声に耳をすませた。しかし、聞き取れる声は友人のものだけで、肝心のアカネちゃんの声は消え入りそうな相槌だけだった。
五分か一〇分か、どれくらいかはわからないだけの時間が経つとチャイムが鳴り、じゃあねと一言を残して友人は保健室から去ってしまった。このあと授業が残っていたのだ。とても意外だった。三Dのひとたちは真面目に授業を受けず、サボっているのだろうと思っていたから、まさかアカネちゃんを置いて教室に戻ってしまうなんて思いもしなかった。隣のベッドと私を隔てているカーテンに耳を当てると、静かな寝息が聞こえてきた。すぐにでもアカネちゃんの顔を見たかった。でも、眠りが浅いだろういまカーテンを開けては、その音だけで私に気づいてしまいそうだ。どうせ途中から授業に戻っても目立つだけなので、今回も授業を休んで保険室にいることにした。そして、アカネちゃんの寝顔を見よう。
ところで、いまは何時間目なのだろう。私をベッドに押し込んだのがルミちゃんなのだとしたら、すくなくとも一時間目は終わっているはず。もしかしたら二時間目も。三時間目は体育だから、着替えや移動のせいでお見舞いに来れなかったせいでさきの休み時間は私はひとりだったのかも。
「んっ」
アカネちゃんの声が聞こえた。どうしたのだろう。寝苦しいのかな。怖い夢でも見ているのかな。ようすを確認したいけど、まだ寝ていない可能性がある。寝返りを打つ音。こっちを向いたのか、外を向いたのか。カーテンの影だと友人は私の側にいたはずなので、きっと外を向いたのだろう。いまならバレずに彼女の姿を見れるかも。
私はしゃがんでカーテンの裾を持ち上げ、アカネちゃんのベッドを見た。横たわるアカネちゃん。机の上には脱いでたたまれたスカート。体の向きは窓を向いていた。カーテンのおかげで日光が差し込まず、睡眠は妨害されていない。緩やかに波打つ茶色の髪は朝見たときと違って三つ編みにされており、寝ている間に広がったり、体の下敷きにして痛めつけたりしないようにされていた。友人がやったのだろう。枕元でとぐろを巻く蛇のように横たわる髪は長く、伸ばせば毛先が肩甲骨よりも下にいくだろうことは容易に想像できた。その髪に触れたい。私が三つ編みにしてあげたい。私はカーテンの下をそっとくぐり、境界線を越えようとした。
「んんぅ」
アカネちゃんが寝返りを打つ。私は慌てて四つん這いになるようにして自分のベッドに戻った。バレてない? アカネちゃんは特に騒ぐことなく寝息を立てていた。バレなかったみたい。ほっとひと息つき、私は再度カーテンの向こう側を覗いた。アカネちゃんは仰向けで眠っていた。胸のあたりが呼吸に合わせてゆっくり上下する。寝ていることを確信した私は境界線を越え、ついにアカネちゃんと対面した。閉じられたまぶたを彩るように伸びた睫毛は長く黒々としている。化粧なのだろうか。どの角度から見てもつけ睫毛の類ではなさそうだった――化粧に疎い私が知らないだけで、今のつけ睫毛は進化していて本物と区別がつかないという場合を除いて。色も自然な艶があり、もしも私の髪に紛れ込んでいても気がつくことはなさそうだった。きっと、アカネちゃんは化粧をしなくてもいいような美人なのだろう。肌の色も私と違って白すぎるということはなく、かといって日焼けしているわけでもない健康的な色で、三Dの生徒に多く見られるピンクの頬、チークをしているわけでもなさそうだった。ただ唇だけは艶やかに潤っていて、カーテンの上部からわずかに差し込んでくる蛍光灯の光を受けて輝いているようにも見えた。もちろん、眩しくなるほど直接的に光が落ち込んでいるというわけではないので私の錯覚なのだろうけど。
そこで私は突如として、その唇に触れてみたい衝動にかられた。彼女を忘れられなくなったきっかけのひとつである唇。私の思い出。特別な場所。いきなりキスをしてバレてしまっては、なんの言い逃れもできない。せっかくのチャンスにも及び腰だった私は恐る恐る、彼女の唇に指を伸ばした。震える指が唇と接触する。柔らかい。触れた部分が沈み込むようにくぼみ、しかしある程度の反発を持って私の指を押し返す。思わず頬がゆるんだ。
「んっ」
アカネちゃんが声を出す。しまった。つい長く触れてしまった。そのせいで起きてしまったのだろうか。私は慌てて手を離し――そのせいで余計な衝撃を与えてしまったかもしれない――身を引いた。アカネちゃんは目を覚ますことなく、また静かに呼吸を始める。
私が胸を撫で下ろすと、廊下から硬質な足音が聞こえてきた。きっと保険医だ。私は慌てて自分のベッドに戻り、ベッドにもぐった。扉が開き、保健医が中に入ってきた。カーテンレールがわずかに動く音が聞こえた。しかし、すぐに足音はカーテンから離れ、椅子が軋む音がした。狸寝入りがバレなかったことに安心し、私はもう一眠りしようとベッドのなかで静かにスカートを脱いで机に置いた。いまはアカネちゃんが隣にいるというだけで充分。
指に違和感を覚え、見やると指先が濡れたように光っていた。アカネちゃんのリップクリームが取れてしまったのかもしれない。彼女の潤いを分けてくださった偶然に感謝し、私は自分の唇にそのクリームを乗せて薄く延ばした。微香性のようで、蜂蜜の香りが私を満たした。なんだかよく眠れそうな気がする。
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