第6話
「失礼します」
私たちは一階の職員室に向かい、ノックをしてから扉を開けた。すでに教師たちの朝礼は済んでいたようで慌ただしい雰囲気ではなく、談笑なのか情報交換なのか話に花を咲かせている人や、ひとり自分の机について作業を進めている人など、教室と何らかわりのない雑然とした人の営みがそこにはあった。
「ああ、三郷、岬か。どうした?」
自分のデスクで隣人と雑談を交わしていた担任教師が私たちに気がつき、振り返った。
「おはようございます。落し物を拾ったので、届けに」
「ああ」
先生は鍵を受け取ると、その金属板をまじまじと眺めた。
「失礼しました」
ルミちゃんはお辞儀し、任務は果たしたと言わんばかりにさっさと職員室を後にしようと踵を返した。
「ああ、待て待て」
振り返ると先生は机の上に積んでいたいくつかのプリントを手に取り、差し出した。
「来たついでにこれ、教室に持って行って配布しといてくれ」
「はい」
ルミちゃんは恭しくとまではいかないけれど、そのプリントを両手で受け取る。
「ああ、あとこれ、宇野は三Dだから、教室行くついでに渡してやれ」
先生はさきほど受け取ったばかりの鍵をプリントの上に乗せた。ルミちゃんは思考停止したように固まる。
「? どうかしたか?」
「い、いえ……。失礼します」
彼女の思惑は外れ、先生は私たちの代わりに落し物を届けてはくれなかった。ルミちゃんはややショックを受けたような面持ちで鍵を握り締め、一礼して職員室の扉を開けた。私もそのあとに続く。
私たちはしばらく黙ってかつかつと廊下を歩き、階段を目指していた。踊り場に着き、つぎを昇れば教室がある三階だというときにルミちゃんは私にプリントの束を差し出した。
「持ってて。私が届けてくるから」
私が行く、と言おうと思ったら、彼女はそれを視線で制し、プリントをぐっと突き出す。私はおとなしくそれに従い、手にした紙を抱きしめるように持った。階段を上がり、ルミちゃんは三Dに向かう。
彼女が教室の扉をノックしようとしたとき、突然扉が開いて人が出てきた。
「うお。……なに?」
「落し物です」
ルミちゃんが見ず知らずの人に鍵を差し出すと、彼女はそれを受け取って金属板をまじまじと眺めた。そして、教室内を振り返ってクラスの人に呼びかけた。
「おーい。これ、あんたのチャリキーじゃね?」
「えぇ? ……ホントだぁー。マジサンキュー」
そう言って教室から顔をのぞかせた人は金髪でふわふわな癖毛。目つきはつり上がっていたものの喜んでいるからか鋭くはなく、そして背が低い。アカネちゃんじゃない。いくつか特徴として当てはまる部分がないでもないが、私は直感した。彼女はアカネちゃんじゃない。面影もないし、アカネちゃんはマジサンキューなんて言わないし。
「どこにあったのぉ?」
「自転車置き場に」
「全然気がつかなかったぁ」
「それじゃあ」
ルミちゃんは目を伏せて会釈し、入口から離れた。
「マユ。行こうか」
固まって動けなくなるのは私の番だった。あの天啓はなんだったの? いや、わかっていたはずだ。アカネという名がありふれているとは思わないけれど、決して珍しい名前ではないのだから、鍵の持ち主がアカネちゃんじゃないことくらい。なのに私は偶然の一致に舞い上がって期待して。馬鹿みたいだ。
「マユ?」
ルミちゃんがやや前かがみで、珍しく眉尻を下げた表情で私の顔を覗き込んできた。ああ、私は彼女を心配させている。早くなにか返さないと。
「よかったぁ。もうすぐでアカネとオソロのキーホルダーなくすとこだったぁ」
三D教室から、鍵の持ち主の嬌声が聞こえてきた。
「ええ? ひっど。もっと大切に扱えよ」
「ごめんってぇ」
私は戦慄く体を必死に抱きしめ、いまにも駆け出してしまいそうな自分を抑え込んだ。
「マユ?」
「ううん。大丈夫。行こ?」
ルミちゃんは納得しかねる、といった表情だったけれど、それでもこの教室の前から早く去りたいと思っていたのか、教室に向けて歩き出した。私は息を整えてそのあとに続く。そして、開いたままの扉の前を通過するとき、ちらと教室内を見た。さきの金髪の人を目印に、周りに集う人を確認した。
アカネちゃんはそこにいた。鍵の持ち主よりも頭何個ぶんも大きな彼女は切れ長の目をさらに細めて笑い、金の髪を撫でつけた。そんな彼女自身の髪は濃いとも明るいとも言い難い茶髪がゆるく波打ったような癖っ毛。なんということだろう。こんなことがあるのかと私は震えが抑えきれなくなった。私が思い描いていたそのままの姿に成長していたのだ。彼女はあのアカネちゃんだ。私は喜びのあまり教室に飛び込んでアカネちゃんに抱きつきたい衝動を抑え、その代わりに頬を濡らした。だというのに膝は笑い出し、まともに立っていることもできなくなって廊下にへたりこんだ。
「マユ?」
ルミちゃんが振り返り、私のもとに駆け寄ってきた。
「マユ? どうしたの? 大丈夫?」
私はどの質問にも頭を振って答えることしかできなかった。
「マユ? お腹痛いの? どうしたの?」
痛くない。悲しくもない。ただ嬉しかった。アカネちゃんに会えたことが。私が想い人の顔を忘れてしまうほど長い年月が経っても、アカネちゃんの笑いかたはあのころと変わっていなかったことが。
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