第3話 川沿いの春

 四月の始め頃。江の川沿いはまばゆいほど桜が輝いて見えた。吹く風はまだ少し肌寒いが、温かい日差しが街を照らし、いよいよ春の訪れを感じさせる様な気候にやっとなったと云えるだろう。

 桜並木の向こうには線路があり、その向こうには大きな川が流れている。

「―綺麗ね」

「ん?何が?」

 そう答えた途端俺の脚は悲鳴をあげた。

「痛てっ」

 目の前で仁王立ちしているのはふくれっ面簗瀬やなぜマナカだ。マナカはすぐ隣の家に住む一級下の幼馴染で、なかなか可愛らしい子だ。保育所時代からいつも一緒だったから、マナカは俺を兄の様に慕ってくれた。

 そんなマナカは、いかにも機嫌が悪そうな顔で俺の脚を踏んずけた。なにも踏まなくてもと思いつつ、俺は「何すんだよ」とマナカに訴えかけた。

「清彦さん。ボーっとしすぎよ。さっきから無言だと思ったら、やっと帰ってきた言葉が『ん?何が?』って、何よ」

「悪かったって。…だからそんなに怒るなって」

 そう云うと、マナカは鼻息荒く「怒りますっ」と俺の顔を覗きこんだ。

「そんなに鼻息荒くちゃ、可愛い顔が台無しだぞ」

「かっ、可愛いって……好き」

 マナカは少し照れたように頬を赤くして、少し顔をそむけて続ける。さっき何か聞こえた様な気がするが、気のせいだろうか。

「私だって…無視されるの嫌だもの」

 可愛い。可愛すぎる。何だよコイツ可愛すぎだ。嗚呼、守ってやりたい。

「…ごめん。最近忙しくって」

「寝れてないの?」

 マナカは心配げに俺の顔を見上げた。

「いや。ちゃんと寝れてる」と、俺は隈の出来た顔で答える。全く説得力がない。これじゃァ、夜更かしに憧れる中学生が、生活習慣調査で保険医から注意を受けた際、四五時間しか寝てないのに、見るからに体調悪そうなのに「ちゃんと寝てますって」と、授業中に睡眠時間を充てると云う見え透いた手口と一緒だ。

「寝れて…ないのね?」

「…ああ」

「どれくらい?」

「一徹」

「本当は?」

「…三徹。大丈夫さ。汽車の中で寝てるから。」

「汽車って、三十分程度じゃないの。もう…無理はダメよ?汽車の中で寝るのは睡眠時間に入らないからね?」

 マナカは呆れた顔で云った。

「それに、まだ四月よ?早すぎるんじゃない?受験勉強」

「まだ四月なんて甘いもんじゃないぞ?」

 そうだ。まだ四月ではなくて、もう四月だ。受験まであと一年も無い。だから手を緩める事なんてできないんだ。

 俺の家・伊賀和志家は旧家である為、高学歴で立派な人物像を求めてきた。代々名のある人材を輩出し、軍隊の将校や政府の役人、財閥の取締役から会社の社長など、多くの成果を挙げてきた名家だ。特に嫡男は家督を継ぐ者として人並み以上の成果をもと求められる。いや、強いられる。

 このご時世に生まれた俺も例外ではなかった。明治になってから伊賀和志家の嫡男は、皆東京の帝國大學へ進学し、そこからどんどん立派な成功を収める人材となっていった。俺も来年にはこの学校への進学が強いられる。

 俺は第二十代の伊賀和志家の当主となる訳で、当然家族や立派すぎる親戚からプレッシャーがかかる。だから下手な真似は出来ない。絶対に失敗は許されないのだ。

 勿論その狭き門に這入れるのはごく僅か。しかしながら未だに俺の判定はBを脱出できない。国内最高峰の帝國大學には到底及ばない。

 時間が足りない。もっと削らないと。

「俺は…絶対に合格しないといけないんだ」

 そう云うと、マナカはフゥーっとため息を吐いた。

「それで体調崩しちゃ元も子もないでしょ。私も清彦さんのお家が身内にはとてつもなく厳しいって事は知ってる。あんなに優しい小母様も豹変しちゃうんだから……でも、無理しないで。約束よ?」

「ああ。解ってるって」

 俺は一つ、解っている。そんな事は十分承知だ。

「そうだ。今日は月曜日だし早いでしょ?帰りに温泉に行きましょうよ。久しぶりに。偶には息抜きも大切よ」

「温泉かァ…」

 実は駅のすぐ近くに温泉があった。昔はマナカと遊ぶたびに温泉に這入って帰ったものだが、ここ数年はそんな事は殆どなかった。

「でもなァ…帰って勉強しないとなァ…」

「んもうっ!清彦さんの馬鹿っ。ガリ勉!ロリコン!」

 突然マナカは罵声を浴びせてきた。云わんとしている事は確かに解る。でもなんだよロリコンって。

「いやいやいや、待てよ。ロリコンって如何云うことだよ!?」

「ロリータコンプレックス。所謂幼女趣味よ」

 マナカは澄ました顔でそう答えるが、そう云う意味ではない。

「知ってるわ!そうじゃなくて、俺が何故ロリコンなんだよ」

「え?好きでしょ?小学生」

「はっ…はぁっ?好きじゃねぇし」

「じゃぁ、何が好きなのよ?」

「おっ、お前の方が…断然可愛いじゃないか…」

 あっと思った時にはもう遅かった。ついつい思っている事が口に出てしまった。

 恐る恐るマナカの顔を見てみると真っ赤だった。

「いっ、一緒に温泉行ってくれなきゃ、学校で…ロリコンって云いふらすから。ウソでもホントでも、いい…ふりゃすから…」

 マナカの真っ白な肌が真っ赤に染まって熱を帯びている。…可愛すぎかよ。

「そんな顔されたら…俺まで恥ずかしいじゃないか。ホラ…行くぞ。汽車に遅れる」

 そう云って俺は恥ずかしさに顔を背けながら、ショート寸前のマナカの手を引いて先へと川沿いの桜の下を進んで行った。

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